平成の怪物・松坂の最後の一球2021年10月20日 16時23分

 平成の怪物・松坂大輔がグラウンドを去った。いつも笑顔を絶やさず、礼儀正しく、スター性抜群のダイスケがいなくなって、プロ野球界は寂しくなった。
 ぼくらの時代の投手の傑物は、古くは浪商の怪童・尾崎行雄、次は作新学院の怪物・江川卓である。
 法政の江川のピッチングは、神宮球場で見たことがある。高校時代と違って、「手抜き」とわかるボールが多かった。だが、相手チームの4番打者には本気をだして、三球三振に切って捨てていた。あるチームの4番打者・S選手はプロ志望だったが、江川のボールにかすりもせず、とうとうドラフトにかからなかった。
 一方、東大の選手にはほとんどが手抜き。だからというわけでもないだろうが、小柄なセンター・H選手は江川に強く、後に東大野球部の監督になった。こうして思い出していると、多摩川の上流の彼の実家まで取材に行ったことがなつかしい。
 高校時代の江川はものすごかったらしい。某新聞社の先輩記者によると、練習試合だろうが、江川の登板の日になると、宇都宮支局の記者たちはそろってネット裏に集まったという。
 今日こそ、江川は27人の打者に対して、27個の三振をとるぞ、あいつならオール三振の完全試合をやってくれるぞ。各社の記者たちはそんな話で盛り上がっていたとか。もちろん、その瞬間に立ち会って、歴史的な記事を書く気でいたのだ。
「江川の投げるボールは恐ろしかった。速いのなんの、あんなの見たことがない。まばたきする間もなく、ビュッときて、ネット裏にいても怖いんだから」
 ぼくのなかで、投手ナンバーワンは怪物・江川という確信がくつがえったのは、1998年、夏の甲子園の松坂をテレビで観ていたとき。解説者が「江川君よりも、松坂君の方が上でしょう」と言ったのだ。甲子園、そしてプロ入り後の二人の記録を比べると、解説者の見立て通りだった。
 ピッチングとは別に、ぼくは松坂の功績のひとつに、横浜高校のブランド価値を大きく向上させたことを上げておきたい。
 1980年、同校の愛甲猛が夏の甲子園の決勝戦で、早実のエース・荒木大輔と投げ合って優勝したころ、横浜高校は不良が多い学校と言われていた。(ウソだとおもうなら、You Tubeにある愛甲のインタビューをご覧になるとよい)
 愛甲が後輩に暴力をふるい、それが刺(密告)されて、横浜高校野球部が高野連から制裁処分を受けた騒ぎがあった。
 その件の取材で、当時の渡辺元智(もとのり)監督に話を聞いたことがある。渡辺さんは「問題の生徒はいっぱいいます。わたしはそういう手に負えない生徒たちを、野球を通じて教育したい。野球にはそんな力があると信じています」と熱っぽく話してくれた。松坂はいい人に育てられた。
 さて、横浜高校のいまはどうだろう。校内の状況は知らないが、横浜高校と言えば、松坂大輔である。彼ひとりだけの力ではないにしても、プロ野球界でも横浜高校はブランドになっている。同校の出身者たちも、生徒たちも、母校に誇りを持っているのではなかろうか。校内の雰囲気も、世間の好感度も上がっているとおもう。
 ここで時計の針をぐるりと逆回転すると、この関係性はだれかに似ている。そう、甲子園の優勝投手にして、世界のホームラン王の王貞治と早稲田実業のことが思い浮かぶ。早実と言えば、荒木大輔や清宮幸太郎ではなく、いまも王貞治である。早実のブランド力は、王さんに負うところが大きいのではあるまいか。
 ぼくは王さんがホームランの世界新を記録した時の臨時増刊号の取材をしたこともある。756号が出たときは、後楽園球場の記者席にいた。
 王さんは、まさに「実るほど頭(こうべ)を垂れる稲穂かな」を地でいく人である。テレビで見るしか知らないが、松坂も威張る人ではない。そして、ふたりとも「手抜き」をしない。ぼくの目には、どことなく似ているように映る。
 もうひとりの怪物・江川は、大学に進学した後、よく手抜き投法とか、省エネ投法と言われたものだ。逆に、松坂は練習でも投げまくるタイプだった。王さんも現役時代は夜遅くまで、猛烈に素振りを繰り返していた。
 最後のマウンドで、松坂が同じ横浜高校の後輩である日本ハム・後藤健介に投じた、選手生活を締めくくるボールのスピードは渾身の116キロ。
 からだはボロボロで、中学生のピッチャーよりも遅い116キロ。しかし、最後の一球も、平成の怪物は「手抜き」をしなかった。

■短い草むらに足を踏み込むと、足元からバッタが飛び立って行く。バッタには悪かったが、追いかけて、追いかけて、追いかけて、写真を撮らせてもらった。