資源ごみ回収の「拾い物」2025年01月27日 22時12分

 思いがけない拾い物をした。
 昨日の日曜日は校区内一斉資源ごみ回収の日。朝の8時過ぎ、ごみを出す場所にひと月分の新聞紙、雑紙、空き缶を持って行ったら、枯れ草の上にきちんと紐で結んであった本の束が目に入った。ごくシンプルな装丁で、小さな活字の書名から専門書の類だとおもった。
 ぼくもここで大事な本を何度か処分したことがある。見捨てられて、ごみになった本をみると胸が痛む。いったいどんな本なのか、もっとよく見たくて、その場にかがみこんだ。
 「家事事件」に関する本だった。耳慣れない言葉だが、家庭で起きる事件、たとえば離婚訴訟とか、家庭内暴力、性暴力、子どもの親権などに関する紛争とか、たぶんそんなところだろうとおもった。
 下の方にも同じような系統の専門誌が重なっていて、ところどころに付箋が貼ってある。数えたら10冊もあった。
 どうやらこの分野に精通している人が勉強の資料にしていたらしい。ぼくは司法の方面にはまるっきり専門外だが、「こんな本があるのか。捨てるのはもったいないな。読んでみよう」とおもった。
 なぜ、そんな気持ちになったのか。「ひらめき」とか、「直感」としか言いようがない。
 自分の知らない家庭内のさまざまな苦闘がこの本のなかに書かれているはずだ。表面から眺めるだけではわからない、「家のなかのせっぱ詰まった事件」がいくつも紹介されているに違いない。その扉を開けて、なかに入ってみたいという衝動を抑えきれなかった。そして、こうして目に留まったのも、この本の束がぼくを招き寄せたような気がした。
 あるテーマに関心を持って、アンテナを張っていると、求めている情報が向こうから飛び込んでくるのはよくあることだ。逆に今回は、いまのぼくが何に興味があるのか、何を知りたがっているかを教えられたようである。
 昨日のごみのなかには、シューベルトやモォーツァルトなどの立派なピアノ教本もまとめて出されていた。この団地でピアノを弾く音はどこからも聴こえないので、ここからは想像するしかない。
 おそらくその人の以前いた住まいにはピアノがあったのだろう。なんらかの事情でピアノを手ばなして、ここに引っ越すことになり、とうとう大切に残していたピアノの教本まで見切りをつけた、そんな物語が浮かんだ。
 一斉資源ごみ回収の日には、まだ十分に使えるものがいろいろ出てくる。ぼくはごみを漁る趣味はないが、自分の生活とは縁のない希少なモノを目にするたびに、それを捨てた人はどこの部屋に住んでいて、どんな人で、どんな気持ちだったのだろうかとつい想像してしまう。

■散歩の途中にあるミカンの木。畑の隅っこに数本だけ植えられている。今年は実の数が少ないようだ。裏作だと聞いている。