ありがとう、河上さん ― 2021年01月16日 16時40分

朝食後に西日本新聞の朝刊を開けて、訃報欄を見た。すると、河上信行氏の名前が。
思わず、えーっ、と声が出た。
彼とは、ぼくが大好きな熊本県あさぎり町の小さな蔵元・高田酒造場の仕込み蔵を設計してくれたという仲である。あれから20年近くになる。
河上さんは歴史的な建築物の専門家として著名で、佐賀県の吉野ケ里遺跡の管理にも携わっていた。
いちばん強烈な印象は、ホンモノを見分ける眼力の確かさである。建築や伝統工芸品だけでなく、人を見る目もそうだったとおもう。
たとえ相手が顧客であろうとも、言うべきときには、歯に衣着せぬ態度が小気味よかった。道は違っても同じプロとして、高田さんの信頼は絶大だった。河上さんも高田さんの手づくり焼酎にほれ込んでいた。
創業100周年の記念事業として完成した仕込み蔵は、シンプルな黒一色の美観、機能性、維持管理のしやすさを兼ね備えていて、将来修正する可能性まで織り込まれている。単に球磨焼酎を仕込む作業場としてだけではなく、二階には試飲室、各種の作業部屋、一階を見下ろす回廊もあって、ここは球磨焼酎の文化を発信する拠点にも、交流の場にもなっている。
あるとき、「河上さんの仕事はいいなぁ。建てたものがいつまでも残るから」と言ったら、「いや、残らないんですよ。建物は壊されますからね。建築は破壊の歴史ですよ」という言葉が返って来た。
逆説めくが、だからこそ頼まれた仕事にはいっさい手抜きすることなく取り組んでいたのだろう。あの仕込み蔵にも、彼の思想と個性がいかんなく発揮されている。
河上さんは、ぼくたち友人にとっても、忘れられない、胸の張れる仕事をしたのだ。もう一度、会いたかった。66歳の早過ぎる旅立ちが残念でならない。
思わず、えーっ、と声が出た。
彼とは、ぼくが大好きな熊本県あさぎり町の小さな蔵元・高田酒造場の仕込み蔵を設計してくれたという仲である。あれから20年近くになる。
河上さんは歴史的な建築物の専門家として著名で、佐賀県の吉野ケ里遺跡の管理にも携わっていた。
いちばん強烈な印象は、ホンモノを見分ける眼力の確かさである。建築や伝統工芸品だけでなく、人を見る目もそうだったとおもう。
たとえ相手が顧客であろうとも、言うべきときには、歯に衣着せぬ態度が小気味よかった。道は違っても同じプロとして、高田さんの信頼は絶大だった。河上さんも高田さんの手づくり焼酎にほれ込んでいた。
創業100周年の記念事業として完成した仕込み蔵は、シンプルな黒一色の美観、機能性、維持管理のしやすさを兼ね備えていて、将来修正する可能性まで織り込まれている。単に球磨焼酎を仕込む作業場としてだけではなく、二階には試飲室、各種の作業部屋、一階を見下ろす回廊もあって、ここは球磨焼酎の文化を発信する拠点にも、交流の場にもなっている。
あるとき、「河上さんの仕事はいいなぁ。建てたものがいつまでも残るから」と言ったら、「いや、残らないんですよ。建物は壊されますからね。建築は破壊の歴史ですよ」という言葉が返って来た。
逆説めくが、だからこそ頼まれた仕事にはいっさい手抜きすることなく取り組んでいたのだろう。あの仕込み蔵にも、彼の思想と個性がいかんなく発揮されている。
河上さんは、ぼくたち友人にとっても、忘れられない、胸の張れる仕事をしたのだ。もう一度、会いたかった。66歳の早過ぎる旅立ちが残念でならない。
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