「古書の森日記」に想う2021年04月17日 23時07分

 夜来からの雨が上がった午前中、新緑に彩られた室見川をわたって、足の向くままブックオフに行った。
 いつものように100円の文庫本コーナーの背表紙を、ア行の作者の名前からワ行までたどるように見ていく。
 いま売れているらしい作家たちの本の多いこと。それも新刊ピカピカがズラリ。こんなにどんどん出版して、売れない在庫の山を次々に古本業界にまわして、出版界は大丈夫だろうか。
 本もまたモノとして、すっかり消耗品になったらしい。ということは、作家も消耗品になったのだろうか。その勢いはますます加速しているような気がしてならない。
 取り立てて、買いたい本はない。人だかりしているマンガコーナーを横目に、さっさと店を出た。
 学生時代に親しんだ古本屋には、歴史を重ねた古本屋ならではの落ち着いた味わいがあった。大学に通う大通りの左右には、小は間口2間ほどから、大は4、5間ほどの古本屋が並んでいて、ガラス窓の奥の飾り棚には「××全集」、「××選集」の分厚い本の束がいくつも積まれていた。
 カネが入ったら、あの全集を買ってやるぞ。そうおもいながらも、ついに実現しなかった。それらの全集の束を見つめていた学生はぼくだけではなかった。
 古本屋で手にした本の巻末のページには、見ず知らずの先輩諸兄のサインや読後の一文が書き込まれていたり、蔵書版が押されている本もあった。
 こうして一冊の本がぼくの手に来るまでの道のりを想像するだけでも、知的な興奮を覚えたものだ。田舎者のぼくにとって、学生街の古本屋は「これから知る教養」との出会いの場だった。
 ずっと読み継がれている本は、自分も読まなければとおもい、専門書の棚の前ではその測り知れない学問の奥の深さに圧倒され、いま話題の新刊書を見つけると、シメタとおもった。
 古本と言えば、亡くなった友人のノンフィクション作家・黒岩比佐子さんのことを想い出す。彼女のブログ『古書の森日記 by Hisaco』には多くのファンがついていた。
 ひところ福岡市内で暮らしていて、一緒に仕事をしたこともある。狭い自宅にも来てくれた。出身地の東京に戻ってからは、福岡に来るたびに、ぼくの事務所に立ち寄って、帰りの飛行機の時刻いっぱいまで、彼女が書いている原稿の話で盛り上がった。贈ってくれた本はいまも手元においている。
 彼女のことはとても軽々しく書けない。
 最後の作品になった『パンとペン 社会主義者・堺利彦と「売文社」の闘い』の発行は2010年10月7日。彼女がすい臓ガンで亡くなったのは翌11月17日。その後で、読売文学賞「評論・伝記賞」が受与された。
 福岡にいたころに着想を得た処女作『音のない記憶 ろうあの天才 写真家井之上孝治の生涯』も、『「食道楽」の人 村井弦斎』(サントリー学芸賞)も、無名の彼女が自分の意思で書きあげた原稿を持って、出版社を飛び込みでまわって、それぞれ文芸春秋と岩波書店の編集者から認められて出版された。
 いま、そんな書き手がどれほどいるだろうか。
 五木寛之氏からの信頼も厚く、彼の『百寺巡礼』の詳細な資料を集めて、書きやすく整理したのも黒岩さんである。慶應義塾では女子ソフトテニス部のキャプテンをして、そちらの方でも大活躍された。
 「キャプテンだから、がんばらないと。ランニングでも、どんなにきつくても、絶対に先頭を走っていました」と言っていた。
 飾らず、威張らず、地道に、コツコツと励み、体力の限界まで、ベストを尽くす人だった。一日中、国会図書館もこもって、吐きそうになるのを我慢して、古い新聞のマイクロフィルムを読み漁っていたと聞いたこともある。取材で海外にも足を伸ばしていた。あれほど徹底的に調べあげる人に会ったことがない。
 黒岩さんが亡くなったのは52歳。
 「子どものころから、いつか自分の本を書きたいというのが夢でした。わたしが死んでも、一冊でもいいから、ずっと後まで残る本を書きたいんです」。よくそう言っていた。
 彼女は『編集者 国木田独歩の時代』で角川財団学芸賞を受賞している。本格的に書き始めてからの短い時間に、それもノンフィクションの分野で、これだけの実績を納めたのだから、すごいとしか言いようがない。本当に、これからの活躍が期待されていた友だちだった。
 黒岩さんの人柄はブログを読めばわかる。
 その一つひとつが命を削った作品になってしまった。幸いなことに、彼女のブログは、彼女の志と共に、友人たちがずっと大切に受け継いでいる。
 彼女の最後のブログ(下記のアドレス)もそのまま残っている。読むのは辛い。だが、ときどき開いて、笑顔が似合う、元気なときの黒岩ちゃんに会いたくなる。
http://blog.livedoor.jp/hisako9618/archives/2010-10.html