銭湯が恋しい ― 2021年06月04日 15時02分

夜来の雨が降っている。机の横の窓をあけると半袖では少し肌寒い。こうして独りでいると、長いあいだ新型コロナで人に会っていないせいか、裸のつきあいができる銭湯に行きたくなった。よく見かける大型のスーパー銭湯ではなく、学生時代にお世話なった、あの富士山の絵が描いてある町なかの銭湯である。
東京に出て、最初の下宿は大学の北門から歩いて数分のところにあった戸建て住宅の2階の3畳ひと間。洗面所とトイレは1階で、あのころはキッチン、バス付きの部屋なんて、夢のまた夢だった。
隣の部屋との仕切りは茶色のべニア板が1枚。ときどき、ブゥーッと屁のもれる音が聞こえてきた。
なんだ、なんだ、いまの音は。こいつは屁も放(ひ)れないぞ。
ぼくはベニヤ板にそっと触って、よくもまぁ、東京人はこんなに狭い部屋をつくって、田舎の人間から大枚のカネをとって平気なものだと呆れた。
夕方になると洗面器にタオル、石鹸を入れて、下駄を鳴らしながら、近くの銭湯に行くのが日課になった。
なぜだかわからないが、銭湯では知らない人から、よく声をかけられた。そのとき、たいてい「君は九州男児だろ」と言われるのだ。それから「一緒に、メシを食おう」と誘われて、一度も食べたこともない鳥レバーの鍋やビールにありついたことも珍しくなかった。
ある日の夕暮れ、髪の毛を短く刈り込んだ50歳ほどの小柄な人から、同じように声をかけられた。
「×××の学生さんでしょ。もう、食事はすんだの? だったら、わたしのうちにおいでなさい」
家に誘われたのは初めてだった。都電の終点から神田川の横の路地に入り、焼き鳥、ホッピー、おでんなどと書かれた赤ちょうちんの前を通り過ぎて、貸家とおもわれる小体な家に上がった。
道々、話をしながらわかったのは、この人はぼくが通っていた大学の学生食堂の料理長だったのである。
あのころの学生食堂は、たしかカレーが30円か、35円だったとおもう。薄い豚の油肉と玉ねぎが数切れ入っているだけで、ほとんどはカレーの黄色い汁だった。正直言って、学食のメニューの味は上京したばかりのぼくの舌には合わず、どれもあまりおいしくなかった。
そのおいしくない料理をつくっている親分の家に誘われたのだ。
そこで出された料理は覚えていない。だが、小さな食卓に並んだ小鉢や皿はごくふつうの家庭料理で、うす味でおいしかった。すすめられて飲んだ日本酒も旨かった。
もうお名前も忘れてしまったが、その料理長は空手をやっていて、5段とか、6段の腕前ということだった。
「前から歩いてくる人に殺気を感じて、すれ違った後で、失礼ですが、武道をおやりじゃないですか、と尋ねたら、剣道をやっています。あなたも何か武道をやっていらっしゃるでしょ、と言われたことがあってね。わかるんだよね、上段者になると、そういう気配が」
そういう自慢話を聞きながら、食卓からほんの少し離れたところに座って、黙っておとなしく編み物をしていた娘さんが、下を向いたままクスリとわらった。色白で、ふっくら丸い顔だちのかわいい人だった。
実は部屋に入ったときから、彼女のことが気になって仕方なかった。ぼくとほとんど歳が変わらない20歳前後だったろう。服装も若い女性にしては質素で、控え目なたたずまいは、とても東京の人とはおもえなかった。どこかなつかしい親しみを感じた。
見たところ、父と娘のふたり暮らし。そして、ぼくが食べたのは料理長が用意したものではなく、ぜんぶ彼女の手料理だった。
年ごろのかわいい娘がひとりでいるのに、自分の勤め先に入学してきた田舎出のぼくを、自分の家まで誘ってくれた。酒まで飲ませてくれた。
そんなに親切にしてもらったのに、ぼくは最後まで彼女の顔をまともに見ることもなく、名前も聞かず、口もきかず、食べて、飲んで、そのまま辞去した。
あのときのぼくは自分で仕立てた九州男児のイメージを、肩に力を入れて貫き通そうとしていたのだろうか。
■写真は、梅雨の室見川にポツンとひとりでいるオスのコガモ。
東京に出て、最初の下宿は大学の北門から歩いて数分のところにあった戸建て住宅の2階の3畳ひと間。洗面所とトイレは1階で、あのころはキッチン、バス付きの部屋なんて、夢のまた夢だった。
隣の部屋との仕切りは茶色のべニア板が1枚。ときどき、ブゥーッと屁のもれる音が聞こえてきた。
なんだ、なんだ、いまの音は。こいつは屁も放(ひ)れないぞ。
ぼくはベニヤ板にそっと触って、よくもまぁ、東京人はこんなに狭い部屋をつくって、田舎の人間から大枚のカネをとって平気なものだと呆れた。
夕方になると洗面器にタオル、石鹸を入れて、下駄を鳴らしながら、近くの銭湯に行くのが日課になった。
なぜだかわからないが、銭湯では知らない人から、よく声をかけられた。そのとき、たいてい「君は九州男児だろ」と言われるのだ。それから「一緒に、メシを食おう」と誘われて、一度も食べたこともない鳥レバーの鍋やビールにありついたことも珍しくなかった。
ある日の夕暮れ、髪の毛を短く刈り込んだ50歳ほどの小柄な人から、同じように声をかけられた。
「×××の学生さんでしょ。もう、食事はすんだの? だったら、わたしのうちにおいでなさい」
家に誘われたのは初めてだった。都電の終点から神田川の横の路地に入り、焼き鳥、ホッピー、おでんなどと書かれた赤ちょうちんの前を通り過ぎて、貸家とおもわれる小体な家に上がった。
道々、話をしながらわかったのは、この人はぼくが通っていた大学の学生食堂の料理長だったのである。
あのころの学生食堂は、たしかカレーが30円か、35円だったとおもう。薄い豚の油肉と玉ねぎが数切れ入っているだけで、ほとんどはカレーの黄色い汁だった。正直言って、学食のメニューの味は上京したばかりのぼくの舌には合わず、どれもあまりおいしくなかった。
そのおいしくない料理をつくっている親分の家に誘われたのだ。
そこで出された料理は覚えていない。だが、小さな食卓に並んだ小鉢や皿はごくふつうの家庭料理で、うす味でおいしかった。すすめられて飲んだ日本酒も旨かった。
もうお名前も忘れてしまったが、その料理長は空手をやっていて、5段とか、6段の腕前ということだった。
「前から歩いてくる人に殺気を感じて、すれ違った後で、失礼ですが、武道をおやりじゃないですか、と尋ねたら、剣道をやっています。あなたも何か武道をやっていらっしゃるでしょ、と言われたことがあってね。わかるんだよね、上段者になると、そういう気配が」
そういう自慢話を聞きながら、食卓からほんの少し離れたところに座って、黙っておとなしく編み物をしていた娘さんが、下を向いたままクスリとわらった。色白で、ふっくら丸い顔だちのかわいい人だった。
実は部屋に入ったときから、彼女のことが気になって仕方なかった。ぼくとほとんど歳が変わらない20歳前後だったろう。服装も若い女性にしては質素で、控え目なたたずまいは、とても東京の人とはおもえなかった。どこかなつかしい親しみを感じた。
見たところ、父と娘のふたり暮らし。そして、ぼくが食べたのは料理長が用意したものではなく、ぜんぶ彼女の手料理だった。
年ごろのかわいい娘がひとりでいるのに、自分の勤め先に入学してきた田舎出のぼくを、自分の家まで誘ってくれた。酒まで飲ませてくれた。
そんなに親切にしてもらったのに、ぼくは最後まで彼女の顔をまともに見ることもなく、名前も聞かず、口もきかず、食べて、飲んで、そのまま辞去した。
あのときのぼくは自分で仕立てた九州男児のイメージを、肩に力を入れて貫き通そうとしていたのだろうか。
■写真は、梅雨の室見川にポツンとひとりでいるオスのコガモ。
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