暑気払いに、冷や汁をつくる ― 2021年06月29日 14時11分

よし、材料はみんなあるな、やるか。
思いたって、冷や汁をつくった。
蒸し暑くて、気力が続かない。こんなときは、食う、寝る、からだを動かす、の三つが気力回復の手段になる。側に話し相手がいれば、気分転換になるのだが、ぼくのようにひとりで留守番生活をしていると、自分で何かしらの変化をつくっていくしかない。手っ取り早いのは料理である。
冷や汁の作り方は簡単だ。
ぼく流のやり方を乱暴にいうと、ピーナッツ、白ごま、焼いたアジの開きの身、それに味噌をすり鉢ですりつぶして、すり鉢の内側に均等にこすりつける。これをガスコンロの上に逆さまに置いて、火であぶる。
味噌に焼き色がついたら、昆布の出汁で溶いて、刻んだキューリ、シソ、ミョウガを入れて、冷蔵庫で冷やすだけ。ご飯にぶっかければ、うまくて、栄養もたっぷりで、おかわりしたくなる。
一般的には、手でつぶした豆腐も入れるのだが、わが家では入れない。ちなみに、ぼくはピーナッツと白ゴマの下処理にはミキサーを使っている。
ぼくが初めて冷や汁を食べたのは、中学にあがったとき。母の郷里の波当津で、祖母が昼飯につくってくれた。
その日の朝方、いちばん年上の叔父や従兄たちと一緒に、海辺まで散歩に行った。防波堤に着くと、叔父はポケットから釣り針と糸をとりだして、そのへんにあった細い竹に結んで、簡便な釣り竿をつくった。小遣いを持たない子どもころ、ぼくたちもそうやってつくっていた。オモリは古クギや小石で代用し、ウキは木っ端をくくりつけていたものだ。
「○○兄ちゃん、いまから魚釣りをするの?」
「ああ、婆さんに、冷や汁をつくってもらおう」
潮がひいた防波堤の下のコンクリートの床には、あちこちで巻貝がゴソゴソと動きまわっていた。ヤドカリである。いろんな形や大きさの巻貝を仮の家にしたものがいっぱいいた。
叔父はそのひとつをつまむと小石で貝の殻を割った。そして、裸になったヤドカリの固い頭をむしり捨てて、やわらかい下半身を針につけると、海に向かって軽く竿をふった。たちまち10センチ前後の薄いピンク色やクリーム色、青っぽい雑魚がぽんぽん釣れた。魚たちはまったくスレていなくて、百発百中の入れ食いである。
「こんな小さな魚で、冷や汁をつくるの?」
「おう。白身の魚だから、冷や汁にするとうまいんじゃ」
このとき、ぼくはヤドカリが魚釣りのエサになることを覚えた。魚たちは海の生き物を食べている。だから海に行けば、そこには魚たちの好物のエサがいる。そんな生き物たちの関係も、そうやって体験で学んだものだ。実際に子どもころ、釣りのエサなんて、買ったことがなかった。
波当津の防波堤は、いちばん年の若い叔父の身近な漁場だった。そのころの防波堤は先端の下が波の力でえぐれていて、ちいさな洞穴のようになっていた。叔父はパンツ一枚になると、水中メガネをつけて、右手には手製の銛を持って、堤防からザブーンと飛び込むのである。
細かな白い泡が浮き上がってくるなかを、叔父は両脚の裏で水を蹴りながら、ぐんぐん防波堤の下に潜っていく。その様子は透き通った水の中ではっきり見えた。そして、上がってくるときは、30センチオーバーのイガメ(ブダイ)を仕留めているのだった。
叔父たちは「波当津の海は、俺の生け簀だ」と言っていた。沖の磯であろうが、海底の岩場の構造と魚の習性を知り尽くしていて、どこに魚がいるか、手に取るように知っていた。
その息子たちを育てた祖父は、「じいちゃんはな、海に潜って、長く息をつぐために、子どもころから道を歩くときには電信柱と電信柱の間はずっと息を止めて、どこまで我慢できるかやっていたんだぞ」と幼かったころのぼくに教えてくれた。
若いころは軽く15尋(ひろ)も潜って、イガメをいっぺんに3匹、獲ったこともあったという。2匹は並んでいるところを銛で一刺にし、驚いて逃げた一匹は自分をめがけてきたので、わきの下でつかまえたと言っていた。
ゲームよりも数倍も、数十倍もおもしろい贈り物をたくさんくれて、みんないなくなってしまった。
ぼくがつくる冷や汁には、いろんな味がこもっている。
思いたって、冷や汁をつくった。
蒸し暑くて、気力が続かない。こんなときは、食う、寝る、からだを動かす、の三つが気力回復の手段になる。側に話し相手がいれば、気分転換になるのだが、ぼくのようにひとりで留守番生活をしていると、自分で何かしらの変化をつくっていくしかない。手っ取り早いのは料理である。
冷や汁の作り方は簡単だ。
ぼく流のやり方を乱暴にいうと、ピーナッツ、白ごま、焼いたアジの開きの身、それに味噌をすり鉢ですりつぶして、すり鉢の内側に均等にこすりつける。これをガスコンロの上に逆さまに置いて、火であぶる。
味噌に焼き色がついたら、昆布の出汁で溶いて、刻んだキューリ、シソ、ミョウガを入れて、冷蔵庫で冷やすだけ。ご飯にぶっかければ、うまくて、栄養もたっぷりで、おかわりしたくなる。
一般的には、手でつぶした豆腐も入れるのだが、わが家では入れない。ちなみに、ぼくはピーナッツと白ゴマの下処理にはミキサーを使っている。
ぼくが初めて冷や汁を食べたのは、中学にあがったとき。母の郷里の波当津で、祖母が昼飯につくってくれた。
その日の朝方、いちばん年上の叔父や従兄たちと一緒に、海辺まで散歩に行った。防波堤に着くと、叔父はポケットから釣り針と糸をとりだして、そのへんにあった細い竹に結んで、簡便な釣り竿をつくった。小遣いを持たない子どもころ、ぼくたちもそうやってつくっていた。オモリは古クギや小石で代用し、ウキは木っ端をくくりつけていたものだ。
「○○兄ちゃん、いまから魚釣りをするの?」
「ああ、婆さんに、冷や汁をつくってもらおう」
潮がひいた防波堤の下のコンクリートの床には、あちこちで巻貝がゴソゴソと動きまわっていた。ヤドカリである。いろんな形や大きさの巻貝を仮の家にしたものがいっぱいいた。
叔父はそのひとつをつまむと小石で貝の殻を割った。そして、裸になったヤドカリの固い頭をむしり捨てて、やわらかい下半身を針につけると、海に向かって軽く竿をふった。たちまち10センチ前後の薄いピンク色やクリーム色、青っぽい雑魚がぽんぽん釣れた。魚たちはまったくスレていなくて、百発百中の入れ食いである。
「こんな小さな魚で、冷や汁をつくるの?」
「おう。白身の魚だから、冷や汁にするとうまいんじゃ」
このとき、ぼくはヤドカリが魚釣りのエサになることを覚えた。魚たちは海の生き物を食べている。だから海に行けば、そこには魚たちの好物のエサがいる。そんな生き物たちの関係も、そうやって体験で学んだものだ。実際に子どもころ、釣りのエサなんて、買ったことがなかった。
波当津の防波堤は、いちばん年の若い叔父の身近な漁場だった。そのころの防波堤は先端の下が波の力でえぐれていて、ちいさな洞穴のようになっていた。叔父はパンツ一枚になると、水中メガネをつけて、右手には手製の銛を持って、堤防からザブーンと飛び込むのである。
細かな白い泡が浮き上がってくるなかを、叔父は両脚の裏で水を蹴りながら、ぐんぐん防波堤の下に潜っていく。その様子は透き通った水の中ではっきり見えた。そして、上がってくるときは、30センチオーバーのイガメ(ブダイ)を仕留めているのだった。
叔父たちは「波当津の海は、俺の生け簀だ」と言っていた。沖の磯であろうが、海底の岩場の構造と魚の習性を知り尽くしていて、どこに魚がいるか、手に取るように知っていた。
その息子たちを育てた祖父は、「じいちゃんはな、海に潜って、長く息をつぐために、子どもころから道を歩くときには電信柱と電信柱の間はずっと息を止めて、どこまで我慢できるかやっていたんだぞ」と幼かったころのぼくに教えてくれた。
若いころは軽く15尋(ひろ)も潜って、イガメをいっぺんに3匹、獲ったこともあったという。2匹は並んでいるところを銛で一刺にし、驚いて逃げた一匹は自分をめがけてきたので、わきの下でつかまえたと言っていた。
ゲームよりも数倍も、数十倍もおもしろい贈り物をたくさんくれて、みんないなくなってしまった。
ぼくがつくる冷や汁には、いろんな味がこもっている。
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