新年、うつくしいものと出会う2022年01月03日 11時11分

 春の花々があらかた散り敷いてしまうと、大地の深い匂いがむせてくる。海の香りとそれはせめぎ合い、不知火海沿岸は朝あけの靄が立つ。朝陽が、そのような靄をこうこうと染めあげながらのぼり出すと、光の奥からやさしい海があらわれる。

 新年の最初に目にする文章は心を洗われるような、うつしいものがいいな。そうおもって手にしたのが、若いころに購入した石牟礼道子さんの『椿の海の記』である。冒頭の文章はその書きだしで、何度読み返しても新鮮さを失わない、本当にうつくしい文章だとおもう。
 『椿の海の記』は筑摩書房の季刊誌『文芸展望』に、創刊号(1973年春の号)から丸3年にわたって連載された作品。1976年10月17日のあとがきに、彼女はこう書いている。抜粋すると-、

 その後えんえんと書き直して、このようなものにしかなりませんでしたが……ことばにうつし替えられないものは心にたまるばかり、わが胸に湧いて動かぬ黒い湖の底から、この一冊を送り出してしまうことになりました。

 このあとがきも胸をうつ。これしかないという言葉がのびやかにつらなる文章の裏には、「えんえんと書き直して、ことばにうつし替える」格闘があった。また「わが胸に湧いて動かぬ黒い湖の底」とは、いったいどんな湖なのだろうか。親しい人によれば、彼女は何回も自殺をはかったことがあるというのだが。
 石牟礼さんは、文筆はもちろん、絵も書道も歌も朗読もうまかった。料理の腕も一流で裁縫も得意だったとか。そういう彼女が「えんえんと書き直して」送り出してくれた一冊に出会えたことがうれしい。
 さて、元日はカミさんと一緒に、近くの寶滿神社に初もうでに行き、帰り路の公園で冬の渡り鳥のジョービタキをみつけた。葉を落とした桜の細い枝先にちょこんといた。翼には白い斑があって、胸から腹はあざやかな橙色。きれいでかわいい野鳥である。
 ことしは目にした文章も、渡り鳥も、うつくしいものとの出会いからはじまった。日常のなんでもないようなことだが、コロナ禍が続くなかで、「光の奥から明るい海があらわれる」ような年になってほしいとおもう。

■自宅から歩いて6、7分の寶滿宮神社。名前が気に入っている。寶滿宮神社はかつての筑前の国に集中していて、その方面の知識にうといぼくの推論では、どうやら本山は太宰府市の寶滿宮竈門神社ではあるまいか。
 ともあれ、宝が満ちる神社である。拝むといいことがありそうな気になる。

ニャンコよ、寒くないか2022年01月09日 19時37分

 昨日もまた、この小さな猫がいた。地面の上に丸くなっている。そうして、このままじっとしている。声をかけて近づいても、逃げようとしない。まあるい恰好のまま、申しわけ程度に、ちょっとだけ目を開ける。
 この猫はいつもこのあたりにいる。帰る家がない。親と一緒のところを見たこともない。すぐ横には桜の老木があって、その太い胴体には「ネコにエサをあげないで下さい」という張り紙が白いビニールのひもでくくりつけてあった。
 きっと腹をすかしているだろうと哀れに感じても、その張り紙が気になるのだろうか、だれもエサをあげた形跡がない。この子猫も通りがかりに声をかける人間に、何も期待していないかのようである。
 それでも猫好きの人は、ぽつんとひとりでいるのを見過ごすのが辛いらしく、ときどき中学生の女の子や暇そうなオジサンが膝の上にのせて、頭や背中を撫でている。そうして撫でられているときも、この猫はまあるいの形ままである。ゴロゴロと喉をならしている風でもない。
 今日も同じ場所に、同じまあるい姿でいた。ところが、まわりでひとつの変化が起きていた。
 「ネコにエサをあげないで下さい」という張り紙が取り外されていたのだ。桜の幹には白いビニールのひもが巻き付いたままである。おそらく、だれかが力任せに引きちぎって捨てたのであろう。ボロボロにちぎれたひもの跡から、張り紙を取り去った人の気持ちが伝わって来るようだった。
 ノラ猫がそこらをうろついていることに我慢がならず、目を吊り上げて怒る人がいる。
 エサをやる人間がいるから、こいつらがいるんだ、エサがなければどこかへ消えていなくなるだろう、ここから早くいなくなれ。あの張り紙の本音はそう言っているようだった。
 それを見て、何もこんなことまでしなくてもと怒る人がいる。
 この子はおなかを減らしているんだ、家も、親もいないんだ。こうなったのも、人間のせいじゃないか。せめて何か少しぐらい食べさせてやってもいいいじゃないか。たぶん、こんな気持ちになって、張り紙を引きちぎったのだろう。
 そして、猫がいようがいまいが、そんなことどうだっていいという人もいる。
 このおとなしい子猫をめぐって、猫好きと猫嫌いが見えない火花を散らしている。当の猫たちは、人間ってやつはいろいろな種類がいるよなぁ、気まぐれだし、自分勝手だし、わけがわからん動物だと思っているかもしれない。
 ぼくはこのけなげな子猫が好きである。あたたかい部屋で、あたたかいこたつのなかに入れてあげたら、この小さなニャンコは寒さに凝り固まったまるいからだの形をくずして、手足をおもいきり伸ばして、長々と寝そべるだろうか。
 そんなことをおもいながら、おい、寒くないか、腹は減ってないか、元気でな、と声をかけるだけで、何もしないその他大勢のぼくがいる。

カミさんに自作の小説をみせた2022年01月24日 14時53分

 ことしは元日からほぼ連日、我流で小説を書いている。もちろん、私的な楽しみの枠を出ないものだが、それでもどこかの懸賞に応募してみるか、という欲がまったくないわけではない。まぁ、そんなこんなで、このブログはすっかりご無沙汰をしてしまった。
 さて、昨日のこと。
 パソコンで少しずつ書いては、また戻って書き直しを繰り返しながら、400字詰めの原稿用紙で68枚になったところで、カミさんに読んでみるか、とパソコンの画面を開いて渡した。
 まだ途中までで、これからの筋書きがどう転ぶか、書いてみないとわからない。それでも、最後の落としどころのシーンは頭のなかにできている。
 カミさんが原稿を読んでいる間、ぼくは机に向かってモーパッサンを読んでいた。隣の部屋は静まり返ったまま10分以上が過ぎた。相変わらず読むのが遅いな、それとも、ていねいに読んでくれているのだろうか。
 やがて、パソコンを手にして、ぼくの横にやって来た。
 「どうだった?」
 「途中で眠たくなった」
 「はぁ?」
 「だって……」
 「それで、ぜんぶ読んでくれたのか」
 「うん、読んだ」
 「おもしろくもなんともなかったのか」
 「そんなこともないけど……」
 「じゃあ、どこの文章が眠たくなったのか、教えてくれよ」
 「線路のところ。後ろの方で、また線路の話が出てくるでしょ」
 「あのな、線路はな、この小説のテーマなんだぞ」
 「そうなの?」
 もう、がっくり、である。
 カミさんの声には「だって、おもしろくなかったもん」という明らかなニュアンスがこもっている。こっちはその本音に気づかないほど鈍感じゃない。これこれだから、おもしろくない、とはっきり言わないところが、よけいに神経を逆なでる。
 「読んでわかりにくいとか、眠たくなるというところは、その文章が病気にかかっている証拠なんだ。手当てをするから、その眠たくなる原稿がどこなのか教えてくれよ」
 「どこだかよく覚えてない」
 「なにー?」
 夫婦生活を円満にするのなら、こんなことで頭に来てはいけない。でも、とっさに、このショックを冗談にしてしまうセリフは出てこない。ここはじっと孤独に耐えるしかない。
 ぼくは心を落ち着かせようとした。そして、カミさんがいなくなった後で、たしか作家の北方謙三がいいことを言っていたのを思い出した。その本を引っ張り出して、ページをめくって、鉛筆で傍線を引いてある文章を読み直した。以下に抜粋する。
 「作家というのは大勢の読者に向けて書いちゃいけない。たった一人に向けて書く。顔も見えない、だけど孤独だけは共振できる一人に向かって孤独を投げるんです」
 ふむふむ、そうかそうか。そうなのだ、顔が見えるカミさんに向けて書いちゃいけないのだ。だって、原稿のなかにはどうしても男と女の、あの関係が出てくる。いくらフィクションだと言っても、あなたの体験がベースになっているんでしょ、いやらしい、と勘ぐられるのに決まっている。実際、その通りなのだから、女房の眼は恐ろしい。
 ああ、この小説は失敗作かなぁ、といったんは落ち込んだものの、こうなったら意地でも最後まで書きあげるしかない。いくつになっても、男は孤独に強くなければいけないのであろうか。

■写真は、以前にも「狂い咲きの桜」と紹介した。調べたら、十月桜(ジュウガツザクラ)だった。秋から咲いて、冬を越え、花見の時期にはまた見ごろを迎えるという。いまもこうしてきれいに咲いている。