台風との個人的な会話2022年09月05日 17時03分

 子どもころからそうだったとおもうのだが、台風が近づいて来るときの気分はどこか落ち着かない妙なものである。
 怖いもの見たさで、こっちへ来いよと待ち構えている自分と、いやいやどこか遠くへ行ってくれというもうひとりの自分がいて、何度も、何度も、テレビの天気予報を見てしまうのだ。
 こうしているうちにも、非常に強い台風11号が近づいている。今夜半には最接近するという。
 テレビがなくて、ラジオしかなかったころ、耳に入ってくる台風情報のアナウンスは、子どものころのぼくの想像力を大いに刺激してくれた。
 空がみるみる暗くなって、墨汁を溶かしたような重たい雲が飛ぶように走りはじめる。なにか恐ろしいことが起きそうな空の色になる。
 ところが、ラジオから聴こえる最新の台風情報は、「北緯××度、東経××度、××の西方海上××キロメートルを」などと繰り返すだけで、その猛烈な台風がいったいどこにいるのか、雨と風の勢いはどんなふうなのか、いまのように中継の映像がないので、あれやこれや想像するしかなかった。
 唸り声をあげる突風や、閉めきった雨戸を激しくたたきつける雨の音を連想しながら、来るぞ、来るぞ、とぞくぞくするのが、ぼくにとって台風のいちばんおもしろいところだった。
 あっ、停電だ。ろうそくはどこ? マッチはどこ? ひと騒ぎして、家族でじっと紡錘形に立ちあがるオレンジ色の炎を見つめる。しばらくして、パッと電灯がついたときの部屋の明るさといったらなかった。おもわず歓声をあげてよろこんだものだ。
 ぼくの記憶では、これまで何度も体験したそういう情景が台風情報とセットになっている。
 だが、そんな昔話はもはや通用しない時代になった。地球上のあちこちで台風(ハリケーンなども含めて)の大きさも、風の強さも、雨の量も恐ろしいほどスケールアップして、数十年に一度という破壊力は、ぼくの想像力を軽々と超えてしまった。
 いまどき「猛烈な勢力の台風」は珍しくもない。「過去にないほどの」、「観測史上最大の」という枕詞(まくらことば)がふつうになってきた。被害の状況も「壊滅的な」、「再建は非常に困難な」状況が増えた。「避難生活者」や「行方不明者」はいつ自分の身にふりかかっても不思議ではなくなった。
 人間のやりたい放題が地球全体のバランスを根本的なところから狂わせたとしかおもえない。これからはもっと酷いことになるだろう。
 それがいまの「あるがままの姿」なのだ。もっと言えば、世の中におぞましい異常な事件が続いていることも、「あるがまま」の事実として観察しなければとおもう。少なくとも記者時代はそうだった。
 こんなありふれた思い出話を書きながら、こんなことをブログに書く意味があるのかと考える。そこで、ついつい書くのを止めてしまう。そんなこんなで、このブログに空白の時間が広がってしまった。
 さて、なんとなく大江健三郎の本を読み返していたら、タイミングよく、こんな文章に出会った。

 私らの大切な仕事は未来を作ることだ。 …(略)… 私が「ピンチ」だったのは、自分の未来を見つけないでさ、閉じてしまった扉のこちら側で、思い出したり、後悔しただけだったからじゃないか。

 うまいことを言うなぁ。ソノトオリデス。オソレイリマシタ。
 この一文を読んで、なんとなく閉塞感に包まれていたぼくにもエンジンがかかった。
 さぁ、こんなブログでも載せよう。そろそろ台風にそなえる準備もしなくては。

■近くにある室見川の河川公園で、以前にも写真を載せた「山いちじく」の熟した果実をみつけた。すぐ手のとどくところだが、だれも気がつかないのか、それとも食べておいしいことを知らないのだろうか。
 丸くて、黒い光沢が美しい実をとって、カミさんにわたした。彼女もまた「山いちじく」のことを知らかった。
「食べられるの? あまーい。おいしい」
 自然の恵みをいくらか知っていてよかった。これも田舎育ちの強みのひとつである。

カミさんの姉がやって来た2022年09月14日 12時28分

 夜の食卓についたカミさんが子どもみたいにうれしそうにしている。箸を伸ばす先にあるのはナス漬け。「この世のなかで一番好きな食べ物」という故郷の味である。
 先日、そのことをよく知っている彼女の姉(3人姉妹の長女)が畑でちぎったばかりのナスをひと抱え分もリュックサックに入れて、はるばる新潟からわが家まで持って来てくれた。
 福岡に来たのははじめて。越後湯沢から新幹線と飛行機を乗り継いだ長旅でさぞかし疲れているだろうに、すぐさま台所に立って手際よく塩漬けにしたのには驚いた。ナス漬けは鮮度が第一である。「故郷と同じように、おいしく食べてもらいたい」ということだったのだろう。
 ナス漬けにつかうナスはちいさな丸い実で、深い紫色の薄い皮には張りがあって、噛むとプチッと音がする。なかは黄色っぽくて、ほどよく甘いジューシーな旨みがぎゅっと詰まっている。
 このナスだからこそ、おいしいのだ。夏しかないご馳走で、新潟の家では一度に鉢盛りいっぱいを食べてしまう。
 山形県鶴岡市出身の藤沢周平の時代小説には、おいしいナスを育てるコツとして、「たっぷり水をやる」という文章がよく出てくる。みずみずしさこそがナスの命というわけで、新潟のナス漬けを食べるとまったく同感のおもいがする。
 姉がわが家にやって来る前日には、特産の南魚沼米が宅配便で届いた。それも持ち上げるのがやっとの量である。ざっと30キロ近くはあるだろうか。飲兵衛(のんべえ)のぼくには地酒の純米酒とビール券を10枚もプレゼントしてくれた。
 これではどちらが客なのかわからない。でも、新潟の姉夫婦にはこれがふつうの感覚なのである。
(ぼくの個人的な体験に基づく感想だけど、嫁さんをもらうなら、だんぜん雪国の新潟の南魚沼出身の人がいいとおもうよ。)
 カミさん姉妹は本当に仲がいい。この日、ふたりは夕食をすますと市内の真新しいホテルへと入って行った。
 72歳と66歳の女性の似たような背丈の二人連れ。どちらも身長の低いからだにリュックサックを背負って、妹の方はホテルに泊まるのは何十年ぶり。そして、何をしに来たのかと言えば、翌日の若手演歌歌手の中澤卓也のコンサートに行くためである。
 コンサートが終わった後には、卓也のお見送りがあるとかで、カミさんは画用紙を用意していた。それに黒のマジックで「新潟から来ました。ファイナルコンサートにも行きます」と書いて掲げるという。
 さて、翌日の夕暮れ。
「画用紙を掲げたら、卓也がこっちを見てくれたのよね」
「そう、はっきり目が変わったよね」
「うん、うん。それまでと目が変わった」
「よかったぁ。もう大満足だよ。あの目に感動したわぁ」
「絶対にファイナルにも行かなくちゃ。そのときは『福岡のコンサートにも行きました』って、書いたらいいよ」
「うん。そうする」
 カミさんによれば、コンサートに来ていた人は圧倒的に高齢者の女性だったとか。それも華やかに着飾った人はほとんどいなくて、「普段着のしゃれっけのない人ばっかり」だったという。なかには階段を降りるのがやっとのお年寄りもいて、付き添いの人はいないらしく、よろけるように手すりにしがみついていたそうな。
「まるで冥途の土産みたいだな」
「ほんと、そうかもよ」
 それに比べれば、わが姉妹は服装にもそれなりに気がまわっていて、明るく元気である。
 中澤卓也が「自分だけを見つめてくれた目」も、威力充分の「効き目」があったようだから、その効果はこれから先も繰り返し、たのしくよみがえることだろう。いい思い出ができてよかった。
 家のことで忙しい、しかも高齢者の主婦にとって、遠距離のひとり旅はなかなかできることではない。今回の姉の旅行の陰には、急用ができて同行をあきらめた姪の「お母さん、お金のことはわたしがなんとかするから、ひとりでも行っておいで」という力強いひと言があったそうだ。
 ぼくは少なくなったナス漬けをツマミに、もらった新潟の地酒をやりながら、カミさんの身内はいいチームプレーをするよなぁ、いいなぁ、うらやましいなぁ、とおもっている。

ナイフが見張っている2022年09月21日 14時46分

 最強と言われた台風14号は予報がはずれて、何ごともなく通り過ぎた。急にやってきた秋風がここちよい。真っ赤な彼岸花がそこかしこに咲いて、そろそろ室見川の河口からハゼが産卵のために上ってくるころである。
 ここしばらく、釣りに行っていないが、秋ハゼのシーズンになると胸が騒ぐ。「ダボハゼ」とはよく言ったもので、ハゼは大きな口で無警戒にパクリと食いついてくる。川岸のすぐ目の前の窪みにも穴場があって、そのポイントをみつけたら、子どもでも簡単に爆釣りできるのも魅力だ。
 大きなものは刺身によし、天婦羅もいいが、手軽につくれる唐揚げもまたよし。ふっくらした白身のおいしさは高級魚にも引けを取らない。
 そんなことを考えはじめたら、整理箱から釣り針や釣り糸を引っ張り出して、ハゼ釣りの仕掛けをつくりたくなった。すると引き出しの奥の方にナイフがみえた。
 アウトドアが好きな人なら、だれでも知っているスイス製の万能ナイフである。よくみかけるのはハンドルの部分が赤い樹脂の商品で、スイスの国旗の十字のマークがついたもの。
 ところが、このナイフには十字の目印がどこにもない。持っている人はそんなにいないとおもう。
 ハンドルは鹿の角でできている。肉を切って血や油で汚れても、表面がデコボコしている鹿の角は握った指が滑りにくいので、樹脂製のものより格段に安全である。
 コンパクトな本体に納められている用具の種類も多い。大小のナイフ、栓抜き、ハサミ、ルーペ、ノコギリ、ヤスリ、ドライバーなど12種もある。その一つひとつを取り出して、使い途をあれこれ想像していると時間が経つのを忘れてしまう。
 実は、この万能ナイフには亡くなった大先輩からのメッセージがこめられている。その方は日本で初めてフッ素樹脂の製造技術をアメリカから持ち帰り、それまでの炭鉱経営から大転換して、今日のフッ素樹脂のトップメーカーの基盤をつくった伝説の人である。中興化成工業の先々代社長を務めたKさん。
 彼の若い日の夢は、海外特派員のジャーナリストになることだった。しかし、会社の後継者になる運命には逆らえず、その悔しさもあってか、海外を飛びまわるのが好きだった。そして、スイスに行ったとき、日本には売っていないナイフを二つ買って来た。そのひとつをぼくにくださったのである。
 あのときこう言われた。
「このナイフはふたつしかない。だれにもやるつもりはなかったけど、期待しているからね。もし、そうでなくなったら、このナイフは返してもらうからね」
 自分ができなかった分だけ、ジャーナリストとして、がんばれよ。そういう意味だったとおもう。
 Kさんの会社の広報誌をはじめ、雑誌への寄稿文の代筆、地元紙のトップインタビューなど、いろんな原稿を書かせていただいた。
 それだけの機会を与えられ、それだけのモノを教えてもらったことになる。名経営者と言われた人から教えを受けた場所は、社長室だけではない、ぼくにはとても縁のない高級店もそうだった。
 いつも笑顔を絶やさない人だったが、ときおりオーナー経営者の素顔もみせることもあった。あるとき同社の幹部が社長室の席をはずした直後に、Kさんはこんなことを言った。
「君は彼のことをどうおもう? 一度、××長をやらしてみたんだが、あいつは駄目だ。来月から選手交代だ」
 それまでの柔和な顔が一変していた。
 ぼくも一度だけ、叱られたことがある。知人から誘われて、あるネットビジネスを立ち上げるメンバーに加わって、その新しい名刺をKさんに渡したときのことだった。
「何をやっているんだ、君は。自分の本分を忘れたのか。あのナイフを返してもらおうかな」
 言葉以上に、その眼はこわかった。
 それから先も、ぼくは取材と原稿書きの仕事から距離をおいて、いろんなことに首を突っ込んできた。それらのほとんどが失敗に終わった。だが、やったことで無駄なものはひとつもないとおもう。そのことをどうやって証明しようか。
 引き出しの隅っこに隠れていたこのナイフは、今もぼくを見張り続けている「お守り」なのかもしれない。
 そうだったのか。あのときナイフを取り上げないで、Kさんがくれた本当のメッセージとは、このことだったのだ。今にして、ようやく気がつくことばかりである。

心を入れ替える2022年09月29日 15時48分

 一年に何度か、「心を入れ替えよう」とおもうときがある。またそれが来た。さぁ、心を入れ替えて、そろそろ次の散文を書かねば。
 今度は目に見えて、耳に聞こえてくる、あるがままの姿を観ることにしよう。その文章表現は読み手の意識を素通りするような自動的で、習慣的な言いまわしはしないこと。そして、ぼくの記憶や体験の断片をつなぎ合わせて、ひとつの物語を構成してみたい。
 なんだか、こむずかしいことを書いたが、これは小林秀雄、阿部昭、大江健三郎、小野正嗣の言葉を部分的に拝借したもの。とてもその通りにやれる能力はないが、書いているときに、これでいいかどうかを判断するモノサシがないよりはマシだろう。
 ということで、次回の散文は身のまわりに題材を見つけることにした。差し当たって、ぼくが住んでいる公団住宅の、それもぼくの住まいがある建物で繰り広げられている人間模様に絞り込んでみるか。さぁ、どうなることやら。
 あるがまま、と言えば、先日こんなことがあった。
 その日は団地の「いっせい清掃の日」。朝の9時から階段の掃除が始まった。
 掃除の担当は、1階から5階までの全10世帯が参加する決まりになっていて、1階にある掲示板にはその告知のビラも貼られていた。だが、掃除に出てくる顔ぶれは毎回同じである。
 いつもさぼっている人は九分九厘、これから先も顔を出すことはあるまい。いままでの自分の行動を軌道修正するにはかなりの勇気がいるだろうし、参加した人だって腹は立つものの、閉じられた重いドアをたたいてまで声をかけようとはしない。転入者を好意的に迎え入れる福岡でも近所づきあいはだんだん希薄になり、いよいよ東京のようになってきた。
 さて、掃除に出て来たのは、うちのカミさんを含めた女性5人。ひとりは2、3か月前に引っ越してきたばかりで、その場の雰囲気からごく自然に自己紹介が始まったという。
 切りだしたのは新顔の女性だった。
「わたし、70歳で仕事を辞めたのを区切りにして、主人とここに引っ越してきたの。公団は敷金も要らないし、家賃も安いし、部屋も改装してきれいだし、わたしたちにはこれで十分ですよ」
「えーっ、70なの? お若いのねぇ」
「若いだなんて、そんな。もう70歳ですよ」
「若いわよ、あなた。わたしは77よ」
「えーっ、あなたも77なの。わたしと同じ歳じゃない」
 この77歳のおふたり、ひとりは数年前にご主人に先立たれ、もうひとりは一時期、年下らしき男性と同居していたが、いつの間にか彼はいなくなって、二度と現れなくなった。
 どちらとも、口も、脚も達者なもので、とても77歳には見えない。エレベーターがなく、毎日コンクリートの階段をオッチラ、オッチラ登ったり、降りたりしているのがきっと足腰にいいのだろう。
 年齢の話に乗ってこなかったのは、こちらも独り身で、腰が曲がっている5階のおばあちゃん。「若いわねぇ」と盛り上がっている様子に気が引けたのだろうか。
「それで、お前はどうしたの?」
「わたしも自分の年齢のことは黙っていたよ」
「なんで?」
「だって、わたしだけ60代だもの。若いから言いにくいじゃない」
「……」
 この団地では敬老の日のお祝いとして、高齢者にウナギの弁当が無償で配られる。対象は75歳以上だが、以前はもっと早くからもらえた。原因は高齢者の数が急増中で、予算に余裕がなくなったからという。この点、国の財政の状況とよく似ている。
 あるがままの姿を観たら、この公団住宅は年寄りたちの終(つい)の棲家になっていた。
 ここまで書いてきて、ぼくの「心を入れ替える」決意はだんだんしぼんできた。
 ヨシッ! こうなったら頭を切り替えよう。
 現状を受け入れて、それなりにエンジョイしている女性たちの元気な様子を知って、ぼくの胸のなかにほんわりふくらんでくるものがある。それは青春の日々を過ごした下宿の生活とどこかで呼応する。
 まったくの白紙だが、予定通り身のまわりのことを観て、次回の散文で書くことにしよう。
 
■先の秋分の日、カミさんと一緒に延岡市まで墓参りに行ってきた。福岡市から現地まで高速道路を走って、往復560.1km。これを東海道新幹線に置き換えると東京駅から新大阪駅よりも長い。墓の掃除をして、無事に帰り着くと芯からホッとする。
■写真は、室見川沿いの遊歩道。あちらこちらに真っ赤な彼岸花が燃えている。