朝から暴風雪警報の一日 ― 2023年01月24日 21時30分

1週間ほど前から、テレビの気象情報やニュース番組で、「来週の火曜日から水曜日にかけて最強の寒気が日本列島にやってくる。九州でも大雪の恐れがある」とさんざん報じられていた。
今日がその日である。
今朝の地元放送局のニュースでもトップはこの話題で、アナウンサーはこれまでに輪をかけたように切迫した口ぶりだった。何度も繰り返して大雪と暴風への警戒を呼びかけていた。
水道管の破裂の恐れがあります、車はノーマルタイヤで運転しないでください、灯油や水、食料品の確保も、といった調子で、矢継ぎ早にこれして、あれしての注意事項が飛んでくる。
まるで非常事態の最中(さなか)にいるようである。朝っぱらからこんなにやられては、帰りはいったいどうなることやらと不安な気持ちで出勤した人たちも大勢いたことだろう。
言っていることはわかる。けれども、ぼくの生活感覚では大変だ、大変だ、は何かヘンである。
ここは福岡市内の街だよ。山間部ならともかく、屋根に上っての雪下ろしもないし、大雪で家のなかに閉じ込められることもないんだよ。
そういえば、福岡に移転して来た当初、5センチほどの積雪で市内のあちこちの道路が大渋滞したとき、豪雪地帯で生まれ育ったカミさんは、「たった5センチぐらいの雪で、大騒ぎするんじゃないよ」とあきれていたっけ。
午前中は陽が射して、南向きのこの部屋は暖房なしでも平気だった。それでも外の気温はどんどん下がっていた。午後にはマイナス3度になると言っていた気象予報の通りになった。
昼過ぎ、気がついたときには、外はいちめん白くなっていた。雨と違って、雪は音がまったくしないまま降り積もる。朝、カーテンを開けたら、地面も屋根も白くかがやく世界に一変していたということがよくある。雪にはそんなたのしい意外性もある。
窓の外で風に吹き飛ばされているのは、形の不ぞろいな雪の子どもたちだった。ほらほら、雪だよ、雪だよ、来たよ、来たよ、とでも言いたげに、空中をはしゃぎまわっている。たちまち車の上も、芝生も白くなっていった。
こどものころなら、よろこんで外へ飛び出したものだが、雪がはげしく舞っている様子をみながら、ぼくの頭に浮かんだのは「やっぱり、今夜は温かい鍋にしようかな」。
「雪」にちなんで、「鱈(たら)」の鍋で一杯やりたかったのだが、スーパーに並んでいるのは、鮮度がイマイチだった。それなら「春」にしようと「鰆(さわら)」の切り身を買ってきた。
写真は、昨日の買い物の帰り道にみつけた梅の花の紅いつぼみ。今日は雪にふるえて寒そうだった。
移りゆく季節を感じた一日だった。これから夜中過ぎにはまた雪が降って、明日も同じように冷え込みが厳しいという。午前中には今年4回目の病院通いが待っている。
あの寒梅のように、この冬を乗り切らなければ。
■なかなか散文を書きだすまでには至らない。そこで、書くのは短篇に決めた。井伏鱒二によれば、昔は原稿の注文は20枚程度だったという。梶井基次郎の『檸檬』は原稿用紙で14枚ほどしかない。
そこで、久々に阿部昭の『短篇小説礼賛』のページを開いて、そのなかで彼が取り上げているマンスフィールドの短編集(文庫本)をブックオフで買ってきた。
こんなことばかりやっていてもなぁ、と思いつつ、日が暮れていく。
今日がその日である。
今朝の地元放送局のニュースでもトップはこの話題で、アナウンサーはこれまでに輪をかけたように切迫した口ぶりだった。何度も繰り返して大雪と暴風への警戒を呼びかけていた。
水道管の破裂の恐れがあります、車はノーマルタイヤで運転しないでください、灯油や水、食料品の確保も、といった調子で、矢継ぎ早にこれして、あれしての注意事項が飛んでくる。
まるで非常事態の最中(さなか)にいるようである。朝っぱらからこんなにやられては、帰りはいったいどうなることやらと不安な気持ちで出勤した人たちも大勢いたことだろう。
言っていることはわかる。けれども、ぼくの生活感覚では大変だ、大変だ、は何かヘンである。
ここは福岡市内の街だよ。山間部ならともかく、屋根に上っての雪下ろしもないし、大雪で家のなかに閉じ込められることもないんだよ。
そういえば、福岡に移転して来た当初、5センチほどの積雪で市内のあちこちの道路が大渋滞したとき、豪雪地帯で生まれ育ったカミさんは、「たった5センチぐらいの雪で、大騒ぎするんじゃないよ」とあきれていたっけ。
午前中は陽が射して、南向きのこの部屋は暖房なしでも平気だった。それでも外の気温はどんどん下がっていた。午後にはマイナス3度になると言っていた気象予報の通りになった。
昼過ぎ、気がついたときには、外はいちめん白くなっていた。雨と違って、雪は音がまったくしないまま降り積もる。朝、カーテンを開けたら、地面も屋根も白くかがやく世界に一変していたということがよくある。雪にはそんなたのしい意外性もある。
窓の外で風に吹き飛ばされているのは、形の不ぞろいな雪の子どもたちだった。ほらほら、雪だよ、雪だよ、来たよ、来たよ、とでも言いたげに、空中をはしゃぎまわっている。たちまち車の上も、芝生も白くなっていった。
こどものころなら、よろこんで外へ飛び出したものだが、雪がはげしく舞っている様子をみながら、ぼくの頭に浮かんだのは「やっぱり、今夜は温かい鍋にしようかな」。
「雪」にちなんで、「鱈(たら)」の鍋で一杯やりたかったのだが、スーパーに並んでいるのは、鮮度がイマイチだった。それなら「春」にしようと「鰆(さわら)」の切り身を買ってきた。
写真は、昨日の買い物の帰り道にみつけた梅の花の紅いつぼみ。今日は雪にふるえて寒そうだった。
移りゆく季節を感じた一日だった。これから夜中過ぎにはまた雪が降って、明日も同じように冷え込みが厳しいという。午前中には今年4回目の病院通いが待っている。
あの寒梅のように、この冬を乗り切らなければ。
■なかなか散文を書きだすまでには至らない。そこで、書くのは短篇に決めた。井伏鱒二によれば、昔は原稿の注文は20枚程度だったという。梶井基次郎の『檸檬』は原稿用紙で14枚ほどしかない。
そこで、久々に阿部昭の『短篇小説礼賛』のページを開いて、そのなかで彼が取り上げているマンスフィールドの短編集(文庫本)をブックオフで買ってきた。
こんなことばかりやっていてもなぁ、と思いつつ、日が暮れていく。
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