伝えきれない人たち2023年07月21日 13時45分

 先ごろ2年ぶりにアフリカのザンビアから戻って来た友人に会った。首都ルサカ(標高1,300m、人口233万人)には日本の無償資金協力で建てられた病院が5つある。それらのマネジメントを強化した上で、有機的につないで地域医療の骨格を整備するというのが、JICAから派遣された彼の仕事だった。そのプロジェクトが終わったという。
 友人は前年にもボランティアの立場で1年間、現地で活動している。今回の国家プロジェクトは、そのときに彼が取り上げた今後の課題から生まれたものだった。本人はやり残してきた宿題を現地で汗をかきながら完遂したわけだ。
 若いころに日本を飛び出して、ヨーロッパを旅して歩き、まったくのど素人なのに中東の大型プラント建設の工事現場に飛び込んだこともある、いかにも彼らしい挑戦だった。なぜか、ぼくはこういうタイプとウマが合う。
 ちなみに彼は30歳のころ病院の経営コンサル会社から仲間3人と独立して、定年退職するまで大きな病院の業務改善や地域医療システムの立案に取り組んできた。ただし、前の会社に就職したときも、医療や経営についてはまるっきり門外漢からのスタートだった。
 こう言っては失礼だが、ま、一般的には変わり者の部類に入るだろう。
 彼が日本チームのリーダーで、官庁出向の若手エリートと考え方が衝突して、何度も言い合いになったと聞いて、そいつはいいやと愉快になった。30代前後の若手ばかりの少数チームのなかに、経験豊富な67歳の父親みたいな彼がいて本当によかったとおもった。
 高学歴とか、身分とか、高尚な理論とかが、どこでも通用するほど世のなかは単純ではない。泣いている子どもの前でそんなものは何の役にも立たない。男女の仲だって、そうではないか。
 いまは彼も自由の身である。話は自然に「これから何をやろうか」ということになった。
「人生はホント、一瞬だからなぁ。死んだらみんな無くなっちゃうからなぁ。癌で死にかかって気がついたんだけど、自分のことを伝えきれずに死んだ人はいっぱいいると思うんだ。俺も死んだオヤジやオフクロのこと、知っていたようで、知らないことばっかりだ。自分の息子との関係もそうなるんだろうな。やっぱり、自分の得たものや経験は伝えないといけないよなぁ」
「そうですね。でも、あまり自分のことは言いたくないですね。なんだか偉そうにしているなと思われたくないですからね」
「そうなんだよな。だから上から目線はよくないよな」
 こんなことをしゃべっているうちに、では小説家は何を書き残しているのかという話になった。ふたりで交わしたよもやま話では確証が持てないので、手元の文庫本を開くと、たとえばこんな文章がある。
 -肌合いの相違というものは仕方のないもので、東京生まれの作家の中には島崎藤村を毛嫌いする人が少なくなかったように思う。私の知っているのでは、荷風、芥川、辰野隆氏など皆そうである。漱石も露骨な書き方はしていないが、相当に藤村を嫌っていたらしいことは「春」の批評をした言葉のはしはしに窺うことが出来る。最もアケスケに藤村を罵(ののし)ったのは芥川で、めったにああいう悪口を書かない男が書いたのだから、よほど嫌いだったに違いない。書いたのは一度だけであるが、口では始終藤村をやッつけていて、私など何度聞かされたか知れない。そういう私も、芥川のように正面切っては書かなかったが、遠廻しにチクリチクリ書いた覚えは数回ある。作家同士というものは妙に嗅覚が働くもので、藤村も私が嫌っていることを嗅ぎつけており、多少気にしていたように思う。そして藤村が気にしているらしいことも、私の方にちゃんと分っていた-
 よくもまぁ、平気でこんなことを書いて本にしたものだ。だれが書いたかと言えば、あの文豪・谷崎潤一郎である。
 もっと凄いのは深澤七郎の文庫本、『言わなければよかった日記』で、その中には『とてもじゃないけど日記』、『変な人だと言われちゃった日記』などが収録されている。
 タイトルからして人を食っている。内容はまるで自分の恥とドジのオンパレードだが、クスリと笑ってばかりではいられない。そこには常識の枠にとらわれない生き方の、この人ならではの人間味が躍動している。
「とにかく書くなり、話すなりして、伝えることだね。××君はいろんな経験をしているから、伝えることがいっぱいあるだろ」
「そうか、そうですね」
「でもなぁ。ぜんぶをさらけ出せないよなぁ」
 結局、ぼくたちは伝えきれない大勢の人たちと同じように、分相応に落ち着くところに落ち着きそうである。でも、気を取り直して、どうでもいいようなことでも、このブログで書き続けていこうかな。
(読んでいただている方へ。闘病日記になるのが嫌で、ついつい休筆しがちです。でも、そのこともフタをしないで書くことにします)

■先日の北部九州を襲った大雨で、目の前の水路から水があふれて、並行している道路まで川になった。この水路は100メートルほど先で室見川に合流するのだが、本流の方の水位も上がっていて、水の逃げ場がなくなったらしい。この地に移ってから、こんなことは初めてだった。