マンガ化の波についていけない ― 2024年11月21日 11時12分

良書がマンガに乗っ取られた。
近くの本屋で、あるコーナーが目に入ったとたん、そうおもった。そして、「なんじゃ? これは」と声を殺してつぶやいた。
とにかく目立つ。まるで秋祭りの夜の路地をおびただしい光の粒子で照らしだす露店の店先のようである。いろとりどりのクジや飴玉、菓子、おもちゃが、ここでは文庫の本だった。
そのときの衝撃をぼくらの世代がよく口にする言葉でいえば、「価値観の相違」を見せつけられたのである。
そこは角川文庫のコーナーで、よく見たら、ほとんどが「名著」と言われる本であった。
福沢諭吉の『学問のすすめ』、森鴎外の『舞姫』、谷崎潤一郎の『痴人の愛』、芥川龍之介の『羅生門』、太宰治の『斜陽』、与謝野晶子の『みだれ髪』、中島敦の『李陵・山月記』も置いてある。
それらの表紙がぜんぶ若い男と女のカラフルなマンガ絵なのだ。エンターテインメントが売り物の会社と言えばそれまでだが、こんな派手な装飾がいまどきの流行(はや)りなのだろう。しかも、透明のビニールできつくパッケージされている本まであった。
しばらく目をはなしているうちに時代は変わっていた。
だが、人一倍、繊細で美意識が高かったであろう亡き文豪たちはこれでいいのだろうか。明治生まれの耽美派の代表格・谷崎潤一郎あたりは草葉の陰で怒り狂っているのではあるまいか。
名著『文章読本』のなかで、谷崎はこう書き残している。
「品格ある文書を作りますには先づ何よりもそれにふさわしい精神を涵養することが第一でありますが、その精神とは何かと申しますと、優雅の心を会得することに帰着するのであります」
ああ、それなのに。表紙の若い男は茶髪なのだ。(この際、どうでもいいようなことだけど、『痴人の愛』の主人公の男は、「模範的なサラリー・マン」と書いてある)
ことしの本屋大賞を受賞した『成瀬は天下を取りにいく』の表紙もマンガの絵だった。新刊本のコーナーでも、同様の表紙は一大勢力になっていた。出版界は「二匹目のドジョウ」が大好きな業界だから、「三匹目」、「四匹目」を狙う動きは続くだろう。
ぼくの本立てには文豪たちの廃版になった全(選)集の古本が数冊並んでいる。
『現代文学大系 志賀直哉集』(筑摩書房)は昭和38年に発行されたもの。『昭和文学全集 井伏鱒二 太宰治集』(角川書店)はもっと古い昭和29年の発行である。
どちらの本も薄茶色に紙焼けしていて、いちばん最後の空白のページには、持ち主の名前、購入した年月日、読後の感想文が書き込んである。万年筆で書かれた黒いインクの筆づかいが若々しい。
旧仮名遣いの小さな文字がぎっしり詰まっているページを開くたびに、この本を手にしていた見ず知らずの人たちのことをあれこれ想像する。そして、「あなたたちの思いはちゃんと受け継いでいますからね」と言いたくなる。
やっぱり、価値観が違うのかな。
大病して長らくストップしていたが、下手は承知の上で、性懲りもなくまた習作にチャレンジするか。
近くの本屋で、あるコーナーが目に入ったとたん、そうおもった。そして、「なんじゃ? これは」と声を殺してつぶやいた。
とにかく目立つ。まるで秋祭りの夜の路地をおびただしい光の粒子で照らしだす露店の店先のようである。いろとりどりのクジや飴玉、菓子、おもちゃが、ここでは文庫の本だった。
そのときの衝撃をぼくらの世代がよく口にする言葉でいえば、「価値観の相違」を見せつけられたのである。
そこは角川文庫のコーナーで、よく見たら、ほとんどが「名著」と言われる本であった。
福沢諭吉の『学問のすすめ』、森鴎外の『舞姫』、谷崎潤一郎の『痴人の愛』、芥川龍之介の『羅生門』、太宰治の『斜陽』、与謝野晶子の『みだれ髪』、中島敦の『李陵・山月記』も置いてある。
それらの表紙がぜんぶ若い男と女のカラフルなマンガ絵なのだ。エンターテインメントが売り物の会社と言えばそれまでだが、こんな派手な装飾がいまどきの流行(はや)りなのだろう。しかも、透明のビニールできつくパッケージされている本まであった。
しばらく目をはなしているうちに時代は変わっていた。
だが、人一倍、繊細で美意識が高かったであろう亡き文豪たちはこれでいいのだろうか。明治生まれの耽美派の代表格・谷崎潤一郎あたりは草葉の陰で怒り狂っているのではあるまいか。
名著『文章読本』のなかで、谷崎はこう書き残している。
「品格ある文書を作りますには先づ何よりもそれにふさわしい精神を涵養することが第一でありますが、その精神とは何かと申しますと、優雅の心を会得することに帰着するのであります」
ああ、それなのに。表紙の若い男は茶髪なのだ。(この際、どうでもいいようなことだけど、『痴人の愛』の主人公の男は、「模範的なサラリー・マン」と書いてある)
ことしの本屋大賞を受賞した『成瀬は天下を取りにいく』の表紙もマンガの絵だった。新刊本のコーナーでも、同様の表紙は一大勢力になっていた。出版界は「二匹目のドジョウ」が大好きな業界だから、「三匹目」、「四匹目」を狙う動きは続くだろう。
ぼくの本立てには文豪たちの廃版になった全(選)集の古本が数冊並んでいる。
『現代文学大系 志賀直哉集』(筑摩書房)は昭和38年に発行されたもの。『昭和文学全集 井伏鱒二 太宰治集』(角川書店)はもっと古い昭和29年の発行である。
どちらの本も薄茶色に紙焼けしていて、いちばん最後の空白のページには、持ち主の名前、購入した年月日、読後の感想文が書き込んである。万年筆で書かれた黒いインクの筆づかいが若々しい。
旧仮名遣いの小さな文字がぎっしり詰まっているページを開くたびに、この本を手にしていた見ず知らずの人たちのことをあれこれ想像する。そして、「あなたたちの思いはちゃんと受け継いでいますからね」と言いたくなる。
やっぱり、価値観が違うのかな。
大病して長らくストップしていたが、下手は承知の上で、性懲りもなくまた習作にチャレンジするか。
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