4番、サード長嶋、背番号3 ― 2025年06月03日 21時31分

「4番、サード長嶋。背番号3」
アナウンスが響きわたると、後楽園球場の超満員のスタンドから大歓声がわきあがった。不思議なことに、まるでこの選手のために用意されたかように、目をはなせないチャンスがまわってくる。そこがまたファンにはたまらない魅力だった。
スタンドは静まり返った。いまのように、ドンドンドン、プープープーのうるさい太鼓やラッパの音なんか、なかった。味方も敵も、そんな野暮なことはしなかった。
「ミスター」。担当記者たちも長嶋繁雄をそう呼んでいた。その彼が89歳になって、とうとうこの世からいなくなった。
残るは王さんだけになってしまった。
「背番号3」の右の強打者・長嶋茂雄と「背番号1」の左の長距離砲・王貞治が大活躍していたころを知っている人たちは、そう感じていることだろう。
王さんは本塁打の世界記録を更新するときに臨時特集号の取材を担当したので、彼の間近かにいたことがある。
長嶋とは彼が新監督になったとき、だれもいない後楽園球場のベンチ裏で、胸毛を出した裸のまま腰にバスタオルを巻いていたところに出くわした。至近距離はその一瞬だけだったが、目を合わせた印象は強烈そのものだった。
ものすごいオーラを浴びた。生まれてはじめて、「オーラ」という得体の知れない電流にしびれたのが長嶋だった。ぼくの人物を観る目を、もうひとつ開いてくれた人である。
このへんの思い出話になると言いたい人は山のようにいるだろうから、少し視点を変えて、あのころといまの違いの一端に触れておこう。
当時は新聞の発行部数のトップ争いもし烈だった。首位は朝日、それを追うのが読売で、トップの座を目指していた。
ジャイアンツの親会社は読売新聞社ではなく、読売興業だった。つまり、あの吉本興業と同じような興業会社である。
おおげさな言い方になるが、昭和のテレビの野球中継といえば、ほとんどが巨人戦。スポーツ新聞も一面トップは巨人の試合で、新聞のスポーツ欄も似たようなものだった。週刊誌の特集企画も同じ。新潟生まれのカミさんは、プロ野球はジャイアンツしか知らなかったと言っている。
読売新聞の新規購読者を獲得する切り札が入手困難な巨人戦のプラチナチケットだった。これが新規契約の景品として、とくに地方では絶大な威力を発揮した。
わが九州でいえば、小倉にある読売新聞西部本社もおおいにこのチケットを活用していた。この西部本社の親会社も読売興業だった。そして、ついに読売新聞の発行部数は朝日を抜いた。
巨人軍が常勝軍団として、優勝を使命づけられていた背景にはこうした企業戦略があった。
「わが巨人軍は永久に不滅です」
引退セレモニーで、ファンあってのプロ野球を全身で意識していたという長嶋がそう叫んだ心中の深いところは、想像するしかない。
彼が監督に就任して、負け試合が続き、読売新聞社の実力者と呼吸を合わせた前監督の川上哲治との暗闘が繰りひろげられたとき、親しい人に向かって、「ねぇ、正義は勝つよね」と言ったという情報も耳にした。
あのミスターが絞り出した「正義は勝つよね」の言葉の意味が、「わが巨人軍は永久に不滅です」と重なって聞こえるのだ。
ときは流れて、巨人戦のテレビ中継の数は当時と比べて見る影もない。部数の減少に歯止めがかからない新聞業界もまたそうである。
スタンドの応援風景も様変わりした。長嶋茂雄の訃報は人々の関心と社会現象の移り変わりを物語っているように、ぼくの目には映る。
■散歩をしながら、ブログに載せる写真を探す。
ビワの実があった。どうやら摘果して、残した実を大きく育てて、食べる気はないらしい。そんな家が目につく。
アナウンスが響きわたると、後楽園球場の超満員のスタンドから大歓声がわきあがった。不思議なことに、まるでこの選手のために用意されたかように、目をはなせないチャンスがまわってくる。そこがまたファンにはたまらない魅力だった。
スタンドは静まり返った。いまのように、ドンドンドン、プープープーのうるさい太鼓やラッパの音なんか、なかった。味方も敵も、そんな野暮なことはしなかった。
「ミスター」。担当記者たちも長嶋繁雄をそう呼んでいた。その彼が89歳になって、とうとうこの世からいなくなった。
残るは王さんだけになってしまった。
「背番号3」の右の強打者・長嶋茂雄と「背番号1」の左の長距離砲・王貞治が大活躍していたころを知っている人たちは、そう感じていることだろう。
王さんは本塁打の世界記録を更新するときに臨時特集号の取材を担当したので、彼の間近かにいたことがある。
長嶋とは彼が新監督になったとき、だれもいない後楽園球場のベンチ裏で、胸毛を出した裸のまま腰にバスタオルを巻いていたところに出くわした。至近距離はその一瞬だけだったが、目を合わせた印象は強烈そのものだった。
ものすごいオーラを浴びた。生まれてはじめて、「オーラ」という得体の知れない電流にしびれたのが長嶋だった。ぼくの人物を観る目を、もうひとつ開いてくれた人である。
このへんの思い出話になると言いたい人は山のようにいるだろうから、少し視点を変えて、あのころといまの違いの一端に触れておこう。
当時は新聞の発行部数のトップ争いもし烈だった。首位は朝日、それを追うのが読売で、トップの座を目指していた。
ジャイアンツの親会社は読売新聞社ではなく、読売興業だった。つまり、あの吉本興業と同じような興業会社である。
おおげさな言い方になるが、昭和のテレビの野球中継といえば、ほとんどが巨人戦。スポーツ新聞も一面トップは巨人の試合で、新聞のスポーツ欄も似たようなものだった。週刊誌の特集企画も同じ。新潟生まれのカミさんは、プロ野球はジャイアンツしか知らなかったと言っている。
読売新聞の新規購読者を獲得する切り札が入手困難な巨人戦のプラチナチケットだった。これが新規契約の景品として、とくに地方では絶大な威力を発揮した。
わが九州でいえば、小倉にある読売新聞西部本社もおおいにこのチケットを活用していた。この西部本社の親会社も読売興業だった。そして、ついに読売新聞の発行部数は朝日を抜いた。
巨人軍が常勝軍団として、優勝を使命づけられていた背景にはこうした企業戦略があった。
「わが巨人軍は永久に不滅です」
引退セレモニーで、ファンあってのプロ野球を全身で意識していたという長嶋がそう叫んだ心中の深いところは、想像するしかない。
彼が監督に就任して、負け試合が続き、読売新聞社の実力者と呼吸を合わせた前監督の川上哲治との暗闘が繰りひろげられたとき、親しい人に向かって、「ねぇ、正義は勝つよね」と言ったという情報も耳にした。
あのミスターが絞り出した「正義は勝つよね」の言葉の意味が、「わが巨人軍は永久に不滅です」と重なって聞こえるのだ。
ときは流れて、巨人戦のテレビ中継の数は当時と比べて見る影もない。部数の減少に歯止めがかからない新聞業界もまたそうである。
スタンドの応援風景も様変わりした。長嶋茂雄の訃報は人々の関心と社会現象の移り変わりを物語っているように、ぼくの目には映る。
■散歩をしながら、ブログに載せる写真を探す。
ビワの実があった。どうやら摘果して、残した実を大きく育てて、食べる気はないらしい。そんな家が目につく。
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