なかにし礼さんの作詞修行2021年02月12日 16時31分

 ここ数日の新聞のテレビ番組欄に、作詞家のなかにし礼さんの特集番組をよく見かける。彼が昨年暮れに病気で亡くなってから、同じような番組が何回も放送されている。たぶん彼がつくった詞には、時代を共にした中高年の人たちの胸に響くものがあるのだろう。
 今日はなかにしさんの若いころの苦闘をしっかり記憶しておくために書いておく。
 その話は、2003年10月5日の日本経済新聞の連載記事「半歩遅れの読書術」に久世光彦さんが寄せたエッセイの中にある。タイトルは「言葉になじむ」。
 ぼくはあるところで講師をしたとき、受講生のみなさんにその紙面をコピーして配ったことがある。ぜひ、読んでもらいたかったのだ。
 久世さんは15年前に亡くなったが、彼もまた名うての名文家だった。
 以下、該当の文章をそのまま書き写す。
 ――なかにし礼さんは、シャンソンの訳詞をしながら、歌謡曲の作詞家を志していた。ある日思い立って、明治末から現代までのヒット曲の歌詞を、片っ端から原稿用紙に筆写しはじめた。〈裏町人生〉や〈明治一代女〉など、何百回写したかしれない。そして、〈悲しみの眼の中を/あの人が逃げる〉や〈私の胸にぽっかりあいた/小さな穴から青空が見える〉といった、なかにし礼の名文句は生まれた――
 これを読むと、無名だったころのなかにしさんが部屋に閉じこもって、毎日、毎日、ただひたすらにヒットした歌謡曲の歌詞を書き写している姿が目に浮かぶ。それも同じ歌詞を何十回も、何百回も。
 きっと声をだして、何度も、何度も、読み返していたに違いない。とっくに暗記しているはずだが、ご本人にはそれでもまだ足りない、書き写している歌詞の一つひとつの言葉やリズムと自分の感覚にはまだ距離がある、そう感じていたのではあるまいか。
 一心不乱にひとつのことを究めようとする真摯な迫力が伝わって来るようである。そして、久世さん本人も似たようなことをやっていた。
 こうした実話は、次の世代にも伝えた方がよいとおもっている。ちなみに、ぼくは作家・なかにし礼の壮絶な自伝『兄弟』を読んで、作詞家としての代表作のひとつである『石狩挽歌』がますます好きになった。

■『兄弟』(文庫本)が見当たらないので、見つかったら、その写真を載せます。

■追記 『兄弟』はどうやら処分したらしい。作中、ニシン漁をめぐる実話が印象的だった。本の写真の代わりに、北原ミレイもいいけど、八代亜紀の『石狩挽歌』の歌声を。
https://www.youtube.com/watch?v=vlSYxEr8OiY&list=PLQh_yjSFsDFn80L0FPNi8wSyfqrRjZ5pb