めぐり逢う・ヤコブ ― 2021年03月02日 12時03分

インスタントコーヒーを飲み飽きて、久しぶりに手回しのミルでコーヒー豆を挽き、ドリップで淹れた。モカの酸味がほどよく効いていて、やっぱり旨い。
こうして手ずからコーヒーを淹れると、学生時代に半年間、小さな喫茶店でアルバイトのマスターをやっていたころを思い出す。
その店は高田の馬場駅から大学に向かう途中の大きな交差点のすぐ近くにあった。店の名をヤコブという。生まれて初めて手にした名刺は、「店をやってみないか」と声をかけてくれたオーナーのSさんが作ってくれたもので、俳人の楠本憲吉さんがデザインしたと聞かされた。
ぼくは店の前の歩道に出す白い看板に、「すれ違う十字路 めぐり逢うヤコブ」と筆字で書いて、大学4年生のある日突然、店のマスターになったのである。
まわりの喫茶店のコーヒーは安くても一杯150円。こちらは骨董品ものの大型のミルで少量ずつ豆を挽いて、できるだけ引き立てのコーヒーをドリップで淹れて130円。Sさんは新宿中村屋の株主だったので、中村屋のカリーとコーヒーのセットは300円、同じくボルシチとコーヒーは350円で出していた。客席は、長いカウンターに7席、後ろに二人掛けの小さなテーブルが二つ。
ありていに言えば、これで儲かるはずはなく、Sさんが暇つぶしにやっていた店だった。夕方からはアルコールも出して、カネのない友だちや後輩たち、剣道部の学生、浪人生たちもやってきた。
カウンターの中の正面の壁には、大きな日本地図を貼った。学生たちが来ると、かれらの出身地を聞き、その土地の話をしてもらう趣向だった。北海道、東北、北陸、中部…、それこそ全国各地から学生たちは出て来ていて、彼らの高校時代の話と自分が出た高校の自由度の違いに驚かされることも多かった。
「高下駄を履いて、バットを手にして学校に通っていた」、「廊下にはタン壺が置いてあった」、「学帽は引き破ってかぶるのが昔から伝統です」、「便所のクソが凍るとスコップでたたき割った」、「リンゴをちぎって食うとうめえぞ」、「旺文社の全国模試でトップになった、そのときの答案用紙の名前には戸川万吉と書いた(戸川万吉は、当時、人気絶大だったマンガ「男一匹ガキ大将」の主人公)」
こんな話が続々と出て来た。
医大を中退して、ヨーロッパで柔道を教えると旅立った人。剣道部なのに、アメリカで空手を教えると海を渡って行った先輩。失恋して、彼女に渡すプレゼントを雪の積もった夜の交差点に投げ捨てた奴。国際的な仕事もしている都市設計の会社を辞めて、自分でつくった屋台を引きはじめた人。お前に負けない男になって帰って来ると、海外へ放浪の旅に出た友もいた。
ちょうど「神田川」がヒットしていて、まるで今のぼくみたいだな、とおもったこともある。みんな青春の真っただなかだった。
忙しいときよりも、ヒマな時間の方が多かったが、店というのは、流れる川の中にある石のようなもので、じっとしていてもいろんな人が漂着して来る。
オヤオヤ、かわいい女の子が入って来たぞ、と思ったら、ナント、高校の後輩だったこともある。あれから幾星霜、いまでも彼女とのお付き合いはつながっていて、ぼくが商品企画した球磨焼酎の銘柄を蔵元から定期的に、それも相当な量を買ってくれている。
まさしく「めぐり逢うヤコブ」だった。だれが仕組んだものやらわからないが、縁とはありがたいものだ。
ぼくにとってのSさんは、まさに「東京のオヤジさん」だった。何度もご自宅に泊まったことがある。洗面所には、ぼくの歯ブラシが置かれていた。誕生日には、わざわざ早朝から千葉の方面まで出世魚のスズキを釣りに行って、広島の名酒・加茂鶴の一斗樽を開けて、ご家族で祝ってくれたこともある。
Sさんの盟友のYさんは某出版社の幹部で、お二人ともGパンに下駄ばき姿のぼくを、雑誌の編集者や作家が来る池袋の店、新宿ゴールデン街、銀座のクラブなどに連れまわしてくれた。次から次へに、学生にはとても入れそうもない店を5、6軒、ハシゴするのである。帰りはたいてい黒塗りのハイヤーだった。
そのとき教えてもらった数々の社会勉強の積み重ねが、4年生になっても就職活動をしなかったぼくの将来への扉を開けてくれたのだとおもう。
念ずれば叶う、と言う。小学校のころから新聞記者になりたくて、運よく新聞社系の週刊誌のフリー記者になれたのも、Sさんとのご縁のお陰である。
後になって気づいたことだが、「東京のオヤジさん」は喫茶店のマスター稼業をおもしろがっている「息子」のことを案じて、ちゃんと行き場所を考えていてくれていたのだった。今年がSさんの10回忌になる。
ぼくが雇われマスターを辞める日が、ヤコブを閉じる日だった。
閉店の日、友人やゼミの仲間、先輩、後輩たち、運動部の連中、浪人生、学生時代にお世話になった学生街の食堂の人もやって来て、小さな店の外までにぎやかな行列ができた。
ぼくは日本酒の一升瓶を取り出して、「さぁ、やってください」と、列の最後の人まで、順番にまわし飲みをした。これで最後と、何度もくり返した。
みなさん、陽気に笑いながら、ヤコブの終わりを惜しんでくれた。本当に、いい経験をさせていただいた。いまごろ、あの人たちはどうしているだろうか。
さて、昔話はこのへんにして、もう一杯、コーヒーを淹れようかな。
こうして手ずからコーヒーを淹れると、学生時代に半年間、小さな喫茶店でアルバイトのマスターをやっていたころを思い出す。
その店は高田の馬場駅から大学に向かう途中の大きな交差点のすぐ近くにあった。店の名をヤコブという。生まれて初めて手にした名刺は、「店をやってみないか」と声をかけてくれたオーナーのSさんが作ってくれたもので、俳人の楠本憲吉さんがデザインしたと聞かされた。
ぼくは店の前の歩道に出す白い看板に、「すれ違う十字路 めぐり逢うヤコブ」と筆字で書いて、大学4年生のある日突然、店のマスターになったのである。
まわりの喫茶店のコーヒーは安くても一杯150円。こちらは骨董品ものの大型のミルで少量ずつ豆を挽いて、できるだけ引き立てのコーヒーをドリップで淹れて130円。Sさんは新宿中村屋の株主だったので、中村屋のカリーとコーヒーのセットは300円、同じくボルシチとコーヒーは350円で出していた。客席は、長いカウンターに7席、後ろに二人掛けの小さなテーブルが二つ。
ありていに言えば、これで儲かるはずはなく、Sさんが暇つぶしにやっていた店だった。夕方からはアルコールも出して、カネのない友だちや後輩たち、剣道部の学生、浪人生たちもやってきた。
カウンターの中の正面の壁には、大きな日本地図を貼った。学生たちが来ると、かれらの出身地を聞き、その土地の話をしてもらう趣向だった。北海道、東北、北陸、中部…、それこそ全国各地から学生たちは出て来ていて、彼らの高校時代の話と自分が出た高校の自由度の違いに驚かされることも多かった。
「高下駄を履いて、バットを手にして学校に通っていた」、「廊下にはタン壺が置いてあった」、「学帽は引き破ってかぶるのが昔から伝統です」、「便所のクソが凍るとスコップでたたき割った」、「リンゴをちぎって食うとうめえぞ」、「旺文社の全国模試でトップになった、そのときの答案用紙の名前には戸川万吉と書いた(戸川万吉は、当時、人気絶大だったマンガ「男一匹ガキ大将」の主人公)」
こんな話が続々と出て来た。
医大を中退して、ヨーロッパで柔道を教えると旅立った人。剣道部なのに、アメリカで空手を教えると海を渡って行った先輩。失恋して、彼女に渡すプレゼントを雪の積もった夜の交差点に投げ捨てた奴。国際的な仕事もしている都市設計の会社を辞めて、自分でつくった屋台を引きはじめた人。お前に負けない男になって帰って来ると、海外へ放浪の旅に出た友もいた。
ちょうど「神田川」がヒットしていて、まるで今のぼくみたいだな、とおもったこともある。みんな青春の真っただなかだった。
忙しいときよりも、ヒマな時間の方が多かったが、店というのは、流れる川の中にある石のようなもので、じっとしていてもいろんな人が漂着して来る。
オヤオヤ、かわいい女の子が入って来たぞ、と思ったら、ナント、高校の後輩だったこともある。あれから幾星霜、いまでも彼女とのお付き合いはつながっていて、ぼくが商品企画した球磨焼酎の銘柄を蔵元から定期的に、それも相当な量を買ってくれている。
まさしく「めぐり逢うヤコブ」だった。だれが仕組んだものやらわからないが、縁とはありがたいものだ。
ぼくにとってのSさんは、まさに「東京のオヤジさん」だった。何度もご自宅に泊まったことがある。洗面所には、ぼくの歯ブラシが置かれていた。誕生日には、わざわざ早朝から千葉の方面まで出世魚のスズキを釣りに行って、広島の名酒・加茂鶴の一斗樽を開けて、ご家族で祝ってくれたこともある。
Sさんの盟友のYさんは某出版社の幹部で、お二人ともGパンに下駄ばき姿のぼくを、雑誌の編集者や作家が来る池袋の店、新宿ゴールデン街、銀座のクラブなどに連れまわしてくれた。次から次へに、学生にはとても入れそうもない店を5、6軒、ハシゴするのである。帰りはたいてい黒塗りのハイヤーだった。
そのとき教えてもらった数々の社会勉強の積み重ねが、4年生になっても就職活動をしなかったぼくの将来への扉を開けてくれたのだとおもう。
念ずれば叶う、と言う。小学校のころから新聞記者になりたくて、運よく新聞社系の週刊誌のフリー記者になれたのも、Sさんとのご縁のお陰である。
後になって気づいたことだが、「東京のオヤジさん」は喫茶店のマスター稼業をおもしろがっている「息子」のことを案じて、ちゃんと行き場所を考えていてくれていたのだった。今年がSさんの10回忌になる。
ぼくが雇われマスターを辞める日が、ヤコブを閉じる日だった。
閉店の日、友人やゼミの仲間、先輩、後輩たち、運動部の連中、浪人生、学生時代にお世話になった学生街の食堂の人もやって来て、小さな店の外までにぎやかな行列ができた。
ぼくは日本酒の一升瓶を取り出して、「さぁ、やってください」と、列の最後の人まで、順番にまわし飲みをした。これで最後と、何度もくり返した。
みなさん、陽気に笑いながら、ヤコブの終わりを惜しんでくれた。本当に、いい経験をさせていただいた。いまごろ、あの人たちはどうしているだろうか。
さて、昔話はこのへんにして、もう一杯、コーヒーを淹れようかな。
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