危機一髪だった2021年06月02日 15時46分

 紙一重、危機一髪。だれだって、そんなことのひとつやふたつは体験するものだ。
 鏡に顔を近づけないとわからないが、ぼくの右側のほほには、右目のすぐ下から上唇にかけて、うすい線がある。これは小学3年生のときにできた傷跡である。
 鹿児島の錦江湾にのぞむF町にいたとき、旧国鉄マンだった父はそこから桜島へと向かう新しい線路をつくる仕事をしていた。F駅はその起点だった。
 駅の構内には、何本かの引き込み線があり、工事に必要な機材や枕木、バラスなどを積んだ貨車をひく蒸気機関車も停まっていた。ここで石炭と水を補給し、新しく敷設された線路を走って、工事現場の最前線までを往復するのである。
 駅舎のすぐ近くには同級生の親が経営している製材所があった。ぼくたちはそこに捨ててあったら板をもらって、港の船着き場に行き、小さな伝馬船のもやいを解いて、オール代わりに使ったものだ。港の中をワイワイ騒ぎながら漕いでまわっても、怒る人はだれもいなかった。
 ある日、ひとりで駅の構内をぶらぶらしていたら、あれは何だったのか、おもい出せないが、突然、頭のなかで「早く行かなくっちゃ」という信号が光った。すぐに全力で走り出し、線路を飛び越えて、道路に出ようとした。
 そのとき、ガツーンと顔面に何かがぶつかった。からだごと壁に衝突したようにはね返された。声も出せずに、ぼくはその場にひっくり返ってしまった。
 顔がカッカッと燃えるように熱い。両手で顔をおおったまま、しばらく動けなかった。ひと息ついて、こわごわと手の平を見ると、真っ赤になっていた。
 ナンデ? ナニに当たった?
 血が目に入って、かすんで見える目の前にあったのは有刺鉄線の網だった。黒い枕木を建てた柱の列に、針金の先を鋭く断ち切った有刺鉄線が張られていたのである。駅構内への進入を禁止するためのものだった。
 その尖った鉄線の束がぼくにはまったく見えていなかった。そこへ顔から先に勢いよく飛び込んでしまったのだ。
 突然、鉄砲玉のように走り出すのは、小さな子どもがよくする行動である。あのときのぼくがそうだった。そういうときがアブナイ。危機一髪のシーンに遭遇するときの子どもたちの目は開いていても、その実、何も見えていないのだ。まだ危険を予測して、落ち着いて対応するという能力が身についていないのである。
 血まみれになった顔を手で押さえながら、家に戻ると母の顔色がさっと変わった。後から聞いたところでは「もしや、目が見えなくなったのでは」と肝を潰したそうだ。
 町に一軒しかない医者は治療しながら、何度もこう言った。
 「あぶなかったねぇ。目に当たらなくてよかった。ほんの1ミリ違っていたら、右の目に入っていたところだった」
 あのころは気がつかなかったが、たぶん小学生の顔に大きな傷跡が残ることがわかっていたので、医者は最悪の結果でなくてよかったと強調することで、ぼくの心のケアをしてくれたのだろう。
 傷口に当てた白いガーゼがはずれたあとも、ぼくの右のほほにはザックリと切られた太い線がはっきり残った。小倉に転校した後も、友だちからときどき「泣いているの?」と言われた。右目の下に涙の流れた跡がある、とおもわれたのだ。
 子どものころ顔にできた深い傷が、その後の自分にどんな影響を与えたのか、よくわからない。だが、あのときの紙一重の差が、逆の結果に転んでいたら、その後の人生は天と地ほどの違いがあったかもしれない。
 ときとして人の運命を決めるのは、まさに予期せぬ一瞬である。そして、それはどこで起きるのか、予測もつかない。
 いまでも自分の顔の傷跡を見るたびに、オレハ、ナント、ウンガツヨイノダロウ、とおもうことにしている。またカミさんから「そうやって、いつも自分の都合のいいように解釈するんだから」と言われそうだが。

■有刺鉄線も、それを網状にして張った鉄条網もほとんど見かけなくなった。危険防止、進入禁止のために使われる材料そのものが危険物なのだから、そういうモノを作り出す人間とは不思議な動物である。きっとケガをした人はたくさんいるに違いない。