ぼくの「青春の門」と「パンツの山」2021年08月31日 08時46分

 あれも若者の特権のひとつだったのだろうか。10代から20代のころ、いろんな人が背中を押してくれた。見ず知らずの人から忘れられない言葉をかけられることもあった。
 あれは一浪して東京の私大に入学して、2か月ほど過ぎたころだった。どんな所用があったのか覚えていないが、ある平日の昼下がり、ぼくは西武新宿線・高田馬場駅のホームに立っていた。少しばかり伸びた髪、白の綿シャツ、Gパン、下駄ばきの恰好で、手には布製のバンドで結んだ授業の教本を持っていた。ホームは閑散としていて、電車の本数が少ない時間帯だった。
 そのとき5、6メートルほどはなれたところにいたサラリーマン風の男性が、ぼくの顔を見ながら近づいてきた。年のころは30歳ぐらい、まったく面識のない人だった。その男性は目の前までやってくると、口元に微笑をたたえながら、こう話しかけてきたのだ。
「君は早稲田の新入生ですか。五木寛之の『青春の門』を読んだことがありますか。ぜひ、読んでご覧なさい」
 この人、いったい何を言っているんだろうとおもった。
「『青春の門』の主人公はね、君のような人ですよ」
 そう言うと、ニコッと顔をくずして、また元いた場所へとはなれて行った。
 たったそれだけのことだった。だが、そのひと言は、ぼくの胸のなかに竜巻のような渦を巻き起こしたのである。東京に出てきて、初めての勇気づけられた言葉だった。
 その日、さっそく学内の書店で平積みされていた『青春の門 筑豊編』を買い求めた。主人公の伊吹信介は、ぼくが住んでいた小倉から近い筑豊の生まれだった。ホームで声をかけてきたあの男性は、同じホームで電車を待っていた田舎っぽい学生が九州の出身だと見抜いていたのだろうか。
 『青春の門』を読み上げたその夜、ぼくは大学の正門前の屋台に立ち寄って、おでんで腹ごしらえをして、下駄を鳴らしながら歩きはじめた。まだ東京の街をよく知らなかった。都心をぐるりとまわっている山手線を歩けるところまで歩こうとおもった。すでに夜更けの10時を過ぎていた。
 線路に沿って北から南へと下って行く。高田馬場から新大久保、新宿、代々木、原宿、渋谷、恵比寿。
 とっくに終電の時刻は過ぎた。人っ子ひとりいない、寝静まった暗い道を歩く。途中、自転車に乗った巡査から「何をしているんですか」と声をかけられた。
 目黒、五反田、大崎。その先で道を間違えた。両岸をセメントで固められた黒い川(目黒川だった)にぶつかって、下流の橋を渡ったところからコースを外れてしまった。
 見えてきた線路が東海道本線とは気づかず、やけに長い距離をひたすら歩きつづけて、着いたところは大井町。そこから引き返して、品川までたどりついたときには、すっかり明るくなっていた。電車もふだん通りに動いていた。品川から先は朝のラッシュ前の緑色の電車に乗って、東京、上野、池袋は眠ったまま通り過ぎた。
 ただ夜から朝まで歩いただけのことだった。しかし、『青春の門』を読んだ後のぼくは、東京で何かやってやろうと燃えていたのだ。
 いまおもうと、まるでミーハー並みだが、友人と小銭を出し合って、学生街の小さなスナックでいちばん安いウィスキーのボトルを初めてキープしたとき、その瓶に黒のマジックで「伊吹信介」と書き込んだ。
 そこからの自分は、はっきり変わっていったとおもう。
 小学校から高校まで、ぼくはクラスの女子とほとんど口をきいたことがなかった。鹿児島にいた子どもころ、女子と話す男子は仲間たちから笑いものにされ、軽蔑されていた。以来、同じクラスに好きな女の子がいても、一度たりとも声をかけたことはなかった。高校の体育祭のプログラムに、女子とのフォークダンスがあると知ったときは、勘弁してくれよ、と仮病をつかって欠席したほどだ。
 しかし、「『青春の門』の主人公はあなたのような人ですよ」と言われたのをきっかけに、女の人に対する頑(かたく)なな気持ちは、氷が解けるようにほぐれていくのが自分でもわかった。
 ボトルを入れたスナックで働いていた若い女の人は、ぼくのことを「シンスケさん」と呼んで、顔を出すと決まって隣の椅子に座るようになった。出身は北陸地方の田舎町だと言っていた。色が白くて、からかうと口をとんがらして睨み、すぐにまた笑顔になる人気者だった。どういうわけか気が合って、昼間二人で大学の構内を歩いたこともある。
 ある晩、まわりの客に聞こえないように、「洗濯物、溜ってるでしょ。洗ってあげるよ。パンツもかまわないから、出してね」と言ってくれた。
 数日後、下宿の窓の下から「シンスケさーん」と呼ぶ声が聞こえた。
「洗濯物、出して。洗ってあげるから」
 ぼくは大急ぎで押し入れに突っ込んでいた汚れたパンツや肌着の山を引っ張りだした。そのとき部屋に遊びにきていた友だちが「オレのも頼む!」とパンツを脱いだ。
 翌日の夕暮れ、見違えるように真っ白になった下着を届けてくれた彼女は、「ほら、こんなになっちゃった」と両手を開いてみせてくれた。細い指先は赤くなって、ぼろぼろに荒れていた。独身のアパート暮らしには、まだ洗濯機がなかったころの話である。
 そんな青春の一幕があった。それもこれも駅のホームでの見知らぬ人からのひと言が、ぼくの背中を押してくれたからだとおもう。

■写真は、一昨日の夜、カミさんと出掛けて行った福岡アビスパvs徳島ヴォルティスの試合の様子。先日、わがアビスパは無敗を続ける王者・川崎フロンターレを1-0で破る大金星をあげた。その勢いのまま徳島戦も3-0で完封。おおいに気分をよくしたが、マスクをつけっぱなしの応援は息苦しくてつらかった。