激変した年賀状の向こう側 ― 2021年12月10日 16時18分

仕事が休みの息子が朝から出かけて行った。高校時代の友だちの2周忌で、仲間と誘い合わせて、お骨を納めている寺に墓参りに行くという。
息子の辛くて困難な時期を支えてくれたのが、仲良し4人組だった。そのなかのM君がまだ一歳の誕生日も迎えていないひとり娘を残して、ガンで旅立ったとき、知らせを聞いたぼくたち夫婦は涙があふれて止まらなかった。
4人組は3人組になったけれど、息子はいまもM君の月命日には、できる限り墓参りをしている。悲しくて、残念無念だが、お前たち、いい友だちだよなぁ、とおもう。
昨日はしばらく会っていない年下の知人から、喪中挨拶のハガキが届いた。この時期になると「年末年始のご挨拶をご遠慮申し上げます」という黒枠のハガキがぽつぽつ舞い込んでくる。
はじめのころ、亡くなった人は祖父とか祖母だった。それが父、母になり、このごろは兄弟も加わった。昨日のハガキも実兄だった。
ああ、自分もそういう歳になったのだ。来年はまた年男になる。年賀状はその人の近況だけではなく、過ぎてゆく時間の速さも教えてくれる。
数年前からは「今年で、年賀状のご挨拶をやめます」という人も出てきた。
その気持ちはわからないでもない。世事のわずらわしさからすっきりと解放されたくなったのだろう。10年も、20年も会っていない人に、そして、おそらく会うこともない人に、「今年もよろしく」と空々しい決まり文句の書くのは、あまり気分のよいものではない。もらう方だって、苦笑しているだろう。ま、固いことを言っても仕様がないか。
いただいた年賀状で、いちばんショックだったのは、中学時代のいちばんの友人からのものだった。それまでの年賀状は、彼が描いた大胆な構図の版画で、気の利いた一文が躍動的な筆づかいで書かれていた。ひと目で、東京にいる彼のからのものだとわかった。
ところが、今年の元旦に届いた賀状は、よくある印刷モノに変わっていた。文章も彼のものではなかった。しばらくして関西にいる同じクラスメイトの女性から、「彼、どうしたのかしら。いつもの年賀状ではないけれど。心配だな」という連絡があった。
その彼は、クラスでいちばん頭がよくて、発想が飛び抜けてユニークで、絵も上手だった。分け隔てのない人柄はワルガキからも好かれて、生徒会長にも選ばれた。一流の国立大学から大手企業に就職し、海外でも活躍したぼくらの自慢のエースだった。中学校の友だちのなかで、互いの結婚披露宴に出席し合ったのは、彼とぼくだけという間柄である。
こちらも気になっていたので、東京の彼の自宅に電話を入れた。すぐにぼくとわかって、明るく元気な声が返ってきた。だが、話がちぐはぐで、いつもとは感じがちがう。奥さんに代わって、わかったのは、これまでのように会話のやりとりができなくなっている、ということだった。
まったく原因は不明だが、退職してから、急速にそうなったという。ふつうに元気だから、見た目には病人とはわからないそうだ。
ときおり、彼に送ったメールの返事も、本人からのものではなく、奥さんからになった。そして、彼の病名は認知症と書かれていた。その病気なら、ぼくだって、だれだって、いつそうなってもおかしくない。
でも、あいつなら、きっと大丈夫だ。学生時代からの恋人で、あいつのことをだれよりも愛している、気丈でやさしい奥さんもついている。
こんなブログを書くのは、大切な友だち夫婦の苦衷をさらしモノにしているようで、自分が嫌になる。でも、いまを書くということは、いまのありのままを書くということだ。それは隠しごとをしなかったアイツとオレとの流儀である。ただし、彼の病気のことは、あの関西の同級生とうちのカミさん以外には、絶対にだれにも言わないと決めている。
ずいぶん会っていないが、わが畏友と奥さんには、心からのエールを込めて、例年と同じように、「今年もよろしく」の挨拶を送ろうとおもう。
■買い物の途中で、きれいな花を見かけた。ときどき目にするが、浅学にて、花の名前は知らない。きっとこの家の人には自慢の花だろう。
息子の辛くて困難な時期を支えてくれたのが、仲良し4人組だった。そのなかのM君がまだ一歳の誕生日も迎えていないひとり娘を残して、ガンで旅立ったとき、知らせを聞いたぼくたち夫婦は涙があふれて止まらなかった。
4人組は3人組になったけれど、息子はいまもM君の月命日には、できる限り墓参りをしている。悲しくて、残念無念だが、お前たち、いい友だちだよなぁ、とおもう。
昨日はしばらく会っていない年下の知人から、喪中挨拶のハガキが届いた。この時期になると「年末年始のご挨拶をご遠慮申し上げます」という黒枠のハガキがぽつぽつ舞い込んでくる。
はじめのころ、亡くなった人は祖父とか祖母だった。それが父、母になり、このごろは兄弟も加わった。昨日のハガキも実兄だった。
ああ、自分もそういう歳になったのだ。来年はまた年男になる。年賀状はその人の近況だけではなく、過ぎてゆく時間の速さも教えてくれる。
数年前からは「今年で、年賀状のご挨拶をやめます」という人も出てきた。
その気持ちはわからないでもない。世事のわずらわしさからすっきりと解放されたくなったのだろう。10年も、20年も会っていない人に、そして、おそらく会うこともない人に、「今年もよろしく」と空々しい決まり文句の書くのは、あまり気分のよいものではない。もらう方だって、苦笑しているだろう。ま、固いことを言っても仕様がないか。
いただいた年賀状で、いちばんショックだったのは、中学時代のいちばんの友人からのものだった。それまでの年賀状は、彼が描いた大胆な構図の版画で、気の利いた一文が躍動的な筆づかいで書かれていた。ひと目で、東京にいる彼のからのものだとわかった。
ところが、今年の元旦に届いた賀状は、よくある印刷モノに変わっていた。文章も彼のものではなかった。しばらくして関西にいる同じクラスメイトの女性から、「彼、どうしたのかしら。いつもの年賀状ではないけれど。心配だな」という連絡があった。
その彼は、クラスでいちばん頭がよくて、発想が飛び抜けてユニークで、絵も上手だった。分け隔てのない人柄はワルガキからも好かれて、生徒会長にも選ばれた。一流の国立大学から大手企業に就職し、海外でも活躍したぼくらの自慢のエースだった。中学校の友だちのなかで、互いの結婚披露宴に出席し合ったのは、彼とぼくだけという間柄である。
こちらも気になっていたので、東京の彼の自宅に電話を入れた。すぐにぼくとわかって、明るく元気な声が返ってきた。だが、話がちぐはぐで、いつもとは感じがちがう。奥さんに代わって、わかったのは、これまでのように会話のやりとりができなくなっている、ということだった。
まったく原因は不明だが、退職してから、急速にそうなったという。ふつうに元気だから、見た目には病人とはわからないそうだ。
ときおり、彼に送ったメールの返事も、本人からのものではなく、奥さんからになった。そして、彼の病名は認知症と書かれていた。その病気なら、ぼくだって、だれだって、いつそうなってもおかしくない。
でも、あいつなら、きっと大丈夫だ。学生時代からの恋人で、あいつのことをだれよりも愛している、気丈でやさしい奥さんもついている。
こんなブログを書くのは、大切な友だち夫婦の苦衷をさらしモノにしているようで、自分が嫌になる。でも、いまを書くということは、いまのありのままを書くということだ。それは隠しごとをしなかったアイツとオレとの流儀である。ただし、彼の病気のことは、あの関西の同級生とうちのカミさん以外には、絶対にだれにも言わないと決めている。
ずいぶん会っていないが、わが畏友と奥さんには、心からのエールを込めて、例年と同じように、「今年もよろしく」の挨拶を送ろうとおもう。
■買い物の途中で、きれいな花を見かけた。ときどき目にするが、浅学にて、花の名前は知らない。きっとこの家の人には自慢の花だろう。
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