息子、30代の旅立ち ― 2022年03月13日 18時19分

長男がほぼ10年間勤めていた魚料理のチェーン店を辞めた。もうひとりの先輩も同じ理由で辞めるという。
息子は有給休暇が最高の40日近くもあるとか。相場よりもかなり安い給料だったが、まじめに働いていればいつかはきっといいときがくる。彼はそうおもっていたらしく、じっと我慢していた。
30代に、人生の岐路が待っている。自分もそうだったし、同じような人を何人も見てきた。先のことはだれにもわからない。辞めるか、辞めないか、信じる道を行くしかないとおもう。
昨日の朝、長い休みを利用して、息子は独りで九州自動車道を南下。熊本、鹿児島、宮崎の店や本社をまわって、いままでお世話になった人たちへの挨拶まわりに出発した。彼なりのひとつの区切りなのだろう。
出かける前に、「だったら、途中の人吉インターで降りて、高田酒造場に寄って、焼酎を買って来てくれないかな」と軽い気持ちで声をかけた。
そう言ったあとで、まぁ、そこまで頼むこともないかと気が引けて、「いまの話はいいよ。まわり道になるもんな。高田さんのところは行かなくていいからな」と訂正した。
数時間後、ぼくの携帯が鳴った。
「いま高田さんのところにいる。何を買えばいいと?」
やっぱり、行ったんだ。そういう性格なのだ。
「おう、行ってくれたのか、悪いな。じゃあ、いちばん安い普通酒で、常圧蒸留の『秋穂』と減圧蒸留の『五十四萬石』の一升瓶を1本ずつたのむ。ほかは買わなくていいよ。それで、いまそこにはだれがいる?」
「メガネをかけた若い女の人。たったいま商品を持って来ますと出て行った。じゃあ、それだけ買うね」
それから1時間後、また携帯が鳴った。
「高田さんの紙袋のなかを確認したら、注文していないのが1本入ってた。焼酎じゃなくて、ジンかな。きっとサービスしてくれたんだとおもう。気がつかなかったら、お礼も言わんかった。お父さんの方から高田さんによろしく連絡しておいてくれる」
これではっきりした。応対したメガネの女性は、高田さんのひとり娘のYちゃんに違いない。
彼女のことは、本人が小学生のころから知っている。結婚披露宴で幸せそうな花嫁姿も見た。いまでは高田家の「第十三代又助」として、立派に跡目を継いでいる。
21年前の2003年、創業100周年を迎えた高田酒造場は、記念事業として新しい仕込み蔵を建設した。その少し前に、ぼくは高田酒造場ファンクラブをつくって、この小さな蔵を側面から応援した。商品開発から情報発信、ブランディング、仕込み蔵の設計支援、銀行融資の援護射撃など何でもやった。そのすべてがたのしかった。
全国でもいち早く取り入れたアイガモ農法の無農薬米、自家栽培の山田錦、花酵母、5種類の樫樽を使用した長期熟成貯蔵、海抜1,000メートルの山頂付近に湧き出る石清水を使うなど、伝統の中に革新を取り入れて、量は追わず、質を求める高田さんの人柄と焼酎造りに共鳴して、よろこんでやったことだ。
最終的な目的は、かわいいひとり娘に、この小さな蔵を継いでほしいという高田さんの願いを実現することだった。ぼくたちのほかにも、もっと大勢の人たちが支援していた。
彼女が東京の大学で醸造学を学び、蔵に戻ってきたのを機に、ファンクラブの活動は次第に抑え気味にして行った。ずっと待っていた世代交代のときが来たのだ。ぼくらの役目が終わってから、もうずいぶんになる。
昨日、息子が蔵を訪ねたとき、メガネの女性は自分のことをほとんどしゃべらなかったという。でも、黙ったまま、そっと紙袋に和製のジンを忍ばせてくれたのだ。そんなことをやってくれる人は、高田さんのほかに、Yちゃん以外にはいない。
息子が帰ってきたら、氷をたっぷり入れたグラスを用意して、ふたりで高田酒造場自慢のジンをゆっくりとやりたい。そして、息子の次のステージへの出発を静かに祝ってやろう。
きっと口には出さないだろうけど、言ってやりたいことがある。Yちゃんは家業を継いだ。でもな、お前はいつでも自由なんだよと。
■団地のなかにカササギのカップルがいた。いつも旧型のiPhoneで撮影するので、大きな写真を撮るためにじわじわと近づくのだが、野鳥たちはすぐ飛んで逃げてしまう。
息子は有給休暇が最高の40日近くもあるとか。相場よりもかなり安い給料だったが、まじめに働いていればいつかはきっといいときがくる。彼はそうおもっていたらしく、じっと我慢していた。
30代に、人生の岐路が待っている。自分もそうだったし、同じような人を何人も見てきた。先のことはだれにもわからない。辞めるか、辞めないか、信じる道を行くしかないとおもう。
昨日の朝、長い休みを利用して、息子は独りで九州自動車道を南下。熊本、鹿児島、宮崎の店や本社をまわって、いままでお世話になった人たちへの挨拶まわりに出発した。彼なりのひとつの区切りなのだろう。
出かける前に、「だったら、途中の人吉インターで降りて、高田酒造場に寄って、焼酎を買って来てくれないかな」と軽い気持ちで声をかけた。
そう言ったあとで、まぁ、そこまで頼むこともないかと気が引けて、「いまの話はいいよ。まわり道になるもんな。高田さんのところは行かなくていいからな」と訂正した。
数時間後、ぼくの携帯が鳴った。
「いま高田さんのところにいる。何を買えばいいと?」
やっぱり、行ったんだ。そういう性格なのだ。
「おう、行ってくれたのか、悪いな。じゃあ、いちばん安い普通酒で、常圧蒸留の『秋穂』と減圧蒸留の『五十四萬石』の一升瓶を1本ずつたのむ。ほかは買わなくていいよ。それで、いまそこにはだれがいる?」
「メガネをかけた若い女の人。たったいま商品を持って来ますと出て行った。じゃあ、それだけ買うね」
それから1時間後、また携帯が鳴った。
「高田さんの紙袋のなかを確認したら、注文していないのが1本入ってた。焼酎じゃなくて、ジンかな。きっとサービスしてくれたんだとおもう。気がつかなかったら、お礼も言わんかった。お父さんの方から高田さんによろしく連絡しておいてくれる」
これではっきりした。応対したメガネの女性は、高田さんのひとり娘のYちゃんに違いない。
彼女のことは、本人が小学生のころから知っている。結婚披露宴で幸せそうな花嫁姿も見た。いまでは高田家の「第十三代又助」として、立派に跡目を継いでいる。
21年前の2003年、創業100周年を迎えた高田酒造場は、記念事業として新しい仕込み蔵を建設した。その少し前に、ぼくは高田酒造場ファンクラブをつくって、この小さな蔵を側面から応援した。商品開発から情報発信、ブランディング、仕込み蔵の設計支援、銀行融資の援護射撃など何でもやった。そのすべてがたのしかった。
全国でもいち早く取り入れたアイガモ農法の無農薬米、自家栽培の山田錦、花酵母、5種類の樫樽を使用した長期熟成貯蔵、海抜1,000メートルの山頂付近に湧き出る石清水を使うなど、伝統の中に革新を取り入れて、量は追わず、質を求める高田さんの人柄と焼酎造りに共鳴して、よろこんでやったことだ。
最終的な目的は、かわいいひとり娘に、この小さな蔵を継いでほしいという高田さんの願いを実現することだった。ぼくたちのほかにも、もっと大勢の人たちが支援していた。
彼女が東京の大学で醸造学を学び、蔵に戻ってきたのを機に、ファンクラブの活動は次第に抑え気味にして行った。ずっと待っていた世代交代のときが来たのだ。ぼくらの役目が終わってから、もうずいぶんになる。
昨日、息子が蔵を訪ねたとき、メガネの女性は自分のことをほとんどしゃべらなかったという。でも、黙ったまま、そっと紙袋に和製のジンを忍ばせてくれたのだ。そんなことをやってくれる人は、高田さんのほかに、Yちゃん以外にはいない。
息子が帰ってきたら、氷をたっぷり入れたグラスを用意して、ふたりで高田酒造場自慢のジンをゆっくりとやりたい。そして、息子の次のステージへの出発を静かに祝ってやろう。
きっと口には出さないだろうけど、言ってやりたいことがある。Yちゃんは家業を継いだ。でもな、お前はいつでも自由なんだよと。
■団地のなかにカササギのカップルがいた。いつも旧型のiPhoneで撮影するので、大きな写真を撮るためにじわじわと近づくのだが、野鳥たちはすぐ飛んで逃げてしまう。
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