人物本位で選びたい ― 2022年08月04日 08時55分

先の参院選では惜しい人物が国会から去った。はじめから苦しい戦いになることはわかっていた。あれから3週間あまりが過ぎた。ご本人は無念、残念の境地から脱しただろうか。
その人の名前を断りなしに、あえて出す。
参院選全国区に立候補した藤末健三さん(58歳)。
40歳のとき東大を退職して、政界に転じ、民進党から参院全国区で初当選をはたした。
その後、3期連続当選。53歳のとき民進党を離党(2017年)。翌年、統一会派「自由民主党・国民の声」を結成。参院選が間近に迫ったところで議員を辞職して、自民党から出馬した。
これだけみると野党から与党・自民党へ鞍替えした「政界渡り鳥」という印象が残る。だが、そういうレッテル貼りは思考停止に陥ってしまい、肝心なことを見落としがちだ。
初めて会ったのは、彼が東大工学部の助教授のとき。知人の東大生から「藤末先生が選挙に出ます。でも、選挙のことは何もわからないから、ぜひ、本人に会って、相談に乗ってあげてほしい」と頼まれ、出京して本人に会った。
第一印象をひと言で表せば、まさに「好漢」。小柄で童顔。笑うと目が細くなって、とてもやさしい顔になる。
藤末さんの基本的な情報を書いておこう。
生まれは熊本市。熊本高校から東工大へ進む。ボート部に入り、全日本の軽量級で2位になる。通産省(現・経産省)に入省。30歳のときに米国のマサチューセッツ工科大学の経営大学院、続いてハーバード大学の行政大学院に留学した。どちらも通常は2年かかる博士課程を1年でクリア。そのかたわらプロボクシングのライセンスも取得している。
35歳で通産官僚から東大の講師へ転任した(翌年、助教授)。経営論と政策論の講義を担当し、中国精華大学の客員教授にも就任している。早大客員教授にも就任して、学問の分野でも前途有望だった。
バリバリのエリートだが、そんな印象はまったくない。たぶん、いまでも変わっていないだろう。(議員を辞職した記者会見をユーチューブでみた印象もそうだった)
あのとき東大生はこうも言っていた。
「藤末先生の講義は学生に抜群の人気です。先生は、官僚ではいくら頑張っても、国のために自分のやりたいことはできない。だから学問の世界で貢献しようとおもった。でも、やっぱり日本を動かすことはできなかった。だから政治家になるしかないと言っています」
官僚から政治家を目指す人に、こういう人は少なくない。行政の複雑な仕組みに通じていて、巨額の予算を使って、国のビジョンに沿った政策を実行するから、政治家としても有能な即戦力になる。
藤末さんが民進党を離党したときのポストは政調会長代理、同会派の参院政策審議会長だった。つまり、野党第一党の政策立案のど真ん中にいたわけだ。自民党の組織に置き換えると閣僚か、準閣僚級の重要ポストである。
でも、こういう藤末さんのことを知っている人がはたしてどれだけいるだろうか。ぼくはたまたまご縁があったからよかったものの、彼の一般社会における知名度はまるっきり低かったとおもう。ここに野党の決定的な弱さがある。
彼が民進党からはなれた理由は、一貫して変わらない「政治家としての志を実現したい」ということだった。これまた野党に身を置くきびしい現実である。
そんな藤末さんを見て、だれかが自民党に引っ張り込んだに違いあるまい。できる人は放っておかないのだ。戦国時代の信長も、秀吉もそうだった。ごく当たり前のことだ。
しかし、藤末さんは自民党では反対党にいた新参者である。選挙で苦戦することは、ご本人がいちばんよくわっていたはずだとおもう。
選挙では、「人物本位で選びたい」という声をよく聞く。ところが、昨日招集された臨時国会に、参院選で初当選しながら欠席した人がいた。ぼくは知らなかったが、ユーチューバ―として知名度の高い人で、批判されてもまったく悪びれた様子はない。
ぼくの目には、多くの人たちが願っている「人物本位」という言葉が泣いているように映る。
■クマゼミを見つけた。街路樹のナンキンハゼにとまっていた。
アップで写真を撮りたくて、スマホをかまえて忍び寄った。クマちゃんは身の危険を察知したのか、細い脚を横に1ミリほどずつ動かしながら、じわじわと木の裏側へ移動して行く。そこで反対側にそっとまわり込んで待ち構えていたら、ピュッ! と小便をして、飛んで行った。
その人の名前を断りなしに、あえて出す。
参院選全国区に立候補した藤末健三さん(58歳)。
40歳のとき東大を退職して、政界に転じ、民進党から参院全国区で初当選をはたした。
その後、3期連続当選。53歳のとき民進党を離党(2017年)。翌年、統一会派「自由民主党・国民の声」を結成。参院選が間近に迫ったところで議員を辞職して、自民党から出馬した。
これだけみると野党から与党・自民党へ鞍替えした「政界渡り鳥」という印象が残る。だが、そういうレッテル貼りは思考停止に陥ってしまい、肝心なことを見落としがちだ。
初めて会ったのは、彼が東大工学部の助教授のとき。知人の東大生から「藤末先生が選挙に出ます。でも、選挙のことは何もわからないから、ぜひ、本人に会って、相談に乗ってあげてほしい」と頼まれ、出京して本人に会った。
第一印象をひと言で表せば、まさに「好漢」。小柄で童顔。笑うと目が細くなって、とてもやさしい顔になる。
藤末さんの基本的な情報を書いておこう。
生まれは熊本市。熊本高校から東工大へ進む。ボート部に入り、全日本の軽量級で2位になる。通産省(現・経産省)に入省。30歳のときに米国のマサチューセッツ工科大学の経営大学院、続いてハーバード大学の行政大学院に留学した。どちらも通常は2年かかる博士課程を1年でクリア。そのかたわらプロボクシングのライセンスも取得している。
35歳で通産官僚から東大の講師へ転任した(翌年、助教授)。経営論と政策論の講義を担当し、中国精華大学の客員教授にも就任している。早大客員教授にも就任して、学問の分野でも前途有望だった。
バリバリのエリートだが、そんな印象はまったくない。たぶん、いまでも変わっていないだろう。(議員を辞職した記者会見をユーチューブでみた印象もそうだった)
あのとき東大生はこうも言っていた。
「藤末先生の講義は学生に抜群の人気です。先生は、官僚ではいくら頑張っても、国のために自分のやりたいことはできない。だから学問の世界で貢献しようとおもった。でも、やっぱり日本を動かすことはできなかった。だから政治家になるしかないと言っています」
官僚から政治家を目指す人に、こういう人は少なくない。行政の複雑な仕組みに通じていて、巨額の予算を使って、国のビジョンに沿った政策を実行するから、政治家としても有能な即戦力になる。
藤末さんが民進党を離党したときのポストは政調会長代理、同会派の参院政策審議会長だった。つまり、野党第一党の政策立案のど真ん中にいたわけだ。自民党の組織に置き換えると閣僚か、準閣僚級の重要ポストである。
でも、こういう藤末さんのことを知っている人がはたしてどれだけいるだろうか。ぼくはたまたまご縁があったからよかったものの、彼の一般社会における知名度はまるっきり低かったとおもう。ここに野党の決定的な弱さがある。
彼が民進党からはなれた理由は、一貫して変わらない「政治家としての志を実現したい」ということだった。これまた野党に身を置くきびしい現実である。
そんな藤末さんを見て、だれかが自民党に引っ張り込んだに違いあるまい。できる人は放っておかないのだ。戦国時代の信長も、秀吉もそうだった。ごく当たり前のことだ。
しかし、藤末さんは自民党では反対党にいた新参者である。選挙で苦戦することは、ご本人がいちばんよくわっていたはずだとおもう。
選挙では、「人物本位で選びたい」という声をよく聞く。ところが、昨日招集された臨時国会に、参院選で初当選しながら欠席した人がいた。ぼくは知らなかったが、ユーチューバ―として知名度の高い人で、批判されてもまったく悪びれた様子はない。
ぼくの目には、多くの人たちが願っている「人物本位」という言葉が泣いているように映る。
■クマゼミを見つけた。街路樹のナンキンハゼにとまっていた。
アップで写真を撮りたくて、スマホをかまえて忍び寄った。クマちゃんは身の危険を察知したのか、細い脚を横に1ミリほどずつ動かしながら、じわじわと木の裏側へ移動して行く。そこで反対側にそっとまわり込んで待ち構えていたら、ピュッ! と小便をして、飛んで行った。
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