ライ麦畑でつかまえて2022年11月14日 13時33分

 ノートを開けたら、こんな文章を書きとっていた。

 階下(した)へ行ってマル・ブロッサードが何をしているか、見てみようと思ったんだ。が、急に気が変わってね。急にあることを決心したんだな。ペンシーから飛び出してやれ――そのまま、その夜のうちに飛びだしてやれ――そう僕は決心したんだな。

 これは青春小説の『ライ麦畑でつかまえて』のなかにある文章である。
 たぶん、そのときのぼくは、ああ、プロの作家はこうやってストーリーを転回するのかと感心して、その具体例として書き写したのだろう。主人公に「急に気が変わってね」と言わせるなんて、上手い方法を考えついたものだ。
 それはともかく、『ライ麦畑でつかまえて』には青春時代のほんわりした恋の思い出がある。
 大学2年生のとき、ぼくは早稲田大学界隈の小さな書店で、3か月ほどバイトをしたことがあった。本屋の仕事は、朝のうちに届く雑誌や本を書棚に並べる、返本する商品は箱詰めして取次店へ送り返す、という繰り返しで始まる。
 その本屋にはひとり娘のE子さんがいた。ぼくよりも二つ年上の小柄で色白、笑顔のかわわい人である。店主の父親はでっぷり太って、いつも黒っぽい着流しで、洋服姿をみたことがなかった。母親は3時になると自宅の茶の間に呼び入れて、お茶を淹れてくれる控え目な人だった。
 E子さんは都内の私大を卒業して、実家の手伝いをしていたというわけである。
 本屋の二階の四畳半には、北海道出身の幼友だちというバイト生が二人いた。いまでは珍しい住み込みで、暇さえあればギターを弾いて、フォークソングを歌っていたっけ。
 店の構えは小体でも商いの方は手堅くやっていて、教授たちに高額な専門書を売り、付属中学部の教科書の販売を一手に収めていた。人もそうだが、あまり客の来ない店だって、みかけだけではその奥にある実力を判断できないのである。
 ぼくはふたりのバイト生とも仲良しになった。彼らの部屋で安いウィスキーを飲み、窓から隣の二階建ての屋根のてっぺんに登って、真下を流れている神田川に放尿したこともある。夜だから怖くなかったのだろう。いまおもえば危険極まりなく、足が震えそうな高さだった。もちろん、本屋の家族も、その家の人たちも、何も気づいていなかった。
 少し上流には橋がかかっていて、剣道部の主将のYさんが1年生のときに早慶戦で敗けて、悔しくてたまらず、その橋から神田川に飛び込んだという伝説があった。このYさんには数々の爆笑ものの武勇伝がある。
 話を急ぐ。
 ある日、下宿のおばあちゃんから、「これ、××書房の娘があなたに渡してと持ってきたよ」と紙包みを手渡された。
 なかに入っていた本が『ライ麦畑でつかまえて』だった。便箋が1枚はさまれていて、そこには「わたしの大好きな本です。読んでください」という短いメッセージがあった。
 この本は高校時代に読んでいたから、別の本だったらよかったのに、と少しがっかりしたが、本の題名がひっかかった。なにしろ『ライ麦畑でつかまえて』である。
 『ライ麦畑で』は余計で、ぼくに伝えたかったのは、『つかまえて』なのかもしれない。そういえば、彼女からそんな気配を何度も感じたことがあった。でも、ぼくは気立てのよい、やさしいお姉さんという感覚だったから、彼女から好意を持たれていることははっきりわかっていたけれど、こちらは地方からやってきた学生バイトの身分である。いただいた本は読まずに下宿の机の上に積んだままにしておいた。
 時は流れて、ぼくは練馬区へ引っ越した。
 あるとき、外出から帰ると郵便受けのなかに、ぼくあてのメモがあった。そのなかに「××さんのアパートまで来ました。ドキドキしています。 E子」と書かれていた。
 こうして彼女と久しぶりに会い、旧安倍球場沿いの坂道を一緒に歩いているとき、
「わたしと一緒になって、本屋をやってくれないかな」と言われたのである。
 あのとき、急に気が変わって、急にあることを決心して、「ぼくもそうおもってました」なんて口走って、力いっぱいの抱擁と熱いキスでもしていたら、ぼくの人生にどんな景色がみえていただろうか。

■十月桜が咲いている。これから寒い冬を乗り越えて、春まで咲き続ける。

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