デスクへの報告2023年05月22日 17時21分

 押し黙ったまま、湯呑茶わんを灰色の床にたたきつけた。
 パカーン! 
 編集部の空気を切り裂くような破裂音がした。大小の白い破片が四方八方に飛び散った。
 土曜日の夜の10時過ぎ。アルミの灰皿に吸いさしの煙草を林のように突き立てて、社用の原稿用紙と格闘していた先輩たちも、出張中の代議士を電話でつかまえていた若手も、いっせいに顔を上げて、コラム担当のデスク席を見た。
 顔を真っ赤に染めたHさんが立ち上がって、固く握りしめた右手がぶるぶる震えていた。1メートル先の目の前で向き合っていたのは、24歳の若造のぼくだった。
 いまの自分と彼の最期が重なって、ときどきあの日のことを思い出す。
 どうしてあんなことになったのか、衝突した理由も、いきさつも忘れてしまったけれど、何かの事件を取材していて、その報告をしていたときだったかもしれない。
「いや、それは違うでしょ。Hさんはずっと取材の現場からはなれているから、カンが鈍くなっているんじゃないですか」
 彼の考えに納得できずに、たぶんこんな調子で、デスクの批判までやってしまった記憶がある。血気盛んといえば聞こえはいいが、あのころのぼくはまわりがよく見えずに、若さと正義感を振りまわす生意気盛りだった。
 記者が自分の言い分を通したくて、デスクに食い下がるのは何も珍しいことではなかった。それはあって当然のことだと許されていたし、デスクと記者との意見がぶつかり合う様子をどこかおもしろがっていたところもあった。
 もうひとつ付け加えておく。あのころは、そういう時代だったのだ。
 ぼくらの青春時代は70年安保の反対運動や学園紛争の最盛期で、大学構内での立て看板も、内ゲバも、反戦フォークも身近かにあって、体制を批判する声が渦巻いていた。大人たちに向かって、少しばかり暴れ馬になることぐらいは若さの特権だった。
 ジャーナリズムの分野でも、政治や社会的事件の特集記事に対する読者の関心は高くて、週刊誌の編集部そのものも熱く燃えていたころである。
 あのときもHさんとぼくの間に、だれも割って入って来なかった。愛用の湯呑みをたたき割った後、彼は黙ったまま、部屋の端っこから箒とちり取りを持ってきて、さっさと自分で飛び散った陶器の残骸を片づけた。その顔はすーっと、いつもの「仏のHさん」に戻っていた。
 ぼくは頭を下げずに、自分の席に戻った。後から叱りに来る人もいない。Hさんもあんなことがあったのをおくびにも出さなかった。
 ほとぼりが完全にさめたころ、彼から言われた言葉を覚えている。
「××君、毎晩酒ばっかり飲んでいると、ものすごい差がつくぞ。そうなったら追いつきたくても、もう追いつかないよ。ちゃんと勉強した方がいいぞ」
 それからしばらくして、Hデスクの下で、事件モノの新企画の担当に指名された。新聞に載ったベタ記事を追って、報道されていない事件の核心に迫ろうというシリーズである。
 明け方までかかって、初回の原稿をHさんに手渡して、自分の席で放心状態になっていたとき、ポン、ポン、と肩をたたかれた。右手に湯呑を、左手にはぼくの書いた原稿を持ったHデスクが立っていた。
「傑作だ!」
 振り返れば、あれがいろんな意味で、ひと皮むけたターニングポイントだったとおもう。(その後も毎晩のように酒は飲んでいるが)
 東京をはなれてから10年ちょっとして、Hさんの訃報を知った。50歳になったばかりだった。もう会えないのが悔しかった。
 詳しい病名は把握していないが、たしか鼻腔の奥にできたガンが命取りだったらしい。
 きょうは再発防止の抗がん剤投与の日。病院の治療室からHさんの怒った顔とやさしい顔とを思い浮かべながら、いまの現場報告をした。
 Hさん、ぼくは戦っています。絶対に、負けませんからね。

■散歩の途中、あまり人の通らない小路に入った。足もとに赤い宝石のような木の実が散らばっていた。見上げて、びっくり。小粒のサクランボがびっしりと実っている。
 花よりもきれいだな。
 でも、採って食べている形跡はない。枝を折って、部屋のなかに飾っているふうでもない。ただ好きなように実らしているだけのようだ。