ウナギからの伝言2023年07月25日 09時34分

 山、川、海で暗くなるまで遊びまわっていた子どものころは、春夏秋冬の毎日が日替わりの冒険だった。
 あれは夏休みが始まったころだったか、近くの川にいたウナギをめぐって忘れられない事件があった。
 ある日突然、小学校の友だちが大声を上げて、息を切らしながら、ぼくの家に駆けこんできた。
「××君、来て! 早く来て! 川がすごいことになってるよ!」
「どうしたの」
「いいから、手ぬぐいとバケツを持って、早く来て!」
 ガラガラと玄関の戸を開けて、すぐ下の方を流れている川を見た。何人かの子どもたちが半ズボンのまま中に入って、何かを追いかけている。ワーワー叫びながら、水しぶきを上げて走りまわっていた。
「ウナギだよ! ウナギだらけなんだよ!」
 わけもわからず、それっ、と崖のような細い下り道をひた走った。
 川幅は3、4メートルほどしかない。大きな石や小さい石がごろごろしている浅瀬に、ウナギがうようよいた。
 石と石との間の水の通り路に白い腹をくねらせながら、上流からとめどもなく流れて来る。見たこともないような大きいやつもいる、まだ子どものウナギもいる。
 白いタオルの端を両手にギュッと握りしめて、ぼくはズックを履いたまま獲物たちのまっただなかに飛び込んだ。足が滑らないように、お尻がぬれるほど腰を落として、できるだけ大きいヤツに狙いを定める。
 つまかえた。ぬるりと逃げた。ギュッとつかまえた。するりと逃げた。
 逃がしても、逃げられても、次のうなぎが目の前にくねりくねりと流れてくる。
 力いっぱいつかまえた。また逃げた。ランニングシャツもずぶ濡れになったが、もう、おもしろくて、おもしろくてたまらない。持って帰って、とうちゃん、かあちゃん、姉ちゃんをびっくりさせてやろうとおもった。
 顔を上げたら、男や女の大人たちも混じっていた。ほんのわずかの時間に、ゆっくりした川の流れは大人たちと子どもたちが入れ混じっての狂乱狂喜の奔流になっていた。
 何匹つかまえたのか、記憶にないが、終末はあっけなかった。
 結局、ぼくたちはつかまえたウナギをその場でぜんぶ川に放してやることになったのだ。
 だれかが「農薬のせいだ。食べたら死ぬぞ」と言い出したのである。その声はあっという間に広がった。「捕るな! 食べたら死ぬぞ!」という声が方々で挙がって、ぼくは固まってしまった。だれもウナギを追いかけなくなった。
 みんな心のどこかで、こんなのはおかしいぞ、と感づいていたのだろう。ぼくもその場に突っ立ったまま、足もとにやってきた大きなウナギを見送った。
 そのうち、「農薬じゃない。だれかがサンショウの粉かなんか、魚がしびれるクスリをまいたんだ。毒じゃないぞ」と言い出す声が耳に入った。
 人間には害がなくて、魚をしびれさせる木の皮か草を川に流して、漁をする話は聞いたことがあった。だが、「いや、農薬だ。上の方のたんぼで農薬を撒いているのを見たんだ」という声が決め手になった。
 テレビも電話もなかったころの田舎の子どもだったから、全国的な社会問題について何も知らなかったが、昭和30年代の半ばごろまで毒性の高い農薬が使われていた。ぼくたちの川で大量のウナギが死んだとき、全国各地のたんぼの畔にもタヌキやキツネの死骸が点々と転がっていたという。その有名な事件がぼくたちのところでも起きたのだ。あれは初めて身近に体験した公害であった。
 小さな町を揺るがした農薬事件があってから、しばらくの間、川から魚たちは消えた。自然保護という言葉もなかったころだが、それでもまもなく、また元のたのしい川に戻ってくれた。
 いま地球で起きていることは、あのころとは自然破壊のスケールもスピードも異次元で違う。元の地球に戻ってほしいけど、もう戻ることはない。だんだん酷くなるばかりだ。
 あのウナギの大量死から30年ほど後、いまから30年ほど前に、ぼくは家族と一緒にこの川を訪れたことがある。あのころの景色は、石ころも、岸辺の雑草も、子どもたちも、何も残っていなかった。生きていた川は人が寄りつかない澱んだ流れになっていた。
 それでも、いまでも、子どもたちには自然のなかで感じてほしいことがあるから、こんなことがあったんだということを書いておく。

■朝方の涼しいうちに室見川へ散歩に行く途中の公園で、ヤマイチジクの実が目に入った。黒くて艶やかに熟したまるい実がたくさんついている。イチジクが出まわる時期は、ヤマイチジクも食べごろの季節を迎える。甘くて、イチジクと同じような、ちょっと野性的な風味がある。
 そこは目立つ場所で、ちいさな子どもでも手の届く高さなのだが、だれも採った形跡はない。野鳥たちが増やしてくれたのだろう、この木は公園のあちこちにある。子どもたちに教えてあげたらよろこぶだろうなぁ。
 財布のなかに小さく折りたたんで常備しているビニール袋をとりだして、黒い実を選んでちぎった。その数37個。薄い塩水で汚れを落として、キッチンペーパーでふいて、ぜんぶ冷凍室に入れた。手製のヨーグルトにトッピングして、今夜仕事から帰って来る、イチジクが大好きなカミさんに出してあげよう。