「皆殺し」から学んだこと2023年10月24日 10時20分

 戦争の報道をみると胸が痛む。ウクライナに続いて、パレスチナでもミサイルや砲弾が飛び交っている。いったいどれだけの人々を殺せば、あるいは殺されれば戦争は終わるのか。
 現状は戦争を早く終結させるという名目の下、どちら側の陣営も軍備力の増強にひた走っている。自分の味方を増やそうとする動きも活発で、個と個の争いがたちまち数と数の勢力争いに拡大してきた。
 一部には停戦の働きかけもあるけれど、その裏には自国に火の粉が飛んで来ないようにという思惑もにおう。気の毒なのはいつも前線におかれている罪のない人たちである。
 「戦争とは、他の形態をもってする政治の継続である」。ここまで書いて、あの『戦争論』の本のなかにあるクラウゼヴィッツの有名な言葉を思い出した。
 政治と戦争の領域に足を踏み入れると際限のないテーマになる。それらの仕事は国際政治や軍事研究の専門家にお任せして、戦場をみるレンズの焦点を、ぼくたちと同じ立場にいる一般の人々の暮らしの場に絞り込んでみたい。
 戦争の体験者ではないが、ひとりの日本人として、どうしても言っておきたいことがある。
 アメリカ軍による沖縄侵攻、東京大空襲などの各都市の空襲、ヒロシマとナガサキへの人類初の原子爆弾の投下。
 あれはいったい、なんだったのか。
 ぼくはこれらのすべてが「皆殺し」を狙ったものだとおもっている。沖縄も、数々の大空襲も、原爆も、そこにいる人たちをだれかれの区別なく殺りくした。人々が生きている形跡さえ残さないほど猛烈な爆弾の雨を降らせた。もとよりアメリカ軍はそうなることを百も承知の上でやったのだ。
 なぜそこまでやったのか。
 よく知られているように、アメリカ軍は日本軍とはじめて戦って、日本人の優秀さを知った。また母子ともども玉砕する姿を目撃して、日本人は死を恐れない民族だと驚愕した。そこで日本人を心底おそれたアメリカがとった作戦は、日本人を根絶やしにすることだった。戦争を止めるために、平和を取り戻すために、原爆を落とすのは正しかった。そういう理屈である。
 そんな理屈でやられた方はたまったものではない。彼らは先住民のインディアンも皆殺しにしてきたことを付け加えておく。
 戦争の実態は敵を殺すこと。主たる攻撃の手段はミサイルや砲弾だから、皆殺しはどこでも起きる。まず、そのことを言っておきたい。
 日本は侵略行為をやった結果、最後は原爆を落とされて、皆殺しされる側の体験をした。ユダヤ人はヒトラーが率いるナチスから過酷きわまる同じ体験をした。そのユダヤ人はパレスチナの敵対勢力を狙って、子どもたちまで巻き込む皆殺しをやっている。
 日本は戦争を永久に放棄する憲法を制定した。ぼくはこの国に生まれて、本当によかったとおもっている。
 物ごとはいつもその反対側をみた方がいい。戦争も核兵器もそうで、戦争をやっている反対側には、戦争反対、即時停止を求めるおおぜいの声がある。核兵器使用の危機が迫る反対側には、同じように核兵器廃絶の運動が高まる。
 日本はどちらも反対側に立つことを憲法で世界に宣言している国である。最近の好戦的な風潮をみていると、こんな単純明快なことすら忘れられているのではないかとうすら寒くなる。
 「一畳一夢」の勝手気ままな想像力をもう少し書く。
 では、戦争を永久に放棄する憲法を持ち、世界で唯一の被爆国の日本が戦争反対、核兵器廃絶運動の真のリーダーになったら、何が起きるだろうか。
 馬鹿なことをするな。尖閣諸島をみろ。ウクライナをみろ。そんなことで国民の生命が守れるものか。軍備増強の増税を図ろうとしている岸田政権と歩調を合わせるように、猛反対が起きるに違いない。
 その反対側では、日本は反戦と平和をリードするアジアの先進国として、世界中から一目置かれる国になるだろう。国際的な発言力も格段に高まる可能性がある。そのことが間接的に国を防衛する力になることだってありえる。
 事実、憲法第9条があるからこそ、日本は戦争にまきこまれなかったし、海外での信頼も高いという指摘はずいぶんあるのだ。
 と、ここまで書いて、待てよ、そうなったら日本を盾にしてきたアメリカの方が困るのではないかとおもえてきた。
 また長くなりそうなので、このへんで止めよう。

■写真は、近くの道路脇でみつけたドングリの実。2個だけ拾って来て、机の上に置いている。爪先ではじいて、コマのように回転させてみた。すっくと立って、くるくるまわるはずなのに、子どものころのようにはうまくいかない。
 下手になったなぁ。 こんなことでも平和な日々を感じている。