フンドシを締める2023年09月02日 15時11分

 カミさんが職場でこんなことがあったと言っていた。
「つんつるてん、の意味が通じないのよ」
「まさか。つんつるてんは、辞書にも載っている一般用語だろ」
「でしょ。でもね、つんつるてんって、何ですか。初めて聞きましたって笑われたの」
 数日後、「職場でまた笑われた」と帰って来た。
「紳士服って言ったら、えーっ、紳士服なんて言葉、いまは使いませんよって大笑いされたの」
「だって、紳士服は、紳士服だろ」
「違うのよ。メンズ、と言うんだって。ブティックという言葉も使わないんだって」
「はぁ? じゃあ、なんて言うんだ?」
「ショップだって」
 知らないあいだに、ぼくたち夫婦は完全な時代遅れになっているらしい。いや、笑いものになっているみたいだ。これじぁ、おちおち外にも出られない。
 そういえば、お菓子と言わずにスィーツになったときも、お菓子はお菓子だろと頭に来たことがあった。購読している新聞も、これまでの「写真説明」が「コラージュ」に変わった。編集の仕事をしていたぼくは「コラージュ」にも腹が立つ。
 久世光彦は「ニホンゴキトク」という本を書いているが、いまなら「ニホンゴシンパイテイシ」と悲嘆にくれるかもしれない。
 じゃあ、フンドシなんて言葉も死語なんだろうな。知らないのなら、教えて差し上げよう。こうみえても、ぼくは学生時代に越中フンドシを愛用していたことがあるんだからね。
 あれは大学1年生の秋ごろだったか。どこかでフンドシの話を小耳にはさんだのがきっかけだった。「いいこと聞いた。よし、オレもやってみよう」と即断即決した。
 下宿には洗濯機なんてなかった。ぼくの部屋は2階の角部屋の3畳間で、もちろんガス、水道なし。洗面所とトイレは1階にあって、どちらも6人の学生たちの共同だった。
 洗濯は玄関を入った正面にある洗面所でやっていた。使うものは銀灰色の盥(たらい)、洗濯板、洗濯石鹸の3点セットと水道の水。洗濯板に濡らした衣類を広げて、洗濯石鹸をこすりつけて、手でゴシゴシやるのだ。Gパンは洗う、すすぐ、乾かすに時間がかかったし、とくに冬場の洗濯は嫌だった。(でも、盥とか、洗濯板のこともわからないだろうなぁ)
 越中フンドシには見覚えがあった。母の郷里にいる親戚の爺様がつけていたから、その形状から作り方には見当がついていた。さっそく池袋のキンカ堂まで行って、白い木綿のサラシの束を買って来た。
 まず、サラシをハサミで適当な長さに切った。腰に巻き付ける紐(ひも)は荷造り用の白いビニールテープで代用した。切断したサラシとビニールの紐はホッチキスで留めた。
 ほんの1、2分で新品おろしたての真っ白な越中フンドシが一丁出来上がりである。材料はサラシ、ビニールテープ、ホッチキスの針だけ。原価は十円玉が一つぐらいで済んだ。
 簡単、清潔、格安の3拍子付きで、全体のルックスはまさしく日本男児である。伝統の肌着だけあって、着けごこちも悪くない。もちろん、惜しげもなく使い捨てた。ゆううつだったパンツ洗いからも解放されて、しばらくそれで通した。
 その手製の越中フンドシを締めて、銭湯にも通った。
 ある晩、知らないオジサンから声をかけられた。「おぅ、九州男児か」と言われて、近くの飲み屋に連れて行かれた。座敷に上がって、旨い鳥鍋とビールをごちそうになった。
 小柄なそのオジサンは、学生街通りの入り口にあった大衆食堂Mの大将だった。すっかり仲良くなって、銭湯で会った日は、何度も晩酌に誘ってくれた。
 ぼくが大衆食堂のMに行って、サンマの焼き魚定食を注文すると、ほかの客は1匹なのに、ぼくの皿にはたっぷりの大根おろしと大きなサンマがジュウジュウと音を立てながら、いつも2匹のっかっていた。
 あんなフンドシなんかしていたから、よっぽどカネがなくて、腹を空かしている地方出身の学生だと思われていたのだろうか。
 お礼を言いたくても、店にいるときのオジサンも、料理を運んでくるオバサンも知らない素振りをして、こちらを見ないのである。そうして黙っていることがほかの客をはばかってのぼくに対する声援だと気がついた。
 いまでは見かけることもないフンドシ姿が平気な時代もあった。銭湯もたのしかった。下宿には洗濯機も冷蔵庫もなかったけれど、あのころの東京の街には若者を見守ってくれる人たちがいた。
 つんつるてんの言葉は消えゆく運命かもしれないが、そんな青春時代がおくれてシアワセだったとおもっている。

■写真はいつもの花壇。トレニアが育って、花盛りになっている。

術後はじめてのCT検査2023年09月05日 16時36分

 昨日の昼過ぎ、術後はじめてのCT検査を受けた。そのあとで担当の外科医から検査結果の説明があり、最後は化学療法(抗がん剤の点滴)が待っていた。昼めし抜きで、およそ3時間かかった。
 CT検査後の待ち時間が長くて、こんなに待たされるのはいいことなのか、それとも悪い知らせの前ぶれなのか。持ってきた文庫本「マンスフィールド短編集」の文章を目で追いながら、頭のなかでは別のことを考えていた。
「お待たせしました。血液検査も、CTの方も病変はありませんね」
「よかった、ほっとしました。問題なしですね」
「ええ。がんはコントロールできていますね。このあとも化学療法を続けましょうね」
 話したのはたったの3分ていど。それでも医者はうまいことを言うなぁとおもった。「コントロールできている」なんて言いまわしは、とても思い浮かばない。
 待てよ。ということは、まだオレのからだのどこかに、がん細胞が息を殺して、しぶとく生きているかもしれないということか。
 いまのところは抗がん剤の効果でおとなしくしているだけで、抗がん剤を止めたらいつ再発するかわかりません、まだまだ出口は見えません。そう遠まわしに言われたのだ。「コントロールできている」とはそういう意味なんだ。
 だが、「もう大丈夫ですよ、心配はいりません。今日で治療は終わりです」と言われるよりもこちらの方が断然、医学的である。よし、この調子でがんばって、徹底的にがん細胞をひとつ残らずやっつけてしまおう。
 病院を出たところで、さっそく仕事中のカミさんに、「検査は問題なし、でした」のLINEを入れた。こんなメールが送れて、またほっとした。
 病院では「がん」という言葉はうかつに口に出せない。
 化学療法室で椅子に座って、抗がん剤の点滴を受けている最中だった。6床あるベッドに患者さんはだれもいないとおもって、すっかり顔なじみになった40歳ぐらいの看護師さんに余計なことをしゃべってしまった。
「がんの人は多いですね。聞いた話だけど、知り合いのふたりのお医者さんががんでした。ひとりはぼくと同じすい臓がんで、ステージ4だそうです」
 その瞬間、彼女は後ろを振り返って、視線を入口近くのベッドに飛ばした。
(あーっ、やってしまった。)
 カーテンの陰に隠れて、姿こそ見えないが、そこには点滴中の患者さんがいたのだ。看護師さんがさっと振り向いたのは、そのことをぼくに教えるサインだった。
 きっとがんにかかっている人に違いない。同じすい臓がんの人かもしれない。もしかしたら、その人もステージ4かもしれない。
 まずい。すぐに話を付け足した。
「でも、ひところよりも回復して、元気を取り戻してきたそうです。いまは抗がん剤もいい薬があるんですね」
 点滴が終わって、部屋を出るときに、そのベッドの奥をちらりと見た。50歳ぐらいの男性がしずかに目を閉じていた。
(聞こえただろうか。でも、大きな声で話したわけではないし、回復とか、元気になったとか、そんな話をしたから、絶望的になることはないと思うけど。余計なことを言ってすみませんでした。お大事に。)
 自分ががんになって、人を見る目が変わった。あの人も、この人も、自分では気がついていないだけで、がんかもしれないなとおもうようになった。
 そういう人だらけなのだ。いつ、だれがかかってもおかしくない。再発も、初発も変わりはない。本当にそうおもう。
(脅しではありません。でも、くれぐれもご用心ください。)
 
■室見川を渡って、西区にある地元のJAが経営している農産物市場の「じょうもんさん」に行った。10時の開店と同時に、店内は近在の農家から出品された安くて新鮮な野菜を買い求める客でいっぱいになる。
 正午ごろだったので、客はまばら、野菜もまばら。果物、弁当、パン、米、魚、肉、漬物、豆腐、味噌、醤油なども販売している。値札には生産者の名前がついていて、その名前を見て買うことも多い。
 掘り立ての里芋がきれいだった。イチジクも、まだ白瓜も売られていた。ここに来ると、ついついあれもこれもと買い込んでしまう。

内閣改造の個人的な見どころ2023年09月14日 18時44分

 昨日発足した第2次岸田内閣の顔ぶれを見て、「やっぱりね」と納得しながらも、半面では少なからずがっかりした。
 閣僚人事について、以前のように関心があるわけではない。増えていく一方のこまごまとした大臣ポストの名称も、交替したばかりの閣僚の名前もほとんど覚えていない。たぶん、ぼくだけではあるまいが。それだけ政治家は小粒になったということか。
 「やっぱりね」とおもったのは外務大臣のポストである。林芳正を留任させるかどうかの一点が気になっていた。
 昨今の国際情勢のなかで、外相の役割の重要性は言うまでもないことだ。英語がしゃべれて、経済や安全保障の問題だけではなく、文化の方面にも見識があって、そのうえで世界各国の首脳に顔が売れている、知り合いがたくさんいることも、外相をそつなくこなす必要条件である。理想的には、どこに出しても恥ずかしくない、どんな懸案にも対応できるオールラウンドプレーヤーが求められるわけだ。
 いまのぼくはかなりの″政治音痴″なのだが、林芳正は自民党のなかでも数少ない適任者で、よくやっていたとおもう。
 一部には、岸田首相が同じ宏池会に所属している林を、自分の後継者として育てるために閣外に出して、党務や派閥の要職に就かせるという声がある。
 いかにもそれらしい解説に聞こえる。だが、それは岸田首相の本心だろうか。すでに自民党の主な要職のポストも決まっているのだ。
 ところで内閣改造の見方には常に両面がある。「閣僚として囲い込む」、その反対に「虎を野に放つ」という言葉もある。林前外相はどちらだろうか。
 「政治家は嫉妬の動物です」
 この言葉を教えてくれたのは、中曽根政権で副官房長官に抜擢された故M代議士だった。中曽根が政治資金集めの出版記念パーティーを開いたとき、出席者に配られた都市政策の本は、実は著者・中曽根ではなく、M代議士が書いたものだ。
 将来を嘱望されていた人だった。惜しいことに病死してしまった。
 「政治家は嫉妬の動物」と言えば、宏池会を創設した池田隼人の内閣で、池田の秘書官から内閣官房長官に駆け上がった大平正芳は、だれの目にも池田からの信頼が非常に厚い人物だとおもわれていた。
 ところが、当の大平は「そうじゃない。本当は嫌われていたんだ。最高権力者は力をつけてきて、いつかは自分の座を脅かしそうな人間は腹の底では徹底的に警戒するんだよ」と言ったという。
 この図式は、そのまま岸田首相と林芳正の関係にも当てはまる。
 もうひとつ、今回の内閣改造の焦点のひとつは最大派閥の安倍派の処遇だった。
 安倍の聖地は、晋太郎・晋三親子の地元拠点の下関市である。ここは安倍親子と林義郎・芳正親子が長年、主導権争いを続けてきた因縁の土地として地元ではよく知られている。
 また安部派の議員たちは、中国の習近平政権に対して敵対的な姿勢をとり続けている。一方、親子2代が日中友好議員連盟の会長を務めた林芳正は親中国派の代表格のようなものだ。
 安倍元首相が殺害されて、その後継者はほぼ無名の市議会議員になった。次の総選挙では定数の見直しの結果、林と安倍の後継者は同じ選挙区に統合される。
 いよいよ決着のときを迎えるわけだが、いまでは両者の確執の争いは林の方が圧倒している。安倍派はなんとかして巻き返したいだろう。
 ここでも「政治家は嫉妬の動物」という言葉が浮かぶ。同じ地盤のライバルは陽の当たる大臣職で、こちらは無冠というのは、政治家として耐えられない屈辱なのだ。内閣改造直後の議員会館で、「なんであんな奴が大臣なんだ」と悔しがる様子を何度もみてきた。
 岸田首相が林芳正を主要閣僚ポストから外したことは、最大派閥の安倍派の″しゃくのタネ″をひとつ取り除いたことになる。
 ここまで書いてきたことは、うがち過ぎで、マト外れなのかもしれない。でも、ぼくの頭のなかでは無理なく、一直線につながっている。
 週刊誌の記者時代には、内閣改造が近づくと全閣僚の顔ぶれを予想する特集は定番の企画だった。編集長やデスク、先輩記者たちがどうしてそれらの候補者を選ぶのか、横にいるだけでも勉強になったものだ。
 ときはめぐって、上川陽子・新外相の出番がやってきた。こんな国際情勢だからこそ、この人がいてよかったというところを、ぜひとも、みせてもらいたい。

■写真は近くの道路脇にある小さな用水路。白く塗りかためたコンクリートから1本のカンナが若葉を伸ばしている。あの硬いコンクリートの被膜をどうやって突き破ったのだろうか。その生命力のたくましさに、しばしのあいだ見入ってしまった。

サルスベリへの思い2023年09月26日 17時27分

 自宅のある3階から階段を下りて、舗道に歩み出したとき、赤い野球帽が目に入った。
 (あ、また会った。きっと立ち話がはじるぞ。)
 お相手は、ぼくらの町内会長のFさん。この公団住宅は棟ごとに自治会が組織されていて、わが会長さんはなかでも古株である。歳はぼくよりひとまわり下の62歳。職業は大工さんで、やや小柄の坊主頭には手ぬぐいの鉢巻がよく似合いそうだ。
 町内会長さんの仕事の中身についてはよく知らないが、何でも屋のお世話係といったところか。団地の年間事業計画の全体会議に出たり、町内会費を預かったり、市の広報紙や共益費の決済報告書を1階の郵便ポストに入れてまわったり、ひとりで何役もこなして、住民たちのこまごまとした相談にものってくれる。
 もしも、彼が小説家なら興味津々の人間ドラマがいくらでも書けそうだが、そこは会長職の責任をちゃんと心得ていて、「個人的な訳ありの話も知っているけれど、人には言えないもんね」とFさん。
 それでも胸にしまっておけないこともあるのだろう。いつか独居老人の孤独死について訊ねたとき、「ありますよ。数か月前には風呂場で亡くなっていた男性の高齢者がいた」と聞いたことがある。
 笑顔の絶えない、いかにも円満ふうな丸い顔、笑うと目が線になる。このあたりでの顔の広さはだんぜんで、こういう人を博多っ子の気質を受け継いでいる「気やすい人」というのだろう。ぼくたち夫婦も気やすくお付き合いさせてもらっている。
 このFさん、このところ好きな日本酒を断っていて、家のなかにこもりがちである。
 体調がよくないのだ。もともと心臓に疾患があると言っていた。もうひとつの別の持病もひどくなって、立ち上がるとくらくらめまいがするとか。とうとう車の運転もあきらめて、つい数日前には愛車の軽四も手放してしまい、大工の仕事もやめてしまった。
 Fさんも元がん患者である。20年ほど前に胃がんの手術をしている。「見つかったときは、だいぶ進行していて、もうだめかとおもった。死ぬんだなと覚悟したもんね」という彼の言葉はそっくりそのまま、ぼくの気持ちを代弁してくれている。
 病気のことよりももっと気の毒なのは、彼がひとり身であることだ。娘さんが中学生、下の男の子が小学生のときに離婚して、こどもたちは奥さんと一緒に出て行ってしまった。あれからずいぶん経つ。
 仲のいい家族と評判だっただけに、Fさんの家族崩壊のニュースは衝撃だった。離婚の原因をあれこれ推測するうわさが広がったときのFさんはどんな心境だっただろうか。
 その後も親子の交流は続いているので、その点はよかったけれど、人づきあいがよくて、元気印の代表格みたいだった人が60歳を過ぎて、全快する見込みのない病気になって、仕事もできなくなり、家には話す相手もいない境遇になってしまった。
 この団地のそれぞれの部屋に一つひとつのドラマがある。
 Fさんとはきょうもまたこんな話になった。
「部屋にいてもひとりやろ。悪い方にばっかり考えて、(胸を軽くたたきながら)ここがぎゅっと苦しゅうなって、頭がおかしくなりそうになるんですよ。テレビもおもしろくないし、眠れないけど、寝るしかないもんね」
 とっさになぐさめる言葉が出てこない。でも、こちらも病気持ちである。
「ぼくは糖尿病だから、定期的に××病院に通っているけど、お互いにいまは養生するときだとおもうよ。まずは健康なからだを取り戻すことに専念しようよ。でも、このあいだよりも、顔色もよくなったし、だいぶ元気になったよね」
 いまのFさんのヒマつぶしは、若いころにいちばんなりたかったという植木屋の真似ごとをすることらしい。やりたがっているのは自分の手で植えた2本のサルスベリの剪定である。頭上5、6メートルの高さまで伸びた幹を半分ほどの高さにして、見た目の形をよくしたいのだという。
 Fさんのサルスベリは団地の入口のランドマークになっている。ピンクと白の花がきれいで、写真を撮る人もいる。彼にとってはかわいい娘と息子のようなものなのかもしれない。
「剪定を手伝ってください」と言われた。「よし、わかりました」と答えた。見事なサルスベリの木にしてやろうじゃないか。
 これといった予定のないぼくたちは、こんなささいな計画でも気持ちを明るくしてくれる小さな夢なのである。

■今日は彼岸明け。異常な猛暑続きだったのに、ちゃんと秋はやってきた。花から花へと飛びまわっているアゲハチョウも元気を取り戻したようだ。