遠いところの墓参り2024年06月16日 12時20分

 真夏日のなか、カミさんとふたりで延岡の市民霊園まで墓参りに行ってきた。高速道路をのんびり走って、自宅からの往復の走行距離は579.5km。本州方向に走ったら、神戸市内まで行ったことになる。
 延岡市の中心を流れる五ヶ瀬川の河口から30kmほど遡った谷あいの小さな町が、ぼくの生まれたところである。小学校に上がる前の6歳までしか居なかったから、故郷の実感はないが、父と一緒に魚釣りをした星山ダムや営林署の林道はいまでもよく思い出す。
 山のなかの奥深くまで伸びていた林道には、小型のディーゼル機関車が走っていた。伐(き)り出したでっかい丸太を運び出すトロッコ鉄道のようなもので、それらの木材の集積地はぼくたちが住んでいた鉄道官舎のすぐ隣にあった。そこは出入り自由の遊び場になっていて、ピラミッドのように積み上げられた丸太の山がいくつも並んでいた。
 オモチャもろくに持っていない子どもたちが、こんな遊び場所を放っておくわけがない。いちばん高い三角形のてっぺんまで登るのがおもしろくて、どの子のズボンも膝のところに何度も補修したつきはぎがあった。大人の目には、お山の大将の座を争っている子猿たちのように見えていたかもしれない。
 こうして書いていると思い出は際限なく浮かんできて、ついつい昔話の方へ引きずられそうになる。
 あのころの延岡は、周辺の田舎で暮らしている人たちをわくわくさせてくれる花の都だった。
 父は旧制の延岡中学の卒業生で、航空飛行兵で終戦を迎えた。先の大戦でソ連軍の侵攻に遭遇し、満州から引き揚げてきた母はこの街でも看護婦の仕事を続けていた。ここは両親の青春の地でもある。
 墓所の伸びた草を引き抜いて、墓石に水をたっぷりかけて、タワシでこすって、仕上げにまた水をかけて、汚れをきれいに洗い流す。黄色、ピンク、うす紫、白の造花を飾って、線香を上げた。
 夏が近い墓地にはやぶ蚊がつきものである。じっとしていたら、たちまち顔を刺された。同時攻撃を受けて、手の甲も刺された。はるばる訪ねて来たのに、暑くて、猛烈にかゆくて、とても長くはいられない。
 こんなに墓が遠くて、近くにいた親戚縁者もほとんどいなくなって、だれも墓参りに来ないのだから、この場を立ち去るときに、ふと墓じまいしてもいいかなぁ、とおもった。
 帰り道、東九州道の蒲江波当津インターで降りて、なつかしい海に会いに行った。
 カミさんとふたりで、だれもいない静かな浜辺を歩く。
 母方の祖父母、叔父、叔母、いとこたち、知り合いが大勢いて、この浜でいろんな貝を採ったりして、あんなににぎやかだったのに、いまこうして並んで同じ海を見ているのは、遠い雪国生まれのカミさんだけになった。
「新潟の墓参りにも行ってないなぁ」
「私だって5年も帰ってないもんね」
「もうそんなになるのか」
 なんだかかわいそうになった。
 墓が人生を決めるわけではないけれど、墓のことでふりまわされるのも人生のひとコマなのだろう。

■写真は、大分県の最南端・波当津の浜辺。右手の沖合は豊後水道で、リアス式の海岸が続いている。
■花壇に放置されていた花の苗のポットは、前回のブログの直後、すぐ近くの草葉のなかに捨てられていた。気分すっきりとはいかないけれど、とりあえず決着した。

音信不通の友に送る2024年06月18日 16時49分

 あいつ、どうしているのかなぁ。
 メールの返事が来ていいはずなのに、昨日も今日も音沙汰なし。顔が見えない無言の状況は、日が経つにつれて連絡を待つ身を不安にさせる。
 仲のよい友だち同士でも、恋人とのあいだでもありがちなことだが、ぼくたちの年代では心配する内容そのものが違ってくる。不安を感じるのは、相手の「こころ」ではなくて、その人の「からだ」になるのだ。
「あいつ、どうしているかなぁ」には、「あいつ、生きているかなぁ」の意味が隠れている。そうおもう理由は、「歳をとったらわかるよ」というほかない。
 歳のせいか、前置きが長くなった。(以後、敬称略で書く)
 先日、小倉にいる高校と大学が一緒だった友人Hから電話がかかってきた。
 サンパウロにいるSにLINEでメールを送ったけれど、返事が来ない。いままでこんなことは一度もなかった。何かあったのだろうか。そういう趣旨だった。
 そこで、ぼくも同じことをした。Hはもう一度、Sにメールを出した。
 だが、どちらにも返答はなし。あれから2週間を過ぎても、送ったメールは「既読」にもなっていない。
 つまり、Sはスマホを見ていないということだ。そのことは、もしかしたら触ることもできなくなっているのだろうかという妄想につながっていく。
 ぼくたち3人は、自分たちで「N高3人組」と名乗る仲である。決してほかの同期生に対して、みずから好んで一線を引いているわけではないが、Sがブラジルから帰国するたび、このメンバーで飲んでいるうちに、いつの間にかそう呼ぶようになった。
 日本が正午のとき、サンパウロは深夜零時。こちらが真夏なら、向こうは真冬。Sは丸い地球の上で、ぼくたちとはいちばん遠いところで暮らしている。
 その彼が還暦を過ぎたころから、日本に帰りたがっていることも、どんなに帰りたくても帰れない理由も、ぼくたちはわかっている。
 高校時代からスケールの大きな夢を抱いて、北海道で酪農の技術を学び、単身でブラジルに移住したSに、こころからの敬意を払う気持ちにうそ偽りはないけれど、オレたちの近くに戻ってくればいいのになぁ、としみじみおもう。
 昨年の10月、福岡市内で一緒に5時間ほど飲んだとき、「日本の桜の花を見たいなぁ。来年の春にまた帰って来るから、この3人で花見をやろうよ」とSは言っていた。その約束も実現できていないままだ。
「お前のブログをたのしみに読んでいるからな。もっと書けよ」と彼は言っていた。
 だから、きょうはそのことを期待して書いた。

■青い空から滑るようにして、ツバメが舞い降りて来た。海の向こうのどこの国から飛んで来たのだろうか。それともこのあたりで、この春に生まれた二世だろうか。

本の山くずしを始める2024年06月24日 16時49分

 4月中には片づけてしまおう。
 そう誓っただけで、ずるずる先延ばしして、はや半年が過ぎようとしている。
 こいつはまずい。ぼやぼやしているうちに、また月々の借り賃の1万円あまりが出ていく。さすがになまけ癖の尻に火がついて、自宅から歩いて4分の貸倉庫の整理に再チャレンジした。
 ぎっしり詰め込んでいたときに比べれば、ぜんたいの3、4割は片付けたが、残っている荷物のほとんどは、ぼくが仕事場をたたんだときに持ち込んだものである。自分の責任で倉庫を空っぽにして、契約解除までやるしかない。
 やっかいな荷物の象徴がいちばん奥の方に押し込んである本の山で、中型サイズの段ボール箱が15個も積み重なっている。なかには単行本や文庫本、資料などを詰め込んでいるから、どれもこれもがずっしり重い。へたに持ち上げると腰をやられてしまう。
 大事な書物をこんなところに置き去りにしたときから、この日がくるのはわかっていた。どうしたものかとずっと気になっていた。まだ処分の仕方に迷っているけれど、ゴミに出さないことだけは決めている。
 薄っぺらな油紙のようになったガムテープをはいで、10数年ぶりに箱の蓋を開ける。
 けっして勉強熱心な方ではなかったし、読書家の人が見たら失笑するだろうが、よくもまぁ、カネもないのに、こんなにいろんな本を買って読んだものだ。
 いちばん上にある分厚いマーケティングの本を手にとって、ぱらぱらとめくったら、黒い鉛筆の傍線がいっぱい引いてあった。そこにはそのときのぼくがいた。
 改めて手にすると、評判の割にはたいしたことがなかった本もある。著者の名前にひかれて購入した本も出てきた。定説になっている内容を、流行り言葉のカタカナで化粧直ししただけのビジネス書も目につく。
 反対に書店の本棚の隅っこに置かれていても、著者が精魂傾けて書いたことが伝わってくる希少な本も見つかった。友だちのデビュー作も、ぼくが書いた本もあった。
 自宅に持ち帰る本は100冊ていどと決めている。どの本を手元に残すかの判断基準は、自分のこころと直感に従うことにした。おおまかに分けて、関心のある分野で、色あせない資料としての価値があるもの。また読みたくなるものの2点に絞った。
「この3冊で1万円も使ったのか…」。のっけからショックを受けて、それからはいっさい価格を見ないことにした。
 戦略が決まれば、生産性が10倍アップするのは経営の本に書いてある通りである。箱を開けて、手元に残す本、処分する本を仕分けするのに3分もかからない。そして、この3分間はこれからの自分がやりたいことを一つひとつ確かめる時間でもあった。
 今日の作業は段ボール箱を引っ張り出すだけで大汗をかいたので、午前中の1時間で止めた。なにごとも一瀉千里にやるとついつい頭も手先も雑になって、大事なものまで取りこぼしてしまうことがよくある。ここはひと息おいて、いったん腰を落としてから再開することにした。
「ほら、またこれだ」
 そう決めたとたんに、もうひとりのぼくの声が聞こえた。言わんとしている次のセリフもわかっている。
「そうやって、いつもさぼるんだから」

■昨日は、午後からカミさんと一緒に長男家族の自宅を訪ねた。生後6か月あまりになる孫のK君はしばらく会っていなくても、目が合うとニコッと笑う。グルリと寝返りして、両脚をバタンバタンさせて、じっとしていない。キャッキャッと大きな声で笑うようになっていた。
 前日は生まれて初めて保育園に行ったとか。最初は「慣らし保育」だそうで、そのときの写真を見たら、やっぱり目元に泣いた跡があった。
 お嫁さんはパートに出始めたばかりで、会えないまま。でも、ちゃんと気遣ってくれていて、『父の日の』のお祝いに、珍しい国産ウィスキーをいただいた。

■もうトンボが飛んでいる。団地のなかを歩いていたら、赤トンボの群れが目の前を右に左に横切った。

カミさんが退社しました2024年06月29日 18時50分

 朝の6時半過ぎ。いつもより遅く起き出したカミさんがぽつんとつぶやいた。
「あーあ、失業か」
 ため息が薄暗い部屋のなかで、はぐれ雲にようにしばらく浮かんでいた。
 ぼくの相棒は五つ年下の68歳。世間の通り相場では、「やれやれ、やっと仕事から解放された。これからのんびり暮らせるね」というのが落ち着きどころだろう。
 だが、そうではない家庭もある。わが家の実態も他人事ではない。
「私の人生って、おカネに縁がないよね」
「そうと決まったわけでもないさ。まぁ、しばらくはゆっくりしたらいいよ」
 本日をもって、カミさんは13年間、契約社員として勤めてきた会社を退職した。半年ごとに繰り返される契約更新の関門をくぐり抜けて、職場では頭ひとつ突き出た最高齢者になっていた。まだまだ元気だし、「70歳まではいまの会社で働きたいなぁ」と言っていたのだが。
 退社の理由は、「もう来なくていいですよ」と言い渡されたからではない。会社は、彼女たちのやっていたデータ処理の仕事を将来的にも採算がとれないと判断して、その事業をあっさり廃止したのだ。
 これによって北海道から九州までの全支店で、キーパンチャーの人たちは正社員も契約社員も全員が職を失ってしまった。契約社員の退職金はどんなに仕事ができる人でも、正社員の1割未満だったという。よく見聞きする話がとうとうカミさんにもまわってきたのである。
 将来の計画も木っ端みじんになって、明日からどうしたらいいのか、路頭に迷っている。
 一緒に働いていた女性たち、とくに契約社員のなかには、こんな境遇の人が何人もいるとか。そのほとんどが50歳前後の独身女性という点も、いまの時代を物語っているようだ。彼女たちが安定して食べていける転職先をみつけるのは容易ではないだろう。
「私は歳だから、まだあきらめもつくけど、あの人たちはこれからが大変よね」
 実は、会社からデータ処理部門の閉鎖の発表があったのは昨年の暮れだった。だが、「社外にも、家族にも絶対にもらすな」という厳しいかん口令が敷かれて、自分の立場がどうなるのかわかっていても、再就職への身動きがとりにくかったという。
 ふと東京で週刊誌の記者をしていたときに、総合商社の安宅産業が倒産し、失業した元社員たちのその後を追って、名古屋や大阪に出張取材した当時のことを思い出した。
 取材で会った人たちはみなたくましかった。いまさら会社の経営陣のせいにしてもしようがないと腹をくくって、それぞれが自分の力で新しい道を切り拓いていた。
 印象深かったのは、彼らのまわりには、彼らが大手商社マンとして働いていたころの人柄やその仕事ぶりをよく知っている人たちが寄り添っていたことである。
 そんなことが通用するのは働き盛りのころまでだろ、と言われるかもしれない。そしたら、ぼくはこの話とはなんの脈絡もないことは百も承知の上で、自分にも言い聞かせながら、次のように反論する。
 五木寛之は91歳、黒柳徹子は90歳、加藤登紀子は80歳、タモリは78歳、ぐっと若返って、あの中島みゆきはまだ72歳だよ。
 すい臓がんを体験したぼくは、生か死かの瀬戸際に立たされて、それまでの確信をいっそう深めている。
 自分の将来を明るく見るか、それとも暗く見るのか。それによって自分の将来は決まる。
 文章にすれば、そういうことである。
 記者時代のぼくを育ててくれたエース記者のTさんは、ぼくたち夫婦がだれも知り合いのいない福岡に転居して、予想もしなかった苦しみに直面していたとき、こんな一文をしたためた年賀状をくださった。
「いまが人生の花だと思いなさい」
 会えなくなっても、いつも寄り添ってくれる言葉がある。逆風に遭うたびに、「いまが人生の花だ」とおもうようにしている。

■室見川を渡ったところに、たんぼが広がっている。田植えが終わった後のあぜ道に、カモの夫婦が仲良く並んでいた。