新潟の山菜で、旨い地酒を飲む ― 2025年06月01日 19時38分

つい先日、新潟・南魚沼市から地元で採れた山菜がどっさり届いた。送ってくれたのは、いつものようにカミさんの姉。昨年2月に、わが家にやってきた姪からは新潟のラーメンが入っていた。感謝感激である。
九州にはない筍のネマガリダケからコゴミ、タラの芽、ウド、フキ、ワラビ、マイタケ、それに身欠きニシンもある。これは義母が得意だった煮物にして、という心遣いか。
フキやワラビの一部は調理ずみで、さっそく昼食に添えた。やわらかくて、甘みがあって、この香り、深い味わいは豪雪地帯ならでは。残雪と新緑のなかを歩きまわる山菜採りのたのしさを思いだした。
カミさんによれば、先日のブログ、『腹のなかに竹が生えそうだ』を読んで、ネマガリダケもおいしいよ、思いたったらしい。本当にありがたい。
残念なのは、せっかく山から採って来た木の芽(三つ葉アケビの若い芽)を冷蔵庫に入れたまま、荷物に入れ忘れたこと。ご本人は大ショックだったようだ。その気持ち、よーくわかる。
長男に連絡して、山菜とラーメンをおすそわけした。お嫁さんも、ぜひ新潟に行ってみたいと言っているから、きっとよろこんでくれるだろう。遠くはなれていても、こうして代々つづいて親戚同士が仲良くなるのは仕合わせなことだとおもう。
この日の夕食のメインは、山菜の天ぷら、身欠きニシンやウドなどが入った煮物、調理済みの山菜の小鉢で決まり。そして、酒は以前送ってもらった新潟の地酒がある。
今週の月曜から水曜まで、抗がん剤の点滴をしていた。昨日までからだがきつかった。一歩も外に出ない日もあった。起きているのがつらくて、ついついへこたれそうになったが、もう大丈夫。元気が戻ってきた。
点滴は4回目が終了。まだ始まったばかり、手術後の点滴は2週間ごとに19回もやったのだ。先は長い。
遅れ気味のブログになってしまったが、苦しいなかでのうれしい出来事だったから、書き留めておく。
九州にはない筍のネマガリダケからコゴミ、タラの芽、ウド、フキ、ワラビ、マイタケ、それに身欠きニシンもある。これは義母が得意だった煮物にして、という心遣いか。
フキやワラビの一部は調理ずみで、さっそく昼食に添えた。やわらかくて、甘みがあって、この香り、深い味わいは豪雪地帯ならでは。残雪と新緑のなかを歩きまわる山菜採りのたのしさを思いだした。
カミさんによれば、先日のブログ、『腹のなかに竹が生えそうだ』を読んで、ネマガリダケもおいしいよ、思いたったらしい。本当にありがたい。
残念なのは、せっかく山から採って来た木の芽(三つ葉アケビの若い芽)を冷蔵庫に入れたまま、荷物に入れ忘れたこと。ご本人は大ショックだったようだ。その気持ち、よーくわかる。
長男に連絡して、山菜とラーメンをおすそわけした。お嫁さんも、ぜひ新潟に行ってみたいと言っているから、きっとよろこんでくれるだろう。遠くはなれていても、こうして代々つづいて親戚同士が仲良くなるのは仕合わせなことだとおもう。
この日の夕食のメインは、山菜の天ぷら、身欠きニシンやウドなどが入った煮物、調理済みの山菜の小鉢で決まり。そして、酒は以前送ってもらった新潟の地酒がある。
今週の月曜から水曜まで、抗がん剤の点滴をしていた。昨日までからだがきつかった。一歩も外に出ない日もあった。起きているのがつらくて、ついついへこたれそうになったが、もう大丈夫。元気が戻ってきた。
点滴は4回目が終了。まだ始まったばかり、手術後の点滴は2週間ごとに19回もやったのだ。先は長い。
遅れ気味のブログになってしまったが、苦しいなかでのうれしい出来事だったから、書き留めておく。
カミさん、初出勤に寝坊する ― 2025年06月02日 18時26分

「〇〇子、そろそろ起きた方がいいんじゃないか」
「うーん。エッ! 何時?」
「5時21分だよ」
「ワッ。やばい! 遅刻しちゃう!」
きょうはカミさんがパートに行く初出勤の日。始業の時刻は朝6時で、勤め先からは、「少し早く来てください」と言われていた。
時間がない。ガバッと立ち上がって、もう大慌てである。
こちらも急いで冷凍していたパンを焼き、手製のヨーグルトとバナナ、蜂蜜、インスタントコーヒー、手持ち用のチョコレートを用意した。お腹に入れてくれたのは、パンをひとかじりとバナナ、コーヒーをひと口だけ。
「慌てなくてもいいよ。車で送るから」
パート先がすぐ近くでよかった。歩いて6、7分の距離。車なら20秒で着く。5時40分に建物から少しはなれたところに到着。ゆうゆうセーフだった。
福祉施設といっても老人施設ではない。障がいを持つ人たちの専用施設で、カミさんの役割は「生活支援員」。まったく経験のない分野である。
ここを選んだ理由は、掃除の仕事、スーパーや調理補助の仕事などはみな希望する条件に合わず、とにかく歩いて行けて、なんとかやれるかもしれなくて、雇用センターを通して、69歳でも面接してくれたこと。
この年齢の壁の解消がいちばんおおきかった。建物は新築できれいだし、面接で会った若い責任者の感じがよかったこともプラスに働いた。
とにかく70歳近い高齢者が働く場所をみつけるのは容易ではない。(ひいき目ではないが、うちのカミさんはとてもそんな歳には見えない。まだ50代と思いこんでいた人もいる)
勤務時間は6時から9時までの3時間。週に3、4日出勤の契約で、朝は早いが、以前勤めていたときも5時20分には起きていたから、無理をしないでやれそうだ。
自分にはとてもできない仕事と思ったら、止めればいい。これはぼくたち夫婦の了解事項である。
無事に送って、ほっとした。用意したパンなどの残り物で、ぼくの朝飯は終わり。帰って来るカミさんのために、みそ汁をつくった。これからはサポートしなければ。
9時半近くに、カミさんは帰還。しばらく話を聞く。嫌な印象はなかったという。明日は休みで、ひと呼吸おけるのもよかった。これから何がはじまるか、たのしみができた。
横浜の後輩君からは「母校・早稲田の散歩から仲間たちの昼飲み会」の写真がLINEで送られてきた。なかに学生時代に雇われマスターをやって、ひと暴れしたコーヒーと軽食、夜は洋酒も出していた店『ヤコブ』があった場所の写真も撮影されていた。
新宿・中村屋のカリーライスとボルシチが売り物で、まわりの店の相場よりもかなり安い価格だった。ドリップコーヒー130円、カリーライス300円、ボルシチ350円。
ぼくを息子のようにかわいがってくれたオヤジさん自身、ハナから学生相手に儲ける気はなかった。
彼らもちょくちょくやって来た。いろんな個性派が立ち寄っていたから、大学とはひと味違った自由な空間は、後輩君たちにも思い出深い店だったのだろう。
体調がよくなってきて、こうして書けることがたのしい。
■団地で、業者さんたちのいっせい草刈りが行われている。きれいになって、気持ちがいい。
「うーん。エッ! 何時?」
「5時21分だよ」
「ワッ。やばい! 遅刻しちゃう!」
きょうはカミさんがパートに行く初出勤の日。始業の時刻は朝6時で、勤め先からは、「少し早く来てください」と言われていた。
時間がない。ガバッと立ち上がって、もう大慌てである。
こちらも急いで冷凍していたパンを焼き、手製のヨーグルトとバナナ、蜂蜜、インスタントコーヒー、手持ち用のチョコレートを用意した。お腹に入れてくれたのは、パンをひとかじりとバナナ、コーヒーをひと口だけ。
「慌てなくてもいいよ。車で送るから」
パート先がすぐ近くでよかった。歩いて6、7分の距離。車なら20秒で着く。5時40分に建物から少しはなれたところに到着。ゆうゆうセーフだった。
福祉施設といっても老人施設ではない。障がいを持つ人たちの専用施設で、カミさんの役割は「生活支援員」。まったく経験のない分野である。
ここを選んだ理由は、掃除の仕事、スーパーや調理補助の仕事などはみな希望する条件に合わず、とにかく歩いて行けて、なんとかやれるかもしれなくて、雇用センターを通して、69歳でも面接してくれたこと。
この年齢の壁の解消がいちばんおおきかった。建物は新築できれいだし、面接で会った若い責任者の感じがよかったこともプラスに働いた。
とにかく70歳近い高齢者が働く場所をみつけるのは容易ではない。(ひいき目ではないが、うちのカミさんはとてもそんな歳には見えない。まだ50代と思いこんでいた人もいる)
勤務時間は6時から9時までの3時間。週に3、4日出勤の契約で、朝は早いが、以前勤めていたときも5時20分には起きていたから、無理をしないでやれそうだ。
自分にはとてもできない仕事と思ったら、止めればいい。これはぼくたち夫婦の了解事項である。
無事に送って、ほっとした。用意したパンなどの残り物で、ぼくの朝飯は終わり。帰って来るカミさんのために、みそ汁をつくった。これからはサポートしなければ。
9時半近くに、カミさんは帰還。しばらく話を聞く。嫌な印象はなかったという。明日は休みで、ひと呼吸おけるのもよかった。これから何がはじまるか、たのしみができた。
横浜の後輩君からは「母校・早稲田の散歩から仲間たちの昼飲み会」の写真がLINEで送られてきた。なかに学生時代に雇われマスターをやって、ひと暴れしたコーヒーと軽食、夜は洋酒も出していた店『ヤコブ』があった場所の写真も撮影されていた。
新宿・中村屋のカリーライスとボルシチが売り物で、まわりの店の相場よりもかなり安い価格だった。ドリップコーヒー130円、カリーライス300円、ボルシチ350円。
ぼくを息子のようにかわいがってくれたオヤジさん自身、ハナから学生相手に儲ける気はなかった。
彼らもちょくちょくやって来た。いろんな個性派が立ち寄っていたから、大学とはひと味違った自由な空間は、後輩君たちにも思い出深い店だったのだろう。
体調がよくなってきて、こうして書けることがたのしい。
■団地で、業者さんたちのいっせい草刈りが行われている。きれいになって、気持ちがいい。
4番、サード長嶋、背番号3 ― 2025年06月03日 21時31分

「4番、サード長嶋。背番号3」
アナウンスが響きわたると、後楽園球場の超満員のスタンドから大歓声がわきあがった。不思議なことに、まるでこの選手のために用意されたかように、目をはなせないチャンスがまわってくる。そこがまたファンにはたまらない魅力だった。
スタンドは静まり返った。いまのように、ドンドンドン、プープープーのうるさい太鼓やラッパの音なんか、なかった。味方も敵も、そんな野暮なことはしなかった。
「ミスター」。担当記者たちも長嶋繁雄をそう呼んでいた。その彼が89歳になって、とうとうこの世からいなくなった。
残るは王さんだけになってしまった。
「背番号3」の右の強打者・長嶋茂雄と「背番号1」の左の長距離砲・王貞治が大活躍していたころを知っている人たちは、そう感じていることだろう。
王さんは本塁打の世界記録を更新するときに臨時特集号の取材を担当したので、彼の間近かにいたことがある。
長嶋とは彼が新監督になったとき、だれもいない後楽園球場のベンチ裏で、胸毛を出した裸のまま腰にバスタオルを巻いていたところに出くわした。至近距離はその一瞬だけだったが、目を合わせた印象は強烈そのものだった。
ものすごいオーラを浴びた。生まれてはじめて、「オーラ」という得体の知れない電流にしびれたのが長嶋だった。ぼくの人物を観る目を、もうひとつ開いてくれた人である。
このへんの思い出話になると言いたい人は山のようにいるだろうから、少し視点を変えて、あのころといまの違いの一端に触れておこう。
当時は新聞の発行部数のトップ争いもし烈だった。首位は朝日、それを追うのが読売で、トップの座を目指していた。
ジャイアンツの親会社は読売新聞社ではなく、読売興業だった。つまり、あの吉本興業と同じような興業会社である。
おおげさな言い方になるが、20世紀のテレビの野球中継といえば、ほとんどが巨人戦。スポーツ新聞も一面トップは巨人の試合で、新聞のスポーツ欄も似たようなものだった。週刊誌の特集企画も同じ。新潟生まれのカミさんは、プロ野球はジャイアンツしか知らなかったと言っている。
読売新聞の新規購読者を獲得する切り札が入手困難な巨人戦のプラチナチケットだった。これが新規契約の景品として、とくに地方では絶大な威力を発揮した。
わが九州でいえば、小倉にある読売新聞西部本社もおおいにこのチケットを活用していた。この西部本社の親会社も読売興業だった。そして、ついに読売新聞の発行部数は朝日を抜いた。
巨人軍が常勝軍団として、優勝を使命づけられていた背景にはこうした企業戦略があった。
「わが巨人軍は永久に不滅です」
引退セレモニーで、ファンあってのプロ野球を全身で意識していたという長嶋がそう叫んだ心中の深いところは、想像するしかない。
彼が監督に就任して、負け試合が続き、前監督の川上哲治との暗闘が繰りひろげられたとき、親しい人に向かって、「ねぇ、正義は勝つよね」と言ったという情報も耳にした。その言葉の意味が「永久に不滅です」と重なって聞こえるのだ。
ときは流れて、巨人戦のテレビ中継の数は当時と比べて見る影もない。部数の減少に歯止めがかからない新聞業界もまたそうである。
スタンドの応援風景も様変わりした。長嶋茂雄の訃報は人々の関心と社会現象の移り変わりを物語っているように、ぼくの目には映る。
■散歩をしながら、ブログに載せる写真を探す。
ビワの実があった。どうやら摘果して、残した実を大きく育てて、食べる気はないらしい。そんな家が目につく。
アナウンスが響きわたると、後楽園球場の超満員のスタンドから大歓声がわきあがった。不思議なことに、まるでこの選手のために用意されたかように、目をはなせないチャンスがまわってくる。そこがまたファンにはたまらない魅力だった。
スタンドは静まり返った。いまのように、ドンドンドン、プープープーのうるさい太鼓やラッパの音なんか、なかった。味方も敵も、そんな野暮なことはしなかった。
「ミスター」。担当記者たちも長嶋繁雄をそう呼んでいた。その彼が89歳になって、とうとうこの世からいなくなった。
残るは王さんだけになってしまった。
「背番号3」の右の強打者・長嶋茂雄と「背番号1」の左の長距離砲・王貞治が大活躍していたころを知っている人たちは、そう感じていることだろう。
王さんは本塁打の世界記録を更新するときに臨時特集号の取材を担当したので、彼の間近かにいたことがある。
長嶋とは彼が新監督になったとき、だれもいない後楽園球場のベンチ裏で、胸毛を出した裸のまま腰にバスタオルを巻いていたところに出くわした。至近距離はその一瞬だけだったが、目を合わせた印象は強烈そのものだった。
ものすごいオーラを浴びた。生まれてはじめて、「オーラ」という得体の知れない電流にしびれたのが長嶋だった。ぼくの人物を観る目を、もうひとつ開いてくれた人である。
このへんの思い出話になると言いたい人は山のようにいるだろうから、少し視点を変えて、あのころといまの違いの一端に触れておこう。
当時は新聞の発行部数のトップ争いもし烈だった。首位は朝日、それを追うのが読売で、トップの座を目指していた。
ジャイアンツの親会社は読売新聞社ではなく、読売興業だった。つまり、あの吉本興業と同じような興業会社である。
おおげさな言い方になるが、20世紀のテレビの野球中継といえば、ほとんどが巨人戦。スポーツ新聞も一面トップは巨人の試合で、新聞のスポーツ欄も似たようなものだった。週刊誌の特集企画も同じ。新潟生まれのカミさんは、プロ野球はジャイアンツしか知らなかったと言っている。
読売新聞の新規購読者を獲得する切り札が入手困難な巨人戦のプラチナチケットだった。これが新規契約の景品として、とくに地方では絶大な威力を発揮した。
わが九州でいえば、小倉にある読売新聞西部本社もおおいにこのチケットを活用していた。この西部本社の親会社も読売興業だった。そして、ついに読売新聞の発行部数は朝日を抜いた。
巨人軍が常勝軍団として、優勝を使命づけられていた背景にはこうした企業戦略があった。
「わが巨人軍は永久に不滅です」
引退セレモニーで、ファンあってのプロ野球を全身で意識していたという長嶋がそう叫んだ心中の深いところは、想像するしかない。
彼が監督に就任して、負け試合が続き、前監督の川上哲治との暗闘が繰りひろげられたとき、親しい人に向かって、「ねぇ、正義は勝つよね」と言ったという情報も耳にした。その言葉の意味が「永久に不滅です」と重なって聞こえるのだ。
ときは流れて、巨人戦のテレビ中継の数は当時と比べて見る影もない。部数の減少に歯止めがかからない新聞業界もまたそうである。
スタンドの応援風景も様変わりした。長嶋茂雄の訃報は人々の関心と社会現象の移り変わりを物語っているように、ぼくの目には映る。
■散歩をしながら、ブログに載せる写真を探す。
ビワの実があった。どうやら摘果して、残した実を大きく育てて、食べる気はないらしい。そんな家が目につく。
キリスト教・福音派の主張に驚いた ― 2025年06月04日 14時26分

「お父さん、まだ寝てていいよ」
朝の4時50分、二日前とは立場が逆転した言葉をかけられた。きょうのカミさんはさすがに寝坊しなかった。
6月になって、わが家の生活のリズムが変わった。まだ慣れていないけれど、カミさんが外で働くようになったことは、ぼくにもきっといい影響を与えるとおもう。現にこうして朝早くからパソコンに向かっている。
昨日、撮りだめしていたNHKのドキュメンタリー番組、『ハルマゲドンを待ち望んで、米国を動かす福音派』の前後編を見ながら、自分の無知さ加減を恥じた。福音派の名前しか知らなかった。なんにもわかっていなかった。
福音派は本気でハルマゲドン、つまり、世界の終わりを待ち焦がれていて、その戦いの場はイスラエルで、目的はパレスチナの人々を一掃して、ユダヤ人国家を建設することだった。悲惨極まる皆殺し作戦を、もっとやれ、いくらでも応援する、そう正当化しているのだ。
おかしくないか。「神の子」のやることなのか。
またロシアのプーチンのように超大国が仕掛けている戦争も、もうすぐ世界の終わりをもたらす、それでいいのだ、そのとき必ずイエスが復活するのだから。そして、ハルマゲドンが起きたときに神から選ばれて天国に行けるのは、神の教えに従って、闘いの剣を持って立ち上がる人々だけだ、すなわち自分たち福音派だけだという。
この世が滅ぶハルマゲドンは目の前に迫っている、もうすぐイエスが復活する。
なんとも信じられないことを、彼らは固く、強く信じている。聖書の予言から導きだした彼らなりの揺るぎない歴史観なのだろう。
この宗教団体と手を結んでいるのがトランプで、福音派は民主主義の象徴である議会を襲撃した。その暴徒たちをトランプはあっさり恩赦で釈放した。法律もなにもあったものではない。アメリカはここまで分断された国になってしまった。
「アメリカは宗教国家になるでしょう」。そう断言する研究者の声もあった。
つくづく一神教を信じる国や民族ではなくて、山の神や水の神、かまどを守る神様、縁結びの神様など、いろんな神様が身近なあちこちにいる、多神教の日本に生まれてよかったとおもう。
ここは以前にも取り上げた環境問題とも深く関わるところで、たとえば西欧では森の木を伐りまくって、都市を発展させてきた。いまのヨーロッパの森がきれいに見えるのは、ぜんぶの木を切り倒したことを反省して、まっすぐ伸びる木だけを選んで植えたからである。
話がややこしくなるから省くが、一神教のキリスト教徒にとって、森に住む蛇は忌むべき悪魔であり、近代ヨーロッパ文明の開幕とともに森は破壊され、蛇も殺された。
日本はまるっきり反対で、神社にある注連縄(しめなわ)はオスとメスの蛇とが絡み合っている様子を表している。日本人はそこで頭を下げて、平和と安泰を願い、拝み続けてきた。
明治神宮の森はヨーロッパと同じく人工林だが、それは昔なつかしい鎮守の森で、幹が曲がっていたり、斜めに傾いたり、いろんな種類の樹木がある。ここでも森をつくる発想は、日本と西欧とではまるで違っているのだ。
自然と共生してきた日本のことをもっと理解してもらえるように、神社の注連縄や鎮守の森のことも、外国からの観光客に説明したらいいのではないか。いや、いまの多くの日本人もそんな関心をなくしてしまったか。子どもころから、森のなかでもよく遊んだものだが。
いま7時15分。このブログ、もう一度読み返して、載せるかどうか、決めよう。
■森と文明については、安田喜憲の『森と文明 環境考古学の視点』(NHK人間大学・1994年)でいろいろ教えてもらった。ひところ森の本を読み漁ったことがある。
朝の4時50分、二日前とは立場が逆転した言葉をかけられた。きょうのカミさんはさすがに寝坊しなかった。
6月になって、わが家の生活のリズムが変わった。まだ慣れていないけれど、カミさんが外で働くようになったことは、ぼくにもきっといい影響を与えるとおもう。現にこうして朝早くからパソコンに向かっている。
昨日、撮りだめしていたNHKのドキュメンタリー番組、『ハルマゲドンを待ち望んで、米国を動かす福音派』の前後編を見ながら、自分の無知さ加減を恥じた。福音派の名前しか知らなかった。なんにもわかっていなかった。
福音派は本気でハルマゲドン、つまり、世界の終わりを待ち焦がれていて、その戦いの場はイスラエルで、目的はパレスチナの人々を一掃して、ユダヤ人国家を建設することだった。悲惨極まる皆殺し作戦を、もっとやれ、いくらでも応援する、そう正当化しているのだ。
おかしくないか。「神の子」のやることなのか。
またロシアのプーチンのように超大国が仕掛けている戦争も、もうすぐ世界の終わりをもたらす、それでいいのだ、そのとき必ずイエスが復活するのだから。そして、ハルマゲドンが起きたときに神から選ばれて天国に行けるのは、神の教えに従って、闘いの剣を持って立ち上がる人々だけだ、すなわち自分たち福音派だけだという。
この世が滅ぶハルマゲドンは目の前に迫っている、もうすぐイエスが復活する。
なんとも信じられないことを、彼らは固く、強く信じている。聖書の予言から導きだした彼らなりの揺るぎない歴史観なのだろう。
この宗教団体と手を結んでいるのがトランプで、福音派は民主主義の象徴である議会を襲撃した。その暴徒たちをトランプはあっさり恩赦で釈放した。法律もなにもあったものではない。アメリカはここまで分断された国になってしまった。
「アメリカは宗教国家になるでしょう」。そう断言する研究者の声もあった。
つくづく一神教を信じる国や民族ではなくて、山の神や水の神、かまどを守る神様、縁結びの神様など、いろんな神様が身近なあちこちにいる、多神教の日本に生まれてよかったとおもう。
ここは以前にも取り上げた環境問題とも深く関わるところで、たとえば西欧では森の木を伐りまくって、都市を発展させてきた。いまのヨーロッパの森がきれいに見えるのは、ぜんぶの木を切り倒したことを反省して、まっすぐ伸びる木だけを選んで植えたからである。
話がややこしくなるから省くが、一神教のキリスト教徒にとって、森に住む蛇は忌むべき悪魔であり、近代ヨーロッパ文明の開幕とともに森は破壊され、蛇も殺された。
日本はまるっきり反対で、神社にある注連縄(しめなわ)はオスとメスの蛇とが絡み合っている様子を表している。日本人はそこで頭を下げて、平和と安泰を願い、拝み続けてきた。
明治神宮の森はヨーロッパと同じく人工林だが、それは昔なつかしい鎮守の森で、幹が曲がっていたり、斜めに傾いたり、いろんな種類の樹木がある。ここでも森をつくる発想は、日本と西欧とではまるで違っているのだ。
自然と共生してきた日本のことをもっと理解してもらえるように、神社の注連縄や鎮守の森のことも、外国からの観光客に説明したらいいのではないか。いや、いまの多くの日本人もそんな関心をなくしてしまったか。子どもころから、森のなかでもよく遊んだものだが。
いま7時15分。このブログ、もう一度読み返して、載せるかどうか、決めよう。
■森と文明については、安田喜憲の『森と文明 環境考古学の視点』(NHK人間大学・1994年)でいろいろ教えてもらった。ひところ森の本を読み漁ったことがある。
髪の毛を、うんと短くした ― 2025年06月06日 10時59分

昨日、午後3時半。車で7、8分のいつもの床屋さんに行って来た。お店はこの時間帯が空いている。やっぱり先客はいなくて、すぐ鏡の前の椅子に座れた。
「バッサリ、やって。いつもだいぶ短くしてもらっているけど、もっと短くしたら、おかしいかなぁ。髪の毛が抜けて、どんどん頭が薄くなったけど、もう自然に逆らうのは止めた。大将みたいな頭の方がすっきりして、いいかもしれないなと思って」
もう30年以上のつきあいになる大将の頭は、初めて会ったときから、茹で卵の殻をむいたような、灯りのついた裸電球のような、ピカピカのきれいな丸坊主である。
「短くしても、ぜんぜんおかしくないですよ。ときどき、わたしみたいな頭になりたいというお客さんもいるけど、やめとき、と言ってます。夏はヤケドして、皮がむけます」
30年前のぼくの髪の毛はふさふさだったのに、とうとうこんな会話をするようになった。
「ヤケドはいやだなぁ。じゃあ、思い切って、うんと短くして」
病気の話はいっさいしない。「髪の毛が抜ける、自然に逆らわない」と言ったのは、予告編みたいなもので、そうなったときの先手を打っておく意味もあった。
まったく渡世というやつは、人からその人のまわりの人たちに、こちらの話がどう広がるかが気になって、いろいろ余計な気を遣う。
ここの大将はぼくよりも少し年齢が下で、数年前に脳梗塞になって、店から救急車で運ばれたことがある。ひところは舌がもつれて、うまくしゃべれなかったが、ちゃんとハサミも、カミソリも使えた。昔かたぎのプロ根性の持ち主である。
以前住んでいた小倉に、「安い、早い、うまい」を売り物にしていた『三徳うどん』があった。この床屋さんは「上手い、早い、安い」で、腕もいい。だが、交通量の少ないところで、店構えも地味だから、若い客は寄りつかない。年金暮らしの年寄りばかりがやって来る。
よく見かける格安のチェーン店ではない。カット、髭剃り、シャンプーもきちんとしている。客との会話もしゃべった方がいいか、このまま静かにしておくか、ちゃんと呼吸をわきまえている。そんなリラックスできる、ありがたいところ。
これで料金は、大人が1,680円、65歳以上は1,470円。相場の半値以下で、米騒動が起きているご時勢では、もっと光が当たってもよさそうなものだが。
大将はここ2、3年前から、「そろそろ店を止めようかな」と言いだした。パートナーの奥さんも反対する素振りはない。懐具合のさびしい常連客は気が気ではなく、「オレたちを見捨てないくれ」の声があがっているという。
なんでもかんでも世代交代だよなぁ。次から次に、いいものが消えて行くなぁ。
いつ見捨てられるかもわからないご同輩のみなさんの思いも同じだろう。
お陰で、頭もすっきりして、軽くなった。カミさんも「いいじゃない。髪の毛は短い方が若く見えて、いいよ」と言ってくれた。
ちょっと待てよ。これも予告編なのだろうか。
■ブログに書いた桑の木。枝にいっぱい実がついている。何度か食べてみて、わかったことがある。わが家のベランダにある桑の実の方がもっと甘くて、ジューシーだった。
おそらく実が多過ぎるせいだろう。この桑の木は自然の成すがまま、そっとしておこう。
「バッサリ、やって。いつもだいぶ短くしてもらっているけど、もっと短くしたら、おかしいかなぁ。髪の毛が抜けて、どんどん頭が薄くなったけど、もう自然に逆らうのは止めた。大将みたいな頭の方がすっきりして、いいかもしれないなと思って」
もう30年以上のつきあいになる大将の頭は、初めて会ったときから、茹で卵の殻をむいたような、灯りのついた裸電球のような、ピカピカのきれいな丸坊主である。
「短くしても、ぜんぜんおかしくないですよ。ときどき、わたしみたいな頭になりたいというお客さんもいるけど、やめとき、と言ってます。夏はヤケドして、皮がむけます」
30年前のぼくの髪の毛はふさふさだったのに、とうとうこんな会話をするようになった。
「ヤケドはいやだなぁ。じゃあ、思い切って、うんと短くして」
病気の話はいっさいしない。「髪の毛が抜ける、自然に逆らわない」と言ったのは、予告編みたいなもので、そうなったときの先手を打っておく意味もあった。
まったく渡世というやつは、人からその人のまわりの人たちに、こちらの話がどう広がるかが気になって、いろいろ余計な気を遣う。
ここの大将はぼくよりも少し年齢が下で、数年前に脳梗塞になって、店から救急車で運ばれたことがある。ひところは舌がもつれて、うまくしゃべれなかったが、ちゃんとハサミも、カミソリも使えた。昔かたぎのプロ根性の持ち主である。
以前住んでいた小倉に、「安い、早い、うまい」を売り物にしていた『三徳うどん』があった。この床屋さんは「上手い、早い、安い」で、腕もいい。だが、交通量の少ないところで、店構えも地味だから、若い客は寄りつかない。年金暮らしの年寄りばかりがやって来る。
よく見かける格安のチェーン店ではない。カット、髭剃り、シャンプーもきちんとしている。客との会話もしゃべった方がいいか、このまま静かにしておくか、ちゃんと呼吸をわきまえている。そんなリラックスできる、ありがたいところ。
これで料金は、大人が1,680円、65歳以上は1,470円。相場の半値以下で、米騒動が起きているご時勢では、もっと光が当たってもよさそうなものだが。
大将はここ2、3年前から、「そろそろ店を止めようかな」と言いだした。パートナーの奥さんも反対する素振りはない。懐具合のさびしい常連客は気が気ではなく、「オレたちを見捨てないくれ」の声があがっているという。
なんでもかんでも世代交代だよなぁ。次から次に、いいものが消えて行くなぁ。
いつ見捨てられるかもわからないご同輩のみなさんの思いも同じだろう。
お陰で、頭もすっきりして、軽くなった。カミさんも「いいじゃない。髪の毛は短い方が若く見えて、いいよ」と言ってくれた。
ちょっと待てよ。これも予告編なのだろうか。
■ブログに書いた桑の木。枝にいっぱい実がついている。何度か食べてみて、わかったことがある。わが家のベランダにある桑の実の方がもっと甘くて、ジューシーだった。
おそらく実が多過ぎるせいだろう。この桑の木は自然の成すがまま、そっとしておこう。
早朝から「冒険小僧」に出会う ― 2025年06月08日 07時48分

朝の5時45分。小雨が降っている。傘をさして、仕事に出て行くカミさんをベランダから見送っていたら、小さな煤(すす)色の点が物干し竿の下に浮いている。クモが巣を作っていた。昨日の夜はなかった。
ぼくの住まいは3階だから、地上からここまで10メートル以上もある。地べたからよじ登って来たのか。それとも風に乗って、ここまで飛んで来たのか。空を飛ぶなんて、そんな芸当ができるのだろうか。考えてみれば、知らないことだらけである。
朝からとんでもない冒険小僧に出会った。でも、このまま放っておくわけにはいかない。クモががんばって作り上げた、きれいな六角形の巣を取り払って、見えない糸でぶらさがっているクモを空中に投げた。落ちても死ぬことはあるまい。
ちょっと目をはなしていたら、ちいさな点が自分の尻から出した糸を伝って、スルスルと登って来た。しつこいやつである。
そのとき、ふとカミさんが母親から聞いたという言葉を思い出した。
「朝のクモは縁起がいいから、殺したらいけないよ」
少しこまごまと書いたが、こどもころはこんなふうにクモや蟻、川にいるカニやアユの子、空を流れる雲などを飽きずにじっと観察したものだ。そのころの自分の姿もこころの中の景色として残っている。
ところで、景観にはふたつの種類があるという。
ひとつは、こころの中の風景で、だれもが自分の故郷や子どものころを持っているように、いくつかの風景をこころに懐かしく抱いている。
もうひとつは、目の前にある現実の風景。そして、人は現実の風景よりもこころの中の風景の方に高い価値を置き、そうはっきりとは意識しないまでも、こころの中の風景を美化して、あれが本当の風景だとおもっているという。(参照 : 『日本の景観』 樋口忠彦)
ぼくはこの指摘を素直に受け入れる。実際にそうして生きてきた。
父が亡くなった後、もうひとつ発見したこころの中の風景がある。
そのことに気がついたのは、博多駅から小倉駅のあいだにある新幹線のいちばん長いトンネル(11,747メートル)で、この登り、下りの2本の隧道は旧国鉄職員だった父が小倉の工事区長をしていたときに完成した。大規模な出水があって、地上で暮らしている人たちの井戸が枯れてしまい、地元の人たちとの交渉で、父が珍しく苦労話をもらしていたことがあった。
新幹線に乗って、このトンネルを通るたび、ぼくは父がヘルメットをかぶっている元気な姿をおもいだす。
さて、6時47分になった。
早起きして、冒険小僧のクモに出会って、そのことを書きはじめたら、こんな結末になった。
■写真の分厚い本『山陽新幹線工事誌 小瀬川 ・博多間』(発刊 : 昭和51年3月31日)は、父が手元に残していた工事の詳細な記録。
隣の文庫本は、30余年ぶりに取り出した『日本の景観』(ちくま学芸文庫)。
ぼくの住まいは3階だから、地上からここまで10メートル以上もある。地べたからよじ登って来たのか。それとも風に乗って、ここまで飛んで来たのか。空を飛ぶなんて、そんな芸当ができるのだろうか。考えてみれば、知らないことだらけである。
朝からとんでもない冒険小僧に出会った。でも、このまま放っておくわけにはいかない。クモががんばって作り上げた、きれいな六角形の巣を取り払って、見えない糸でぶらさがっているクモを空中に投げた。落ちても死ぬことはあるまい。
ちょっと目をはなしていたら、ちいさな点が自分の尻から出した糸を伝って、スルスルと登って来た。しつこいやつである。
そのとき、ふとカミさんが母親から聞いたという言葉を思い出した。
「朝のクモは縁起がいいから、殺したらいけないよ」
少しこまごまと書いたが、こどもころはこんなふうにクモや蟻、川にいるカニやアユの子、空を流れる雲などを飽きずにじっと観察したものだ。そのころの自分の姿もこころの中の景色として残っている。
ところで、景観にはふたつの種類があるという。
ひとつは、こころの中の風景で、だれもが自分の故郷や子どものころを持っているように、いくつかの風景をこころに懐かしく抱いている。
もうひとつは、目の前にある現実の風景。そして、人は現実の風景よりもこころの中の風景の方に高い価値を置き、そうはっきりとは意識しないまでも、こころの中の風景を美化して、あれが本当の風景だとおもっているという。(参照 : 『日本の景観』 樋口忠彦)
ぼくはこの指摘を素直に受け入れる。実際にそうして生きてきた。
父が亡くなった後、もうひとつ発見したこころの中の風景がある。
そのことに気がついたのは、博多駅から小倉駅のあいだにある新幹線のいちばん長いトンネル(11,747メートル)で、この登り、下りの2本の隧道は旧国鉄職員だった父が小倉の工事区長をしていたときに完成した。大規模な出水があって、地上で暮らしている人たちの井戸が枯れてしまい、地元の人たちとの交渉で、父が珍しく苦労話をもらしていたことがあった。
新幹線に乗って、このトンネルを通るたび、ぼくは父がヘルメットをかぶっている元気な姿をおもいだす。
さて、6時47分になった。
早起きして、冒険小僧のクモに出会って、そのことを書きはじめたら、こんな結末になった。
■写真の分厚い本『山陽新幹線工事誌 小瀬川 ・博多間』(発刊 : 昭和51年3月31日)は、父が手元に残していた工事の詳細な記録。
隣の文庫本は、30余年ぶりに取り出した『日本の景観』(ちくま学芸文庫)。
自宅でも化学療法しています ― 2025年06月10日 19時24分

昨日から「谷間の1週間」が再びはじまった。5回目の化学療法を受けて、いまも左の肩から紺色のちいさなポシェットを右側の腰のあたりに吊るしている。
なかには抗がん剤の容器が入っていて、46時間かけて薬が少しずつ出てくる。それを細いチューブで右の胸の上部に埋め込んでいるカテーテルのポートに長い針でつなぎ、直接、心臓ちかくの静脈に送り込む仕掛けである。外見上はポシェットしかみえないので、この病気と縁のない人は抗がん剤治療の真っ最中とは気がつかないだろう。
これなら動きながらでも治療を受けられる。がん細胞をやっつける時間を長くすることもできる。カテーテルの針は看護師さんから実習を受けたカミさんが自宅で抜いて片づけてくれる。医学はこんなところまで進歩している。
さきほど高校と大学が一緒だった「西高3人組」の友から、ぼくの体調を気遣う電話があった。ふたりとも大切な友や知人の数が減ってしまい、なんでも言い合えるお互いの存在が希少価値になっている。そして、まだ保育園に通っている孫たちがおおきくなったころの日本や世界、地球環境の不安について、なんの気兼ねもなく話すことがお決まりのコースである。
ぼくがときどきトランプやプーチン、日本の政治家、地球環境などをブログに取り上げるので、「あまりカッカカッカするなよ。頭に血が上るとからだによくないぞ」と当の自分も一緒になって頭に来ているのに、やさしいアドバイスをくれた。
なんことはない、こうしてお互いに溜まっている「ガス抜き」をしているのだ。
世のなかには、このガス抜きのできる家庭や相手がいない人もいる。そんな人が子供たちや若い人たち、大人の社会にも増えているようにみえる。
だが、そんなことはだれだってあるのではないか。
相手がいなければ、自然を相手にするのも、旅でも、日記(ブログ)、本、ネコ、料理、絵を描くのもいい。探せばなにかみつかるものだ。
どうすればいいのか、わからなくなっている人は、そういうときにはどう考えたらいいのかを知らないまま、悩んでいることが多いようにおもう。そこから抜け出す知恵や方法を、ぼくはみんな年上の人や本、自然からもたくさん教えてもらった。
仕事でおもしろくないことがあったとき、だれもいない海で沖の方まで泳いだり、よく風呂のお湯のなかに顔を突っ込んで、「バカヤローッ」と叫んだものだ。空をみながら、ぷかぷか浮かんでいたり、ブクブクブク泡にして、消してやった。
もう少し勝手な拡大解釈をすると、専門家のいろんな意見はあるけれど、理不尽な無差別テロだけでなく、自分を正当化して、ネットで一度も会ったことのない人のことを誹謗・中傷して、最後は自殺に追い詰めた人たちも、もしかしたら、ガス抜きが下手な人なのかもしれない。
たまたま今日の地元紙の朝刊に小学5年生から中学1年までの「子ども記者」たちが大手IT企業のAI運営部長に取材した記事が掲載されていた。
そこで子ども記者と担当部長はこんなやりとりをしている。
-AIのプログラミングで難しい点は?
うそを教えないこと。AIに学習させるデータにうその情報が交っていてはだめ。データを自分たちで作る場合もしっかりチェックしなければならない。これが一番難しい。
だが、このような「うそを教えない。データにうその情報が交ってはいけない」という現場の努力の積み重ねも、ふだんから新聞を読まなかったり、この種の報道に接しない人には残念ながら届かない。
足を使って、事実を追い求めて原稿を書いている取材記者までネットで攻撃されているので、ここは声を大にして言っておきたい。
せっかくの化学療法中なのに、また頭に血が上ってきそうだ。友の忠告に従って、このへんで止めておこう。
彼は「おまえの声を聞いて、元気で安心した」と言っていた。
■化学療法の初日の夜はよく眠れない。夜更けの0時ごろ激しい雨音がして、3時ごろには稲妻が光って、5時過ぎには雷が落ちた。
写真はきょうの正午過ぎの室見川。午前中に大雨警報が出て、こうなった。
なかには抗がん剤の容器が入っていて、46時間かけて薬が少しずつ出てくる。それを細いチューブで右の胸の上部に埋め込んでいるカテーテルのポートに長い針でつなぎ、直接、心臓ちかくの静脈に送り込む仕掛けである。外見上はポシェットしかみえないので、この病気と縁のない人は抗がん剤治療の真っ最中とは気がつかないだろう。
これなら動きながらでも治療を受けられる。がん細胞をやっつける時間を長くすることもできる。カテーテルの針は看護師さんから実習を受けたカミさんが自宅で抜いて片づけてくれる。医学はこんなところまで進歩している。
さきほど高校と大学が一緒だった「西高3人組」の友から、ぼくの体調を気遣う電話があった。ふたりとも大切な友や知人の数が減ってしまい、なんでも言い合えるお互いの存在が希少価値になっている。そして、まだ保育園に通っている孫たちがおおきくなったころの日本や世界、地球環境の不安について、なんの気兼ねもなく話すことがお決まりのコースである。
ぼくがときどきトランプやプーチン、日本の政治家、地球環境などをブログに取り上げるので、「あまりカッカカッカするなよ。頭に血が上るとからだによくないぞ」と当の自分も一緒になって頭に来ているのに、やさしいアドバイスをくれた。
なんことはない、こうしてお互いに溜まっている「ガス抜き」をしているのだ。
世のなかには、このガス抜きのできる家庭や相手がいない人もいる。そんな人が子供たちや若い人たち、大人の社会にも増えているようにみえる。
だが、そんなことはだれだってあるのではないか。
相手がいなければ、自然を相手にするのも、旅でも、日記(ブログ)、本、ネコ、料理、絵を描くのもいい。探せばなにかみつかるものだ。
どうすればいいのか、わからなくなっている人は、そういうときにはどう考えたらいいのかを知らないまま、悩んでいることが多いようにおもう。そこから抜け出す知恵や方法を、ぼくはみんな年上の人や本、自然からもたくさん教えてもらった。
仕事でおもしろくないことがあったとき、だれもいない海で沖の方まで泳いだり、よく風呂のお湯のなかに顔を突っ込んで、「バカヤローッ」と叫んだものだ。空をみながら、ぷかぷか浮かんでいたり、ブクブクブク泡にして、消してやった。
もう少し勝手な拡大解釈をすると、専門家のいろんな意見はあるけれど、理不尽な無差別テロだけでなく、自分を正当化して、ネットで一度も会ったことのない人のことを誹謗・中傷して、最後は自殺に追い詰めた人たちも、もしかしたら、ガス抜きが下手な人なのかもしれない。
たまたま今日の地元紙の朝刊に小学5年生から中学1年までの「子ども記者」たちが大手IT企業のAI運営部長に取材した記事が掲載されていた。
そこで子ども記者と担当部長はこんなやりとりをしている。
-AIのプログラミングで難しい点は?
うそを教えないこと。AIに学習させるデータにうその情報が交っていてはだめ。データを自分たちで作る場合もしっかりチェックしなければならない。これが一番難しい。
だが、このような「うそを教えない。データにうその情報が交ってはいけない」という現場の努力の積み重ねも、ふだんから新聞を読まなかったり、この種の報道に接しない人には残念ながら届かない。
足を使って、事実を追い求めて原稿を書いている取材記者までネットで攻撃されているので、ここは声を大にして言っておきたい。
せっかくの化学療法中なのに、また頭に血が上ってきそうだ。友の忠告に従って、このへんで止めておこう。
彼は「おまえの声を聞いて、元気で安心した」と言っていた。
■化学療法の初日の夜はよく眠れない。夜更けの0時ごろ激しい雨音がして、3時ごろには稲妻が光って、5時過ぎには雷が落ちた。
写真はきょうの正午過ぎの室見川。午前中に大雨警報が出て、こうなった。
開けるな。読んではいけない ― 2025年06月14日 17時09分

からだがきつくて、よく眠れなかった。夜半の雨の音を聴きながら、うっとうしい梅雨空にもいいところがあるよな。そんなことをうつらうつら考えた。
田植えが終わって、稲穂の緑の海がひろがるたんぼに、無数の雨がほそい白線をひきながら落ちていく景色が浮かんだ。きれいさっぱり洗われて、木々のあざやかな緑が歓喜の声をあげている。水かさの増えた川は本来の姿を取り戻して、うねりながら勢いよく流れていく。
森は生き返り、草木は元気になって、お米もよく育って、梅雨がなければ緑ゆたかな日本の暮らしは成り立たない、とおもった。砂漠の民からすれば、おなじ地球に住んでいるのに不公平だと言いたくなるほど、「水と森の国・日本」の風土はうらやましい限りだろう。
大都会のコンクリート社会で忙しく暮らしている人たちは、こんなに幼稚で、ヒマなことなんて考えもしないだろうが。
昨日から、早稲田に入学したころの古い日記を読んでいる。前回のブログに載せた父の仕事の記録本を探していたときに、同じ段ボール箱のなかに、高校3年生のときの分と合わせて2冊が入っていた。
固く閉じられたビニールの袋には、「開けるな。読んではいけない」と黒の鉛筆で書いたメモ用紙が張りつけてあった。
ぼくの字ではない。母の字である。
日記は高校時代からノートのそれも含めて、何冊も書いてきた。だが、記者時代の取材メモもそうで、「過去のことだ」とあっさり捨ててきた。こうして残っているとはおもわなかった。
「開けるな。読んではいけない」。
なつかしい筆跡をじっとみる。母はどんなおもいで、10代で家を出て行ったきりの息子の日記帳を大切に封印してきたのだろうか。
日記は1日1ページではなく、ときには数ページにわたって、おもいのほかきれいな字で書いてある。
大学の北口門から徒歩3、4分の下宿で、独り暮らしをはじめたころ、3畳の狭くるしい部屋に、知り合ったばかりの学友を何人も泊めていた。酔っぱらって担ぎ込まれたやつもいた。国立大学の一発勝負に落ちて就職した友、明治や青山学院に進学した人、成績がよかったのに、よもやの二浪生。それぞれの道を歩く高校の同級生たちの名前もあった。
あんなことがあったっけ。ほとんどぜんぶと言っていいほど忘れていた。
いちばん好きだった若い叔父がまだ20代の若さで、3人の子どもたちを残して、5月に交通事故で急死してしまい、母の郷里の波当津へ飛んで帰って、真っ白な布で包まれた箱の前で大泣きしたことも、悔しさいっぱいに書き留めてあった。
葬式が終わって、悲しみにくれていた祖母は、独りで東京に戻ったぼくの名前をあげて、「〇〇ちゃんは、死んだ△△に声が似ているから、電話して声を聞きたい」と母に話していたという記述もあった。
読み返しながら、手が止まった。
机の上に置いてある波当津の浜辺から拾って来た鉛色の小石をぎゅっうと握りしめる。いつまでも繰り返す、あの波の音を聞きたくなった。
まだ調子がよくないので、長男家族がわが家に来て、夕食を共にする今夜の予定は延期にした。1歳5か月のかわいい孫やお嫁さんに会いたいけれど、こればかりは仕方がない。
元気にならなければ。
田植えが終わって、稲穂の緑の海がひろがるたんぼに、無数の雨がほそい白線をひきながら落ちていく景色が浮かんだ。きれいさっぱり洗われて、木々のあざやかな緑が歓喜の声をあげている。水かさの増えた川は本来の姿を取り戻して、うねりながら勢いよく流れていく。
森は生き返り、草木は元気になって、お米もよく育って、梅雨がなければ緑ゆたかな日本の暮らしは成り立たない、とおもった。砂漠の民からすれば、おなじ地球に住んでいるのに不公平だと言いたくなるほど、「水と森の国・日本」の風土はうらやましい限りだろう。
大都会のコンクリート社会で忙しく暮らしている人たちは、こんなに幼稚で、ヒマなことなんて考えもしないだろうが。
昨日から、早稲田に入学したころの古い日記を読んでいる。前回のブログに載せた父の仕事の記録本を探していたときに、同じ段ボール箱のなかに、高校3年生のときの分と合わせて2冊が入っていた。
固く閉じられたビニールの袋には、「開けるな。読んではいけない」と黒の鉛筆で書いたメモ用紙が張りつけてあった。
ぼくの字ではない。母の字である。
日記は高校時代からノートのそれも含めて、何冊も書いてきた。だが、記者時代の取材メモもそうで、「過去のことだ」とあっさり捨ててきた。こうして残っているとはおもわなかった。
「開けるな。読んではいけない」。
なつかしい筆跡をじっとみる。母はどんなおもいで、10代で家を出て行ったきりの息子の日記帳を大切に封印してきたのだろうか。
日記は1日1ページではなく、ときには数ページにわたって、おもいのほかきれいな字で書いてある。
大学の北口門から徒歩3、4分の下宿で、独り暮らしをはじめたころ、3畳の狭くるしい部屋に、知り合ったばかりの学友を何人も泊めていた。酔っぱらって担ぎ込まれたやつもいた。国立大学の一発勝負に落ちて就職した友、明治や青山学院に進学した人、成績がよかったのに、よもやの二浪生。それぞれの道を歩く高校の同級生たちの名前もあった。
あんなことがあったっけ。ほとんどぜんぶと言っていいほど忘れていた。
いちばん好きだった若い叔父がまだ20代の若さで、3人の子どもたちを残して、5月に交通事故で急死してしまい、母の郷里の波当津へ飛んで帰って、真っ白な布で包まれた箱の前で大泣きしたことも、悔しさいっぱいに書き留めてあった。
葬式が終わって、悲しみにくれていた祖母は、独りで東京に戻ったぼくの名前をあげて、「〇〇ちゃんは、死んだ△△に声が似ているから、電話して声を聞きたい」と母に話していたという記述もあった。
読み返しながら、手が止まった。
机の上に置いてある波当津の浜辺から拾って来た鉛色の小石をぎゅっうと握りしめる。いつまでも繰り返す、あの波の音を聞きたくなった。
まだ調子がよくないので、長男家族がわが家に来て、夕食を共にする今夜の予定は延期にした。1歳5か月のかわいい孫やお嫁さんに会いたいけれど、こればかりは仕方がない。
元気にならなければ。
最近のコメント