結婚して、45周年の気がしない ― 2025年06月19日 18時13分

きょうはぼくたち夫婦の結婚記念日。起床して開口いちばん、カミさんにそのことを言ったら、「ああ、そう」と気のぬけた言葉が返ってきた。
「45周年だよ」
「そう……」
「なにかおいしいものでも食べようか」
「いいよ。おカネをつかわなくても」
なんだか妙な気分である。この会話、ふつうは逆ではないだろうか。あとで調べてみたら、結婚45周年は「サファイア婚」というそうな。
はぁ? サファイアだって、このオレたちが柄にもなく。
記憶は一気に45年前の結婚式に飛んで行った。
その日のぼくの計画はやってみたら穴ぼこだらけで、あちこちで破綻して、次から次に出てくる失態を隠すために大忙し。冷や汗ものの人生の晴れ舞台だった。
当日、練馬区の1DKのアパートで暮らしていたぼくたちは、前夜から泊まっていた友であり、妻の兄でもあるAちゃんとタクシーに乗って、目白台の式場に向かった。
彼は直腸がんがあちこちに転移していて、群馬県沼田市の入院先から最後の力をふりしぼって来てくれたのだ。仲良しの友がぼくの兄になる日でもあった。
道路は混んでいた。タクシーは遅れに、遅れた。1時間も遅刻してしまった。
当時は携帯電話もない。式場で待っていた人たちは、Aちゃんに何かあったのではと騒ぎになっていたという。
式場はあの丹下健三が設計した東京カテドラル聖マリア大聖堂。文句なしの有名なところである。(写真は同教会のホームページより)。
ところが、独りで来席すると計算していた人が奥さんと一緒に来ていた。それもふた組も。泡を食って、披露宴を取り仕切るYMCAの担当者に不足分の席と食事の対応をお願いした。出だしから、また予定が狂ってしまった。
仲人はエース記者のTさん。この人、くりくり坊主頭の僧侶でもある。教会での僧侶の仲人はちょっと異色だったかもしれない。
ぼくの母は病気のために、代役を頼んでおいた。Aちゃんと知り合いになった、いつもの飲み屋のママである。結婚式の当日に、花婿の両親は急造夫婦の出来上がり。
さすがに東京カテドラル教会はおおきくて立派で、披露宴に出席しない友だちもやって来て、ベンチに並んで祝福してくれた。
式が終わって、ウェディングロードを引き返していたら、いつの間にか観光ツアーでやってきた外国人たちの集団からおおきな拍手。真っ白なウェディングドレスのカミさんはたちまち囲まれた。アルゼンチンの人たちだった。
そのときの写真だけをみせたら、わざわざ海外に行って、そこの教会で結婚式を挙げたお金持ちだとおもわれるだろう。
なにもかもが初心者の手作りの結婚式だから、指揮をとるのはこのぼくで、カミさんにも気づかれないようにして、もう忙しいったら、ありゃしない。
披露宴に移るあいだ、ご祝儀袋を開けていた従妹の姉が「〇〇ちゃん、すごいよ」と声をあげた。1万円札が5枚も入っている袋が3つ、4つか。4つ、5つだったか、あった。
「ああ、いいんだよ。カネがないから、友だちにできれば5万円包んでくれよと頼んでおいたんだ」
なかには祝儀なし、すっからかんで来た友もいた。彼にはその場で迷わずカンパした。
そこに引き出物の準備をしていた後輩がニヤニヤしながら近づいて来た。
「△△さん、引き出物を入れる手提げ袋がないっちゃけど」
アチャー、そうだった!
おおあわてでカネを渡して、向かいの椿山荘に走ってもらった。結婚式帰りの袋だけをみたら、ぼくたちは高級な椿山荘で豪華な披露宴をしたことになっている。
舞台は東京カテドラル教会。別のイメージは海外の教会での結婚式、山形有朋が愛した名園の椿山荘での披露宴。結婚式の外見上の見栄えだけはバツグンだった。
ぜんぶが終わって、GパンとTシャツに着替えて、仲のいい先輩や友だちと目白台から坂道を歩いてくだって、早稲田に繰り出した。当てにしていた焼き鳥屋さんはシャッターが下りていた。
そいつを勝手にガラガラガラ開けて、店のなかに入った。なかにはだれもいない。でも、ここは元パチンコ屋さんで、負けたときには、「たのしんで」とこっそりパチンコ玉をくれたりして、転業してからも、記者になったぼくをかわいがってくれた店である。
大将も、ママも、「なんで私たちに教えてくれなかったのよ」と言いながら、祝ってくれた。小人数だったが、焼き鳥屋さんは予定を変更して急遽、「本日、貸し切り」になった。
「いい結婚式だった」、「あんな結婚式がいいな」、「主役は忙しそうだったな」と言われた。ぼくもやっていて、波乱万丈がおもしろかった。すべてがオリジナルで、結果よしだったと、いまでもそうおもう。
結婚式に来てくれて、こんな裏話を知らないままの友もいる。あれから45年か。
3時のおやつに、すぐ近くのスーパーで買ったちいさなケーキを食べた。冒頭の話はこれにて一件落着。
参考までに、東京カテドラル教会の結婚式はオープンに募集されていて、当時はとても安上がりだった。
短く書きたかったが、ついつい長々になった。だが、この分量を本にしたら、たったの3ページ半しかない。それでもこれからはもっと短いブログにしようかな。
「45周年だよ」
「そう……」
「なにかおいしいものでも食べようか」
「いいよ。おカネをつかわなくても」
なんだか妙な気分である。この会話、ふつうは逆ではないだろうか。あとで調べてみたら、結婚45周年は「サファイア婚」というそうな。
はぁ? サファイアだって、このオレたちが柄にもなく。
記憶は一気に45年前の結婚式に飛んで行った。
その日のぼくの計画はやってみたら穴ぼこだらけで、あちこちで破綻して、次から次に出てくる失態を隠すために大忙し。冷や汗ものの人生の晴れ舞台だった。
当日、練馬区の1DKのアパートで暮らしていたぼくたちは、前夜から泊まっていた友であり、妻の兄でもあるAちゃんとタクシーに乗って、目白台の式場に向かった。
彼は直腸がんがあちこちに転移していて、群馬県沼田市の入院先から最後の力をふりしぼって来てくれたのだ。仲良しの友がぼくの兄になる日でもあった。
道路は混んでいた。タクシーは遅れに、遅れた。1時間も遅刻してしまった。
当時は携帯電話もない。式場で待っていた人たちは、Aちゃんに何かあったのではと騒ぎになっていたという。
式場はあの丹下健三が設計した東京カテドラル聖マリア大聖堂。文句なしの有名なところである。(写真は同教会のホームページより)。
ところが、独りで来席すると計算していた人が奥さんと一緒に来ていた。それもふた組も。泡を食って、披露宴を取り仕切るYMCAの担当者に不足分の席と食事の対応をお願いした。出だしから、また予定が狂ってしまった。
仲人はエース記者のTさん。この人、くりくり坊主頭の僧侶でもある。教会での僧侶の仲人はちょっと異色だったかもしれない。
ぼくの母は病気のために、代役を頼んでおいた。Aちゃんと知り合いになった、いつもの飲み屋のママである。結婚式の当日に、花婿の両親は急造夫婦の出来上がり。
さすがに東京カテドラル教会はおおきくて立派で、披露宴に出席しない友だちもやって来て、ベンチに並んで祝福してくれた。
式が終わって、ウェディングロードを引き返していたら、いつの間にか観光ツアーでやってきた外国人たちの集団からおおきな拍手。真っ白なウェディングドレスのカミさんはたちまち囲まれた。アルゼンチンの人たちだった。
そのときの写真だけをみせたら、わざわざ海外に行って、そこの教会で結婚式を挙げたお金持ちだとおもわれるだろう。
なにもかもが初心者の手作りの結婚式だから、指揮をとるのはこのぼくで、カミさんにも気づかれないようにして、もう忙しいったら、ありゃしない。
披露宴に移るあいだ、ご祝儀袋を開けていた従妹の姉が「〇〇ちゃん、すごいよ」と声をあげた。1万円札が5枚も入っている袋が3つ、4つか。4つ、5つだったか、あった。
「ああ、いいんだよ。カネがないから、友だちにできれば5万円包んでくれよと頼んでおいたんだ」
なかには祝儀なし、すっからかんで来た友もいた。彼にはその場で迷わずカンパした。
そこに引き出物の準備をしていた後輩がニヤニヤしながら近づいて来た。
「△△さん、引き出物を入れる手提げ袋がないっちゃけど」
アチャー、そうだった!
おおあわてでカネを渡して、向かいの椿山荘に走ってもらった。結婚式帰りの袋だけをみたら、ぼくたちは高級な椿山荘で豪華な披露宴をしたことになっている。
舞台は東京カテドラル教会。別のイメージは海外の教会での結婚式、山形有朋が愛した名園の椿山荘での披露宴。結婚式の外見上の見栄えだけはバツグンだった。
ぜんぶが終わって、GパンとTシャツに着替えて、仲のいい先輩や友だちと目白台から坂道を歩いてくだって、早稲田に繰り出した。当てにしていた焼き鳥屋さんはシャッターが下りていた。
そいつを勝手にガラガラガラ開けて、店のなかに入った。なかにはだれもいない。でも、ここは元パチンコ屋さんで、負けたときには、「たのしんで」とこっそりパチンコ玉をくれたりして、転業してからも、記者になったぼくをかわいがってくれた店である。
大将も、ママも、「なんで私たちに教えてくれなかったのよ」と言いながら、祝ってくれた。小人数だったが、焼き鳥屋さんは予定を変更して急遽、「本日、貸し切り」になった。
「いい結婚式だった」、「あんな結婚式がいいな」、「主役は忙しそうだったな」と言われた。ぼくもやっていて、波乱万丈がおもしろかった。すべてがオリジナルで、結果よしだったと、いまでもそうおもう。
結婚式に来てくれて、こんな裏話を知らないままの友もいる。あれから45年か。
3時のおやつに、すぐ近くのスーパーで買ったちいさなケーキを食べた。冒頭の話はこれにて一件落着。
参考までに、東京カテドラル教会の結婚式はオープンに募集されていて、当時はとても安上がりだった。
短く書きたかったが、ついつい長々になった。だが、この分量を本にしたら、たったの3ページ半しかない。それでもこれからはもっと短いブログにしようかな。
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