レンゲ畑は語りかける2021年04月09日 15時13分

 運動不足解消を兼ねて、リュックを背負い、歩いて買い物に出かけた。住宅が立ち並んでいる途中のすき間に、そこだけピンク色に染まったレンゲ畑がある。
 鹿児島の田舎町、そして小倉の郊外に住んでいたころは、春になるとまわりの田んぼはレンゲの花で埋めつくされた。そこは赤やピンクの海原のようだった。
 モンシロチョウがくっついたり、はなれたりしながら、ひらひら飛んでいるなかを走って、レンゲの花畑に寝ころんで、青い空を見上げると、雲雀(ひばり)のにぎやかなさえずりが落ちてきた。耳元ではミツバチのブーンいう羽音が聞こえる。忙しそうに蜜を吸い、両脚には黄色い花粉の小さな玉をつけている。女の子たちはレンゲの花を摘んで、首飾りをいくつもつくっていた。
 そんな日本の春の光景は、ほとんどなくなってしまった。あんなに広いレンゲ畑はどこにもない。雲雀の鳴き声も聞こえない。かわいいニホンミツバチもいなくなった。
 あって当たり前だった自然との営みを、ぼくたちの世代は猛烈な速さで根絶やしにしようとしている。たった五、六十年前にはふつうだったように子どもたちを遊ばせたくても、都会ではどうすることもできない。
 この一反ほどの畑を所有している農家の人は、ぼくの知り合いでも何でもないが、見たところは80歳ぐらいだろうか。毎年、畑が終わったら田んぼにして、五月には若葉色の稲穂をとりまく畔(あぜ)に、赤紫や青紫、純白の花しょうぶをいっぱい咲かせてくれる。
 近くにいる友人の話では、かつては田植えの後に、アイガモをはなしていたという。レンゲは空気中の窒素を取り込んで養分にする。アイガモを利用するのは自然農法のひとつ。福岡市内の住宅やアパートが立て込んだところにも、まだ、こんな立派なお百姓さんがいる。
 レンゲの花を撮影しながら、ぼくはNHKで放送された半藤一利さんの追悼番組をおもいだして、もういちど録画を見た。そのなかで半藤さんは、司馬遼太郎さんが亡くなる一年前に、ホテルのバーで語り合った内容にふれている。
 司馬さんはこんなことを言っていたという。
 -わたしたちは、平等で差別のない、みんなが同じ大地に立って生きるという戦後の民主主義がいちばん正しいと信じて、ていねいに国家をつくろうとしてきた。でも、その努力はあまり強くなかったのかな。土地問題だってそうだ。先祖代々、大切にしてきた土地を、みんなでカネ儲けの対象にしてしまった。こんな馬鹿なことがあるか。
 でも、最後の努力で、やろうじゃないか。まだ国民の70%が同意できるようなことがあるんじゃないか。それは、これ以上、自然を壊さないことだ。孫やひ孫たちに美しい川を残して、ハゲ山ばかりなんてことじゃなくて、魚釣りができる川を、トンボとりができる野原をそのまま残すような形で、自然をこわさないようにする。これなら国民の70%は同意するとおもう。できないことはない、まだ間に合うとおもう。-
 半藤さんは「明治の日本も、戦後の日本も、解決しておかなければいけないことを、みんな後まわしにしてしまった」と発言していた。
 司馬さんは4半世紀も前の1996年に、半藤さんはことし1月に亡くなった。日本人がつくってきた歴史を鋭く考察して、いまやらなければいけない本質の課題を指し示してくれる賢人も相次いでいなくなった。
 だが、わが街の片隅には自然と共存する大切さをわかっている人もいる。畑をまもり、タネを撒き続ける人がいるから、こうして毎年、レンゲの花はきれいに咲くのである。

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