室見川にアユが戻ってきた ― 2021年05月11日 14時41分

コロナウィルス感染者が過去最多。明日12日からはまた緊急事態措置。
いい加減、うんざりする。政府の対応にもストレスがたまる。政治家が話す言葉の信用はとっくに地に堕ちた。個人攻撃はしたくないが、このところの日本の政治のトップリーダーは教養を積んでいる人ではない。そんな彼らに従わざるをえない、高い志を持った優秀な官僚たちはバカバカしくてやっていられないだろう。
あの言語学者の金田一秀穂さんは、ある雑誌でこう憤慨している。
-この政権(安倍政権)について、なによりも、言葉の扱いの粗雑さが我慢ならない。国語の勉強を全然していない。漢字を読めないし、語の意味も間違って覚えている。決定的に困るのは、それを恥と思っている様子がほとんどないことなのだ。勉強のできない学生の典型的な態度で、無知であること、蒙昧(もうまい)であることが何より恥ずべきことであると、全然思っていないかのようである。
ふつう、大学を出て、それになりの地位を占める人になるのであれば、自分が身につけてきた基礎教養を振り返り、間違えないようにしよう、正しく言葉を使っていこうと決意するだろうとおもうのだが、二人のAさんは、一向にそのように見えない。今までにない政治が出現している。何も信じられない。聞いているだけで気持ちが悪くなる-
ふたりのAさん(大臣)がだれなのか、言われなくてもわかる。そして、いまの政権もまったく同じ延長線上にあるとおもっているのは、ぼくだけではないだろう。
ここまで書いて、切りがないから止める。以下は、散歩から帰って、気分を入れ替えて書き足した。
こういうときは外に出るに限る。若葉の真っ盛りで、木々の葉っぱは艶やかに輝き、五月の薫風のなかで精気を放っている。足は自然と室見川へ向かった。
もう稚アユがのぼっているはず。川辺の遊歩道からそっと見下ろすと、狭い浅瀬のあちこちで、サーッ小さなさざ波が広がった。
いる、いる。体長5、6センチほどの小魚の群れ。アユの子たちが海から戻ってきた。
むろん、養殖モノでも、放流モノでもない。天然のアユである。これから上流へと遡っていき、川底の石についたコケを食(は)んで大きくなる。やがて銀色の光をギラリと反射しながら、水中を矢のように走る立派なアユになる。
梅雨が明けるとアユの群れを狙って、投網を打つ人も出て来る。ぼくはこの川で、釣り糸に釣り針を鈴なりに結んで、アユを引っ掛けたことがある。そろそろ毛バリを流して、ハヤ釣りも楽しめる。でも、そういう川遊びをする大人はすっかりいなくなった。だから、子どもたちもそういう漁(りょう)の技を学びようがない。
海もそうだが、川でもおもしろいのは水の中だ。そこは陸上とは別の世界がある。
カミさんの新潟の郷里はアユ釣りのメッカの魚野川とその支流が何本も流れていて、どの川にもアユやヤマメがいる。
ある夏、ぼくは水量の多い魚野川にまだ小学生だった息子二人を連れて行って、アユの手づかみをやってみせたことがある。
やり方は簡単だ。腰の下ほどの深さの川の中に立って、両手で軽く持ち上げられるぐらいの石を探す。それを高く掲げて、力いっぱい水の中に叩き込む。これを連続して何回もやる。そして、間髪を容(い)れずに水中メガネをつけて、川の中を見るのだ。
すると、石がぶつかった衝撃波に驚いたアユが川底の石と石のすき間にピタッと張りついたまま動かないでいることがある。そいつをそっと手で押し包むようにすればいい。道具も要らない。まったくの素手ひとつで、泳ぎまわっていたアユはわがものになるという寸法である。
川の流れを横目に歩きながら、憂うつなコロナのことも、頭にくる政治家のことも消し飛んで、ぼくはそんなことを考えていた。
やっぱり、自然はいい。ああ、室見川が近くにあってよかった。
いい加減、うんざりする。政府の対応にもストレスがたまる。政治家が話す言葉の信用はとっくに地に堕ちた。個人攻撃はしたくないが、このところの日本の政治のトップリーダーは教養を積んでいる人ではない。そんな彼らに従わざるをえない、高い志を持った優秀な官僚たちはバカバカしくてやっていられないだろう。
あの言語学者の金田一秀穂さんは、ある雑誌でこう憤慨している。
-この政権(安倍政権)について、なによりも、言葉の扱いの粗雑さが我慢ならない。国語の勉強を全然していない。漢字を読めないし、語の意味も間違って覚えている。決定的に困るのは、それを恥と思っている様子がほとんどないことなのだ。勉強のできない学生の典型的な態度で、無知であること、蒙昧(もうまい)であることが何より恥ずべきことであると、全然思っていないかのようである。
ふつう、大学を出て、それになりの地位を占める人になるのであれば、自分が身につけてきた基礎教養を振り返り、間違えないようにしよう、正しく言葉を使っていこうと決意するだろうとおもうのだが、二人のAさんは、一向にそのように見えない。今までにない政治が出現している。何も信じられない。聞いているだけで気持ちが悪くなる-
ふたりのAさん(大臣)がだれなのか、言われなくてもわかる。そして、いまの政権もまったく同じ延長線上にあるとおもっているのは、ぼくだけではないだろう。
ここまで書いて、切りがないから止める。以下は、散歩から帰って、気分を入れ替えて書き足した。
こういうときは外に出るに限る。若葉の真っ盛りで、木々の葉っぱは艶やかに輝き、五月の薫風のなかで精気を放っている。足は自然と室見川へ向かった。
もう稚アユがのぼっているはず。川辺の遊歩道からそっと見下ろすと、狭い浅瀬のあちこちで、サーッ小さなさざ波が広がった。
いる、いる。体長5、6センチほどの小魚の群れ。アユの子たちが海から戻ってきた。
むろん、養殖モノでも、放流モノでもない。天然のアユである。これから上流へと遡っていき、川底の石についたコケを食(は)んで大きくなる。やがて銀色の光をギラリと反射しながら、水中を矢のように走る立派なアユになる。
梅雨が明けるとアユの群れを狙って、投網を打つ人も出て来る。ぼくはこの川で、釣り糸に釣り針を鈴なりに結んで、アユを引っ掛けたことがある。そろそろ毛バリを流して、ハヤ釣りも楽しめる。でも、そういう川遊びをする大人はすっかりいなくなった。だから、子どもたちもそういう漁(りょう)の技を学びようがない。
海もそうだが、川でもおもしろいのは水の中だ。そこは陸上とは別の世界がある。
カミさんの新潟の郷里はアユ釣りのメッカの魚野川とその支流が何本も流れていて、どの川にもアユやヤマメがいる。
ある夏、ぼくは水量の多い魚野川にまだ小学生だった息子二人を連れて行って、アユの手づかみをやってみせたことがある。
やり方は簡単だ。腰の下ほどの深さの川の中に立って、両手で軽く持ち上げられるぐらいの石を探す。それを高く掲げて、力いっぱい水の中に叩き込む。これを連続して何回もやる。そして、間髪を容(い)れずに水中メガネをつけて、川の中を見るのだ。
すると、石がぶつかった衝撃波に驚いたアユが川底の石と石のすき間にピタッと張りついたまま動かないでいることがある。そいつをそっと手で押し包むようにすればいい。道具も要らない。まったくの素手ひとつで、泳ぎまわっていたアユはわがものになるという寸法である。
川の流れを横目に歩きながら、憂うつなコロナのことも、頭にくる政治家のことも消し飛んで、ぼくはそんなことを考えていた。
やっぱり、自然はいい。ああ、室見川が近くにあってよかった。
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