波当津の海に会う2021年05月06日 10時37分

 波当津の海に会ってきた。
 大分県の海岸線を南にたどっていくと宮崎県にはいる。その手前にある小村が波当津だ。現在の世帯数は70戸足らず、人口は140人ほど。小学校はとっくの昔に廃校になった。店は一軒もない。絵に描いたような過疎地だが、ここは亡き母の郷里である。
 8年前の2013年2月、こんな陸の孤島に東九州自動車道の蒲江波当津ICが開設された。しかも、佐伯ICから延岡南ICの区間の通行料金は年中無料。日中でも車の通行量は少なく、ハンドルを握っていると、まるで高速道路を貸しきっているような気分になる。
 なぜ、こんなところにインターチェンジができたのか、詳しい事情は知らないが、思いがけない用地提供で大金が入った人たちにとっては夢のような出来事だった。ただ高速道路の出入り口はできたものの、過疎化の歯止めにはなっていない。
 このあたりは大小の岬が陸続と豊後水道に突き出している。ほかにも山塊が海の方へ出っ張ったところや沖に浮かぶ小島や岩礁は数え切れないほどあって、ここは日本有数のリアス式海岸が望めるところである。
 岬と岬の間の深く切り込んだ湾に点在する村を浦(うら)と呼ぶ。波当津もかつては波当津浦が正式な地名だった。浦には、人が密集しているところもあれば、無人の浜もある。
 蒲江町出身の作家・小野正嗣さんの著書「にぎやかな湾に背負われた船」を手にしたとき、さすがにうまいタイトルをつけるものだと感心した。
 中学、高校、一浪時代、東京の大学に進んでからも、ぼくは夏休みになるとひとりで波当津に行った。祖父の家に2、3週間も泊まり込んで、毎日のように若い叔父や従兄たちと一緒に沖の瀬で遊ぶのだ。
 波のかたまりが瀬に近づくとみるみる巨大な水の凸レンズになって、水面下にある岩や海藻がグワーッと拡大されて盛り上がる。波が通りすぎるとそれらは見る間に沈んでいく。
 キラキラと青く光る熱帯魚の群れや大きなサザエ、いろんな巻貝がいて、みんなでぼくの遊びの相手をしてくれた。そこは生きている海だった。叔父は手製の銛(もり)を手に、船から飛び込むとそのまま深く潜って、上がってくるときには大きなイガメ(ブダイのこと)を突いていた。
 いまとは違って、村も元気だった。どの家も年寄りと子どもたちがひとつ屋根の下で暮らしていて、道を歩いていると「また遊びに来たんかよー」と、あちこちから声がかかってくる。明るく陽気な村だった。
 写真は、古い堤防に立って、宮崎方面の外海を写したもの。左へのびている岬をまわったところが県境の宇土崎だ。その突端には波や風で削りとられた大きな穴が開いている。そこをくぐり抜けると宮崎県で、小さな公園のような入り江がある。
 地元では「猫が浜」と呼んでいる。名前の由来は、たしかネコの額ほどしかない浜、という意味だったとおもう。すぐ後ろは見上げるような絶壁で、とても歩いて来れるところではない。
 透明度の高い波当津の海でも、砂地のない「猫が浜」の水はとりわけ澄み切っていて、水中メガネをつけて潜ると、海の中とはおもえないほど遠い先まで見えた。
 ぼくが伝馬船の櫓を押して、結婚して間もないカミさんをここまで連れてきたことがある。テーブルサンゴ、色とりどりの魚たち、いろんな貝類は、雪国育ちの彼女にとって珍しいものばかり。カミさんは長い棒を使って、ムラサキウニを獲るのに夢中になっていた。
 波当津の海は、ぼくのとっておきの楽園だった。そう、浪人生のころまでは。
 東京に出て、大学がはじまってすぐのちょうどこの時期、大好きだった若い叔父が事故で命を落とした。29歳だった。翌年には兄弟のようだった23歳の従兄も事故死した。叔父は3人の幼い子どもたちを残し、従兄はかわいい婚約者を置き去りにした。
 こうして波当津のたのしい思い出はあっけなく最盛期を過ぎてしまった。
 従兄の葬式が終わった秋口の夜、ひとりで浜まで歩いて行った。台風が近づいている海は大しけで、真っ暗な闇から波の砕ける音が風と共に吹きつけてきた。まるで「波」が「当」たる「津」の素顔をむきだしにしているようだった。
 ぼくは素っ裸になって、ワーッと叫びながら、冷たい波の中に頭から飛び込んだ。黒くて塩辛い水の壁が何度も、何度もぶち当たってきた。あのときどうして、あんな激情が腹の底から込み上げてきたのか、自分でもわからなかった。
 先日、何年ぶりかで会った海は、当時のようにきれいだった。だが、この村で暮らしている弟分の従兄によると、海は変わってしまったという。
 ぼくたちの言う海とは、海の中のことである。岩場から海藻の類がすっかり消えてしまったというのだ。海藻がなければ貝も魚も棲めない。全国的な問題になっている「磯焼け」は、こんな田舎まで広がっていた。波当津の海は、何もいない海になってしまった。
 知り合いの宗像大社のA宮司によると、世界遺産の沖ノ島周辺の海底にはそれまでなかったサンゴ礁が群生しているという。いつの間にか、日本海の孤島の環境は南の海の島になっていた。もっと水温の高い波当津の海が無事でいられるわけがなかったのだ。
 ぼくに何ができるだろうか。思い出すのは、作家の北村薫さんが「作家の履歴書」の中で書いていた次の文章である。
 -昭和初期の学生たちをとりまく人間模様、私がそのうちに入って物語を紡がなければ消えてしまう世界を読めるかたちにして出していくのが、作家としての自分の責任、書かなければいけないものだと感じています-
 「消えてしまうことを書く」。これなら、ぼくにもできるかもしれない。
 波当津の浜から土産を持って帰った。浜辺に転がっていた小石を三つ。いま机に上に置いてある。ぼくの耳には、打ち寄せる波でまるく削られた石ころから、あのなつかしい潮騒が聞こえてくる。

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