わが家の『人情馬鹿物語』2021年08月20日 14時54分

 ゆっくり歩いて10分ほどのブックオフに行く。数日来、降り続いた雨があがって、室見川を見るのは久しぶりである。茶色に濁った水の流れはあちこちで底石にぶつかって、いくつもの波の小山をつくりながら勢いよく流れていた。
 店内に入って、ネットで注文した文庫本を受け取る。ほとんど新品の川口松太郎作・『人情馬鹿物語』。この本は、東京の下町に昔かたぎの人々が暮らしていたころを懐かしむ作家たちがときどき取り上げていて、いわゆる人情本のテキスト的な存在らしい。
 こういう本を読んでみたいな、と思ったのは、いまの世の中、ちょいとおもいやりが無さすぎじゃないかと感じているからである。日々、ニュースで取り上げられる事例を数えるだけでも、思いやりのない事件や社会問題はたちまち10本の指では足りなくなる。同じく下町生まれの池波正太郎氏の言い草ではないが、誠に生きづらい世の中になったものだとおもう。
 さて、『人情馬鹿物語』に話を戻す。例えば、半村良氏はこの作品について、彼の直木賞受賞作・『雨やどり』のあとがきで、こう書いている。
「川口松太郎さんの『人情馬鹿物語』に狂ってしまったのは、『火事息子』(注: 久保田万太郎作)の直後ではなかったろうか。…(略)…そういう私が、今になってこの本を出してもらえるようになった。…(略)…シリーズのタイトルが『新宿馬鹿物語』であるのも、私にしてみればごく当然のことなのである。…(略)…『火事息子』や『人情馬鹿物語』に惚れぬいた身が、それを下敷きにして自分なりの小説を書き上げてしまったのだ」
 あの久世光彦氏もそうだ。この人は『廣(※正字は日偏がつく)吉の恋 昭和人情馬鹿物語』を書いた。それについて某新聞に寄稿した彼自身のエッセイがある。
「(この小説は)大正のころの下町の人情を描いた、川口松太郎さんの『人情馬鹿物語』にあやかった、昭和初期の人情噺(ばなし)である…(略)…いまや死後に近い(川口氏の作品にある)物言いをノートに写し取る。飽きると久保田万太郎さんで同じことをした」
 こんな文章に出会うと、本家本元の『人情馬鹿物語』を読んでみたくなるではないか。
 まだ続きがある。あの宮部みゆき氏は、ある対談でこう言っている。
「そもそも私は、『どぶどろ』という作品がものすごく、もうたまらなく好きで、いつか『どぶどろ』みたいなものを書きたいなと思って始めたのが『ぼんくら』シリーズなんです」
 ぼくはまだ『どぶどろ』を手にしたことはないが、その作者が半村良氏ときけば、ははーん、あれとつながっているな、というぐらいの見当はつく。
 ところで――。
 ひと月ほど前のこと、花好きのカミさんが面倒をみているベランダの鉢に、タネを撒いた覚えのない新芽が出てきた。その艶やかな葉っぱを見て、カミさんは、捨てたらかわいそう。きれいな花が咲くかもしれない、とかわいがってきた。猛暑のなかでも枯らさないように水と栄養をやって、どんどん大きくなった。そして、すらりと伸びた茎の先に、ゴマ粒ぐらいの花らしいものをつけた。
 ずっと期待していたものとは違う。よくよく見ると、そこらあたりに生えている雑草だった。
 これが最近のわが家での『人情馬鹿物語』である。

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