生涯一捕手、背番号「19」の重さ ― 2021年10月02日 11時27分

昨日、新型コロナウィルスの緊急事態宣言が全面解除になった。待ってましたとばかりに浮き立つ人も大勢いるようだが、それらの様子を遠目に見ている人もたくさんいるだろう。
生活に余裕のある人、そうでない人との違いは、陽が強く当たるほど光と陰の明暗がくっきりと現れるものだ。
わが家は贅沢とは無縁の口である。カミさんと息子は勤めに出て行くが、ぼくはじっと巣ごもり生活を続けている。平日は朝から夕刻まで、いつも独りだ。
こうしているうちに、ふと小学6年生のときに腎臓病と診断されて、ひと月あまりも小倉の国立病院に入院していたころをおもいだした。病気の知識もなく、何もわからないまま、ひとりぽつんとベッドの上にいるしかなかった。
当時の小児科の病棟は古い木造建てで、歩くと床板がギシッ、ギシッ、と音を立てた。部屋の電灯も暗かった。食事はいっさい塩分抜き。茹でただけのモヤシや酸っぱいレンコンの薄切りを毎日のように食べていた。激しい運動も禁止。まるで社会から隔離されたような日々が続いた。
気持ちの救いになったのは、何かの雑誌に載っていたプロ野球・南海ホークスの野村克也の打撃写真をスケッチブックに描くことだった。
目をこらして背番号19の写真を見ては、黒い鉛筆で顔やからだの線を描き、バットを構えたポーズも、ユニフォームの小さな皺も、ボールを待ち構える目も、写真と同じになるように念じながら、何度も、何度も書き直した。自分でもホンモノそっくりだと納得できる絵を描き上げたとき、野村克也はぼくの側にいてくれるヒーローになっていた。
17年後、その野村に会うことなる。取材したのは、彼が南海の監督の座を追われ、ロッテオリオンズを経て、西武ライオンズにキャッチャーとして移籍したとき。すでに40歳を過ぎていて、さしもの強肩も、ホームラン王をとった打力も、往年の勢いはなかった。
そのとき野村が色紙に好んで書いていた言葉は「生涯一捕手」。
彼は打者として最高の名誉である戦後初の三冠王を獲得し、監督としても優勝したプロ球界屈指の名選手である。それなのに「自分は生涯、一兵卒の捕手です」と言う。
その言葉の裏には、テスト生上がりの野村が必死になって築いてきた抜群の実績は早々と昔話扱いにされてしまい、現実を受け入れざるを得なかった、やり場のない強烈な自負と悔しさが滲んでいたとおもう。
取材で会った彼の顔には、俺がいちばん野球を知っている、そう書いてあった。ちなみに「生涯一捕手」は作家の草柳大蔵から「生涯一書生」という禅の言葉を教えられて、野村が自分に当てはめたものである。
ぼくは若気の至りで、記者時代の取材メモはぜんぶ捨ててしまった。だから正確な記憶はないのだが、西武球場のグラウンドで、野村に次の質問をしたことは覚えている。
それは「捕手・野村が選ぶ投手のベストテンはだれか」という問いだった。彼はニヤリと笑うと、考え込むこともなく1位から10位までの投手の名前をスラスラと答えたのだ。
1位は金田正一、2位は稲尾和久、3位、杉浦忠。この順番は間違いない。後の名前と順位はあやふやだが、米田哲也、小山正明、鈴木啓示、江夏豊、山田久志も入っていた。この10人以外にも、主力投手の名前と特徴は捕手・野村の頭のなかで細かく採点されて、いいピッチャーの条件として、いつでも引き出せるように整理されていたのである。
野村が選んだ好投手の基準は、どんなに球が速くても、勝てない投手は圏外で、ピッチングのうまさを重視していた。それはボールの威力やそれを自在にあやつる技術だったり、打者との駆け引きや、エースとしての試合の組み立て方といったものである。
後に彼が監督に復帰したときの「シンキングベースボール」や「ID野球」の下敷きは、打者・野村ではなく、「生涯一捕手」のなかにびっしり詰まっていたのだ。
いま背番号「19」を背負っているのは、地元ソフトバンクホークスの正捕手・甲斐拓也。彼にふりかかっている重圧はいかばかりだろうか。
もしかしたら、あのころのぼくのように、この空の下のどこかで、甲斐のフォームを描き写している少年がいるかもしれない。そして、その少年が成長して、甲斐を取材する日がくるかもしれない。閉じこもり生活を続けていると、ついつい突拍子もないことを空想してしまう。
振り返って、わが身をおもう。自分ははたして「生涯○○」と言い切れるだけの信念を持って生きてきただろうか、と。
■えっ、今ごろ花見? 自宅の近くにヘンな桜の木が植えてある。季節を問わずに花が咲くのだ。このところの気温は30度ほどで、まだまだ残暑が厳しく、この桜は狂い咲きの度を過ぎている。それでも桜の花を見つけると近づきたくなってしまう。
生活に余裕のある人、そうでない人との違いは、陽が強く当たるほど光と陰の明暗がくっきりと現れるものだ。
わが家は贅沢とは無縁の口である。カミさんと息子は勤めに出て行くが、ぼくはじっと巣ごもり生活を続けている。平日は朝から夕刻まで、いつも独りだ。
こうしているうちに、ふと小学6年生のときに腎臓病と診断されて、ひと月あまりも小倉の国立病院に入院していたころをおもいだした。病気の知識もなく、何もわからないまま、ひとりぽつんとベッドの上にいるしかなかった。
当時の小児科の病棟は古い木造建てで、歩くと床板がギシッ、ギシッ、と音を立てた。部屋の電灯も暗かった。食事はいっさい塩分抜き。茹でただけのモヤシや酸っぱいレンコンの薄切りを毎日のように食べていた。激しい運動も禁止。まるで社会から隔離されたような日々が続いた。
気持ちの救いになったのは、何かの雑誌に載っていたプロ野球・南海ホークスの野村克也の打撃写真をスケッチブックに描くことだった。
目をこらして背番号19の写真を見ては、黒い鉛筆で顔やからだの線を描き、バットを構えたポーズも、ユニフォームの小さな皺も、ボールを待ち構える目も、写真と同じになるように念じながら、何度も、何度も書き直した。自分でもホンモノそっくりだと納得できる絵を描き上げたとき、野村克也はぼくの側にいてくれるヒーローになっていた。
17年後、その野村に会うことなる。取材したのは、彼が南海の監督の座を追われ、ロッテオリオンズを経て、西武ライオンズにキャッチャーとして移籍したとき。すでに40歳を過ぎていて、さしもの強肩も、ホームラン王をとった打力も、往年の勢いはなかった。
そのとき野村が色紙に好んで書いていた言葉は「生涯一捕手」。
彼は打者として最高の名誉である戦後初の三冠王を獲得し、監督としても優勝したプロ球界屈指の名選手である。それなのに「自分は生涯、一兵卒の捕手です」と言う。
その言葉の裏には、テスト生上がりの野村が必死になって築いてきた抜群の実績は早々と昔話扱いにされてしまい、現実を受け入れざるを得なかった、やり場のない強烈な自負と悔しさが滲んでいたとおもう。
取材で会った彼の顔には、俺がいちばん野球を知っている、そう書いてあった。ちなみに「生涯一捕手」は作家の草柳大蔵から「生涯一書生」という禅の言葉を教えられて、野村が自分に当てはめたものである。
ぼくは若気の至りで、記者時代の取材メモはぜんぶ捨ててしまった。だから正確な記憶はないのだが、西武球場のグラウンドで、野村に次の質問をしたことは覚えている。
それは「捕手・野村が選ぶ投手のベストテンはだれか」という問いだった。彼はニヤリと笑うと、考え込むこともなく1位から10位までの投手の名前をスラスラと答えたのだ。
1位は金田正一、2位は稲尾和久、3位、杉浦忠。この順番は間違いない。後の名前と順位はあやふやだが、米田哲也、小山正明、鈴木啓示、江夏豊、山田久志も入っていた。この10人以外にも、主力投手の名前と特徴は捕手・野村の頭のなかで細かく採点されて、いいピッチャーの条件として、いつでも引き出せるように整理されていたのである。
野村が選んだ好投手の基準は、どんなに球が速くても、勝てない投手は圏外で、ピッチングのうまさを重視していた。それはボールの威力やそれを自在にあやつる技術だったり、打者との駆け引きや、エースとしての試合の組み立て方といったものである。
後に彼が監督に復帰したときの「シンキングベースボール」や「ID野球」の下敷きは、打者・野村ではなく、「生涯一捕手」のなかにびっしり詰まっていたのだ。
いま背番号「19」を背負っているのは、地元ソフトバンクホークスの正捕手・甲斐拓也。彼にふりかかっている重圧はいかばかりだろうか。
もしかしたら、あのころのぼくのように、この空の下のどこかで、甲斐のフォームを描き写している少年がいるかもしれない。そして、その少年が成長して、甲斐を取材する日がくるかもしれない。閉じこもり生活を続けていると、ついつい突拍子もないことを空想してしまう。
振り返って、わが身をおもう。自分ははたして「生涯○○」と言い切れるだけの信念を持って生きてきただろうか、と。
■えっ、今ごろ花見? 自宅の近くにヘンな桜の木が植えてある。季節を問わずに花が咲くのだ。このところの気温は30度ほどで、まだまだ残暑が厳しく、この桜は狂い咲きの度を過ぎている。それでも桜の花を見つけると近づきたくなってしまう。
コメント
_ 大高典文 ― 2022年01月13日 12時01分
素晴らしい体験をしているのですね。工藤さんの奥深さが垣間見えます。
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