消えた卒業証書2021年11月07日 12時14分

 先日、いい加減に扇風機を片づけようと居間の天袋を開けた。狭い空間にはほこりをかぶった大小の箱がゴチャゴチャ重なっている。「ええい、この際だ」とにわかにやる気が出て、ぜんぶを引っ張りだして、床の上に並べた。
 クリスマスツリー、プラスチック製のバット、大きなビデオカメラ、未使用の重箱、カミさんの付け下げや帯、ぼくの久留米絣の着物、アルバム、手紙、母が保存していた小学生時代のノートなど、まるでタイムカプセルを開けたようである。
 「わぁー、かわいいね、わたし」と10代のころの自分の写真を見つけたカミさん。
 「いまもかわいいよ」とご機嫌とりを欠かさないぼく。
 エンジ色の卒業証書ファイルも出てきた。ちゃんと大学名も印刷されている。
 「いゃー、なつかしいなぁ」
 「よかったね。卒業証書だもんね」
 白いホコリを払って、ファイルを左右に開いた。ところが、中身はからっぽだった。肝心の卒業証書が入っていない。はて、どこへ仕舞ったのか。まるっきり記憶がない。
 ぼくは高校の卒業式も、大学の入学式も、卒業式にも出ていない。たった一枚の卒業証書だけが、卒業しましたという証拠品だった。
 大学の卒業証書には、大きな声では言えない思い出がある。
 4年生の終わりになっても、頭のなかに留年がちらついていたぼくは就職活動をしないまま、学生街の喫茶店『ヤコブ』の雇われマスターをしていた。ちょうどかぐや姫の『神田川』が流行っていたころで、その歌詞と似たような日々を送っていた。同棲という言葉がおおっぴらになっていたころである。
 いよいよ手持ちの金がなくなって、思いついたのが学生課に学生証を返還して、卒業証書をもらう際に、何かの補償金として大学に預けていた5,000円だったか、10,000円だったかが返金される、という話だった。
 卒業式は数日前に終わっていた。そこで、母校とは無縁の彼女に代役を頼んで、学生課に行ってもらい、晴れて卒業証書を手にしたのだ。
 この卒業証書にたどりつくには、もうひとつのヤマ場があった。留年しようとおもっていたぼくは卒業単位が不足していて、追加試験を受けたのである。
 ぼくらは学生紛争と内ゲバで、ろくに授業や学期末試験を受けられなかった世代である。追試はやっぱり来たかという感じだった。
 追試の前夜、なぜか気分が高揚して、店を締めた後、なじみの池袋駅前の小さな居酒屋に入った。カウンターのなかで、白い割烹着に身を包んだママさんは、「そう、追試なの。そんなのへっちゃらでしょ。でも、あんまり酔っぱっちゃだめよ」と言いながら、いつになく、ガボガボと酒を注いでくれた。周りの常連客も笑っていた。
 コップで冷酒を飲みながら、試験科目はひとつだけだ。それなら朝起きて、午後からはじまる試験までに、テキストを何度も読めば間に合う。そして、念のために、先輩からまとこしやかに伝え聞いていた「奥の手」も使ってやろうと考えていた。
 「奥の手」とは、問題が解けないときは、テストの紙の裏側に、なんでもいいから学生時代の思い出を書け、そうすればテストは落第でも、教授は最低の合格点をくれる、という「教え」だった。そうやって危機を脱出した先輩が何人もいたという。
 追試の当日、記述式の試験は想定していた山が当たって、いい感触だった。それよりも「奥の手」の方に関心があった。書いておきたいことはいっぱいあった。ぼくにとって「奥の手」の作文は、追試以上に大学生活とサヨナラする、けじめの文章だったのだ。
 B4サイズの答案用紙を裏返して、「早稲田よ、さらば」と大きくタイトルを書いた。そして、小さな文字でペーパーの余白を残さず、4年間に肌身で感じて、学んだこと、胸に込めていた思いのたけを一気に吐き出した。
 追試の結果発表の日。学生課に行って、名簿の順番に並んで、点数と合否の証書を受け取った。幸い単位は取れていて、卒業が確定した。
 ところが、ぼくの前と後ろに並んでいた学生はどちらとも落第だった。彼らは就職先が決まっていて、すでに新入社員のオリエンテーションがはじまっていた。
 「あー、会社にどう言えばいいんだろう。もう新入社員教育を受けているのに」
 真新しいスーツ、ネクタイ姿の青ざめたふたりの間で、就職先もなくて、将来が宙ぶらりんのぼくは合格だった。ぼう然と立ち尽くす同期生を前にして、なぐさめる言葉もなかった。
 行方不明の卒業証書は、こんな持ち主にあきれ果てて、どこかの暗がりで、「こら、もっと大事にせんか」と怒っているかもしれない。

■細い木の枝の先っぽに、黄色く色づいた葉っぱが一枚。もう10日あまりもこうしている。風よ吹くな、落ちるなよ、がんばれ。

「正義の味方」になりたいな2021年11月13日 15時15分

 頭髪がめっきり薄くなった。大型店などで上の角度から自分の頭が映っている鏡に出くわすと、これがオレ? とショックを受ける。ハゲ頭と言われても仕方がない。
 その少ない髪の毛が伸びて、耳や首筋のあたりがうっとうしい。そこで昨日の午後3時過ぎ、客足が途絶えたころを見計らって、車でいつもの床屋に行った。
 この店との付き合いはもう30年あまりになる。店主はぼくより2つ年下とか。初めてお世話になった当時から、頭が裸電球のように光っている亭主と、髪の毛ぎっしりの奥さんの仲良し夫婦で切りまわしている。席数は3つだけのこじんまりした理容室である。
 魅力は、速い、安い、腕がいい、の3拍子つき。所要時間は一人当たり20分少々で回転させている。ふたりの息子の行きつけの床屋は、料金が3,800円。こちらは65歳以上のシルバー割引で、半額以下の1,460円である。
 どちらも髪を切って、ヒゲを剃って、頭を洗ってもらうコースの中身は同じ。息子たちの3,800円の出来映えとさほど変わりはない。違うと言えば、ぼくの馴染みの店主が昔気質(かたぎ)という点と、客層は圧倒的に高齢者ということだろうか。
 ある日、その店主のおやじさんが憤懣やるかたない顔でこぼしたことがあった。
 「さっき初めての親子連れが来たんですよ、父親と小学生みたいな男の子が一緒に。それで父親が持ってきた雑誌を見せて、自分も息子もこんなふうにしてくれって、言うんですよ」
 その雑誌にはモデルらしき若い男性が写っていた。ヘアスタイルはモヒカン刈りだった。頭のてっぺんにカマボコを縦に置いたように髪の毛を残して、ほかはバリカンで地肌すれすれまで剃り上げる。ひところ有名なサッカー選手もやっていたアレである。
 それを見たとたん、頭部のほとんどがハゲていて、残りわずかな髪はいつもカミソリできれいに剃っている店主は、カーッと頭に血がのぼったらしい。
 「こんなヘンテコリンな髪形はせん! よその店へ行ってくれ。そう言って追い返しましたよ。よりにもよって、親子そろってモヒカンですよ。あげな頭にして、息子を学校に通わせるっちゃろうか」
 「頑固でしょうが、うちの主人は。でも、わたしもあげんとは好かん。来てもらわんでもよかですよ」。奥さんは笑っていた。
 おやじさん、よくぞ言ってくれた。ぼくはうれしくなった。「いくらお客さんだろうが、やりたくもねぇことは、やらねぇんだ。とっとと帰(けえ)んな」。これぞ一国一城の主の職人である。こんなふうに自分の信念をはっきり出して怒る人が少なくなった。そこのところが気持ちいい。
 もちろん、どんな髪形にするかは、個人の自由である。のっけから拒否された方はもっとトサカにきただろうが、ま、相手が悪かった。
 わが家の近くには、ぼくたち夫婦が「正義の味方」と呼んでいる男性がいる。年のころは60歳前後、小柄だが、洋服の上からも体格のよさがわかる人で、ときどきカミさんが出勤で乗るバスで一緒になるという。
 バス亭で並んでいる人の列に、横から割り込む人がいると、この人は大きな声を出す。
 「ほらほら、割り込まない! ちゃんと列の後ろに並んで」
 バスのなかで、携帯電話でしゃべっている人がいると、この人は離れた席からも声をあげる。
 「おぅい、ここはバスのなかだよ。携帯で話さないの!」
 相手がだれであろうと、この調子。以上は、カミさんの目撃談の一部である。
 「勇気あるなぁ。オレはやりたくても、なかなかできないなぁ」
 「わたしもよ。でも、あの人は言いたくても、言えないことを、言ってくれるじゃない。正義の味方がいると、スカッとするわ。ほかの乗客もきっとそうおもっているわよ」
 ぼくの頭のなかには、もうひとりの強いぼくがいて、許しがたいヤツの顔面やボディーに、プロボクサー並みの重いパンチをたたき込み、空手の有段者のような破壊力のある蹴りを入れ、柔道家のように投げ飛ばして、完膚なきまでにこらしめる。そんな胸のすくようなシーンをよく夢想する。無敵の月光仮面やブルース・リーになってしまうのだ。そういう空想活劇の創作に浸っていると、いま、まさにその場にいるようで、心臓の鼓動までドクン、ドクンと速くなる。
 こんなふうになるのは、だれしも同じなのだろうか。この歳になっても、そんな絵空事を想像するのは、ちょっとおかしいのだろうか。
 いやいや、そんなことはあるまい。どこかで戦いを好む男の本能はいくつになっても、そう変わらないような気がする。

■夕暮れ間近の室見川。元気そうな男の子とコガモたち。

仕事の後、海であそぶ2021年11月16日 10時15分

 「お父さん、はい、これ」
 出勤前の息子が透明のビニール袋をぼくの目の前に差し出した。なかには得体のしれないものが入っていた。
 「昨日の夜、釣ってきたんだ。ヒイカだよ。5匹、釣れた」
 「おぅ、釣れたか、よかったな」
 このところ長男はよく釣りに行っている。休日は朝方の暗いうちに、そっと出て行く。仕事のある日は就業時間が終わるのを待ねるようにして、車を海へ走らせる。
 昨夜も仕事を終えたあと、糸島半島の小さな漁港の防波堤からイカ釣り用のエリンギを投げまくったという。
 「これ、店に持って行って、みんなで食べるんだ。天ぷらにしようかな。次はもっと釣ってくるからね」
 こんなことを言われると、ぼくら夫婦が東京から福岡に移り住んで、息子はこの地で産まれ、育って、よかったなぁとおもう。
 福岡は都会の利便性に加えて、山、川、海の自然に恵まれている。近在の釣り場にも事欠かない。防波堤からでも、いろんな魚が釣れる。
 息子には幼いころから釣り竿を与えて、夜釣りにも連れて行ったので、そのころの体験がいまの行動につながっているのだろうか。そうだとしたら、やってよかったな、とうれしくなる。
 40年前の夏のはじめ、東京から福岡市に引っ越してきた早々、ぼくたち夫婦は仕事が終わると博多湾沿いをドライブして、志賀島へ行ったものだ。
 シュノーケルと足ヒレをつけて、だれもいない岩場で泳ぐのだ。波が打ち寄せる水のなかは別の世界があって、小さな魚たちがたくさん泳いでいた。
 シュノーケルと足ヒレを付けて、素潜りをやったことのある人には説明不要だろうが、水深50センチほどの浅いところでも、まるで自分のからだが一枚板のように浮かんだまま、滑るように泳ぐことができる。
 岩や石ころについている貝類やウニ、魚たちが間近な目の下を過ぎて行く。泳ぐというよりも、空に浮かんでいる感覚である。
 ベラ、ハコフグ、メバル、クロダイ(メジナ)、ウミタナゴ、アラカブ(カサゴ)、カワハギ、クジメ、アイナメ、タカノハダイ(ビダリマキ)、タコやフカの子もいた。きらきら光るカタクチイワシの群れに遭遇したこともあった。 
 魚たちはほとんどがチビッ子だが、海の中の生き物たちの動きにはそれぞれに固有の特徴があって、いつまで見ていても飽きることがなかった。
 福岡の夏は夜の7時を過ぎても明るい。ぜいたくな時間を過ごして、薄暗くなった帰り道、博多湾の静かな水面には向こう岸に広がる福岡市街のにぎやかな灯りが映っていた。
 仕事の後で、嫁さんと一緒に、きれいな海に潜って、遊んで、遅くならないうちに自宅に戻れる。東京の生活では考えられないことだった。
 息子は今夜も店が終わったら、釣りに行くという。思い切って、東京から縁もゆかりもない福岡に越してきたが、その選択はどうやら正解だったようである。

■幼いころの長男は、まな板の上に置いた魚の目をみると「睨んでいる」とこわがった。いまは仕事で魚に包丁を入れる。こんなイカの目に睨まれてもへっちゃらである。

小林秀雄の痛烈な言葉2021年11月16日 23時42分

 ある地方の文学賞に応募する人を年代別に分けたら、大半が70歳以上という。このアサブロでも同年輩の人たちが、ゆったりした気分で過去を振り返ったり、身のまわりの出来事や季節の変化などを書き留めている文章を散見する。
 小説を書いてみたいな。これまで何度、そうおもったことか。でも、おもうだけだった。そうしているうちに時間はアッという間に過ぎて行き、若いころにはどこへでも飛んで行けた想像力の翼もめっきり弱くなった。
 だが、そのころにはなかった、もうひとつの想像力の翼があることに気がついた。それは歳を重ねることでしか、わからないものである。
 小説は書いていないけれども、こころのなかには自分だけの物語がある。うまく言えないが、何度も、何度も、読み返しても、飽きずまた読んでしまう物語である。
 数々の人物が登場して、ぼくの振り付けに従って、いろんな動きや話をする。泣いたり、笑ったり、怒ったり、居なくなったり。そんなオリジナルのロングセラーの書き手に、自分はなっている。
 ぼくたちは知らず知らずの間に、そのときどきの感情を文字にすることはなくても、どう言えば自分の気持ちをぴったり表現できるのかという、言葉を探す旅を続けているのだ。そして、つかみどころのないこころをうまく表現できないという壁にぶつかる。
 あの小林秀雄の文章は痛烈だ。
 -拙(まず)く書くとは即ち拙く考えることである。拙く書けてはじめて拙く考えていたことがはっきりすると言っただけでは足りぬ。書かなければ何も解らぬから書くのである。文学は創造であると言われますが、それは解らぬから書くという意味である。予(あらかじ)め解っていたら創り出すという事は意味をなさぬではないか-
 こういう文章に出会うと、ぼくは立止まってしまい、しばらく動けなくなる。

■近く公園にあるナンキンハゼの木。この自然の美しさを表すのに、ぼくが知っている乏しい言葉ではとても歯が立たない。

どぜう鍋に決めた2021年11月18日 13時00分

 スーパーで2匹入りのアナゴのかば焼きを買ってきた。税込で884円した。平鍋にゴボウのささがきを敷いて、その上に短冊に切ったアナゴを並べて、甘めの汁で鍋にするつもりである。ま、3、4人前はあるだろう。
 イメージしているのはドジョウの柳川鍋だ。今夜は鍋にしようかな、でも、「また鍋?」といわれるかなぁ、などと考えているうちに、ふと東京・浅草の「駒形どぜう」や「飯田屋どぜう」のどぜう鍋をおもい出したのである。
 どちらも老舗の人気店で、確か駒形のどぜう鍋は、ドジョウがそのままの形で入っていた。飯田屋は背開きしていて、中骨を取り除いていたとおもう。面倒くさかろうに、さすがに芸がこまかいな、駒形と張り合っているなと感心したことを覚えている。
 それにしても花のお江戸に出て来て、あこがれの下町の浅草で、どこかの田舎出のドジョウ、いや、どぜうを食べるとはおもわなかった。ぼくは東京で、あのとぼけた顔をしたドジョウの味を初めて知ったのだ。今夜のわが家はアナゴだが、海で獲れたでっかいドジョウの仲間だと思うことにしておこう。
 いちばん多くドジョウを食べたのは、大学のすぐ近くにある一軒飲み屋だった。下宿から歩いて1、2分。白いのれんには「まずい焼き鳥 水っぽい酒 ひげのくに平」と書いてあった。赤ちょうちんに照らされて、風にひらひら揺れているこんな洒脱な一文を、九州の飲み屋では見たことがなかった。
 学生たちには馴染みの店で、人気メニューのひとつが「どぜう」だった。小さなドジョウが二つに折りたたまれて、その横っ腹を竹串でずぶりと突き刺して、1本に5匹ぐらい付いている。注文を受けてから、板前さんが炭火でかば焼きにしてくれる。熱いところに山椒の粉をふりかけて、かぶりつくのである。ぼくにとっては、とても手の届かないウナギに代わるスタミナ食だった。
 4人掛けのテーブルが10卓ほどもあっただろうか。学生相手の店だから、値段は安かった。焼き鳥も、酒もうまかった。あの界隈では名物の店だったが、いつの間にか跡形もなくなってしまった。
 ときは1970年代のはじめ、当時の居酒屋は着物を着ている女将さんが珍しくなかった。『くに平』の女将さんも白い割烹着がよく似合い、肌も白くて、なかなかの美人だった。学生たちの話をおもしろがって聞いてくれ、ぼくらを見る目もやさしかった。
 割烹着姿の女将と言えば、もう一軒、下宿から1分の路地裏に、こちらも名の知れた小料理屋があった。間口半間の目立たない店である。
 店の名を『しのぶ』という。学生たちの間では、あの三浦哲郎の小説『忍ぶ川』の舞台だという説が伝わっていた。
 早稲田の学生だった主人公(三浦哲郎)が将来、結婚する女性・志乃と出会ったのは、彼女が働いていた『忍ぶ川』という小料理屋。店の名前が似ている。
 また、この店にも志乃と同じように着物姿で働いている女性がいた。磨きぬかれた白木のカウンターだけの『しのぶ』は客層も、酒の値段も、学生の身分では少々、敷居が高かった。小説には座敷も出てくるが、ほかの設定はよく似ている。
 このように符合するところが多いので、『忍ぶ川』のモデルは『しのぶ』だというというウワサは、あながちデマとはおもえなかった。
 たまに行くと腹に溜るモノで、勘定がひとついくらと計算できる、おでんばかりを食べていた。あそこは社会に出てから行く店だった。田舎者のぼくは少しばかり背伸びをしてみたかったのだろう。
 学生の街のなかでは、どこか大人びた風情のあったこの店もなくなってしまった。
 さて、今夜はどぜう鍋で一杯やるとして、明日の夜は、おでんにしようかな。

■近くの室見川の川底。流れていく砂がある一定のリズムで模様をつくっていく。このあたりにドジョウはいない。