小林秀雄の痛烈な言葉 ― 2021年11月16日 23時42分

ある地方の文学賞に応募する人を年代別に分けたら、大半が70歳以上という。このアサブロでも同年輩の人たちが、ゆったりした気分で過去を振り返ったり、身のまわりの出来事や季節の変化などを書き留めている文章を散見する。
小説を書いてみたいな。これまで何度、そうおもったことか。でも、おもうだけだった。そうしているうちに時間はアッという間に過ぎて行き、若いころにはどこへでも飛んで行けた想像力の翼もめっきり弱くなった。
だが、そのころにはなかった、もうひとつの想像力の翼があることに気がついた。それは歳を重ねることでしか、わからないものである。
小説は書いていないけれども、こころのなかには自分だけの物語がある。うまく言えないが、何度も、何度も、読み返しても、飽きずまた読んでしまう物語である。
数々の人物が登場して、ぼくの振り付けに従って、いろんな動きや話をする。泣いたり、笑ったり、怒ったり、居なくなったり。そんなオリジナルのロングセラーの書き手に、自分はなっている。
ぼくたちは知らず知らずの間に、そのときどきの感情を文字にすることはなくても、どう言えば自分の気持ちをぴったり表現できるのかという、言葉を探す旅を続けているのだ。そして、つかみどころのないこころをうまく表現できないという壁にぶつかる。
あの小林秀雄の文章は痛烈だ。
-拙(まず)く書くとは即ち拙く考えることである。拙く書けてはじめて拙く考えていたことがはっきりすると言っただけでは足りぬ。書かなければ何も解らぬから書くのである。文学は創造であると言われますが、それは解らぬから書くという意味である。予(あらかじ)め解っていたら創り出すという事は意味をなさぬではないか-
こういう文章に出会うと、ぼくは立止まってしまい、しばらく動けなくなる。
■近く公園にあるナンキンハゼの木。この自然の美しさを表すのに、ぼくが知っている乏しい言葉ではとても歯が立たない。
小説を書いてみたいな。これまで何度、そうおもったことか。でも、おもうだけだった。そうしているうちに時間はアッという間に過ぎて行き、若いころにはどこへでも飛んで行けた想像力の翼もめっきり弱くなった。
だが、そのころにはなかった、もうひとつの想像力の翼があることに気がついた。それは歳を重ねることでしか、わからないものである。
小説は書いていないけれども、こころのなかには自分だけの物語がある。うまく言えないが、何度も、何度も、読み返しても、飽きずまた読んでしまう物語である。
数々の人物が登場して、ぼくの振り付けに従って、いろんな動きや話をする。泣いたり、笑ったり、怒ったり、居なくなったり。そんなオリジナルのロングセラーの書き手に、自分はなっている。
ぼくたちは知らず知らずの間に、そのときどきの感情を文字にすることはなくても、どう言えば自分の気持ちをぴったり表現できるのかという、言葉を探す旅を続けているのだ。そして、つかみどころのないこころをうまく表現できないという壁にぶつかる。
あの小林秀雄の文章は痛烈だ。
-拙(まず)く書くとは即ち拙く考えることである。拙く書けてはじめて拙く考えていたことがはっきりすると言っただけでは足りぬ。書かなければ何も解らぬから書くのである。文学は創造であると言われますが、それは解らぬから書くという意味である。予(あらかじ)め解っていたら創り出すという事は意味をなさぬではないか-
こういう文章に出会うと、ぼくは立止まってしまい、しばらく動けなくなる。
■近く公園にあるナンキンハゼの木。この自然の美しさを表すのに、ぼくが知っている乏しい言葉ではとても歯が立たない。
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