仕事の後、海であそぶ ― 2021年11月16日 10時15分

「お父さん、はい、これ」
出勤前の息子が透明のビニール袋をぼくの目の前に差し出した。なかには得体のしれないものが入っていた。
「昨日の夜、釣ってきたんだ。ヒイカだよ。5匹、釣れた」
「おぅ、釣れたか、よかったな」
このところ長男はよく釣りに行っている。休日は朝方の暗いうちに、そっと出て行く。仕事のある日は就業時間が終わるのを待ねるようにして、車を海へ走らせる。
昨夜も仕事を終えたあと、糸島半島の小さな漁港の防波堤からイカ釣り用のエリンギを投げまくったという。
「これ、店に持って行って、みんなで食べるんだ。天ぷらにしようかな。次はもっと釣ってくるからね」
こんなことを言われると、ぼくら夫婦が東京から福岡に移り住んで、息子はこの地で産まれ、育って、よかったなぁとおもう。
福岡は都会の利便性に加えて、山、川、海の自然に恵まれている。近在の釣り場にも事欠かない。防波堤からでも、いろんな魚が釣れる。
息子には幼いころから釣り竿を与えて、夜釣りにも連れて行ったので、そのころの体験がいまの行動につながっているのだろうか。そうだとしたら、やってよかったな、とうれしくなる。
40年前の夏のはじめ、東京から福岡市に引っ越してきた早々、ぼくたち夫婦は仕事が終わると博多湾沿いをドライブして、志賀島へ行ったものだ。
シュノーケルと足ヒレをつけて、だれもいない岩場で泳ぐのだ。波が打ち寄せる水のなかは別の世界があって、小さな魚たちがたくさん泳いでいた。
シュノーケルと足ヒレを付けて、素潜りをやったことのある人には説明不要だろうが、水深50センチほどの浅いところでも、まるで自分のからだが一枚板のように浮かんだまま、滑るように泳ぐことができる。
岩や石ころについている貝類やウニ、魚たちが間近な目の下を過ぎて行く。泳ぐというよりも、空に浮かんでいる感覚である。
ベラ、ハコフグ、メバル、クロダイ(メジナ)、ウミタナゴ、アラカブ(カサゴ)、カワハギ、クジメ、アイナメ、タカノハダイ(ビダリマキ)、タコやフカの子もいた。きらきら光るカタクチイワシの群れに遭遇したこともあった。
魚たちはほとんどがチビッ子だが、海の中の生き物たちの動きにはそれぞれに固有の特徴があって、いつまで見ていても飽きることがなかった。
福岡の夏は夜の7時を過ぎても明るい。ぜいたくな時間を過ごして、薄暗くなった帰り道、博多湾の静かな水面には向こう岸に広がる福岡市街のにぎやかな灯りが映っていた。
仕事の後で、嫁さんと一緒に、きれいな海に潜って、遊んで、遅くならないうちに自宅に戻れる。東京の生活では考えられないことだった。
息子は今夜も店が終わったら、釣りに行くという。思い切って、東京から縁もゆかりもない福岡に越してきたが、その選択はどうやら正解だったようである。
■幼いころの長男は、まな板の上に置いた魚の目をみると「睨んでいる」とこわがった。いまは仕事で魚に包丁を入れる。こんなイカの目に睨まれてもへっちゃらである。
出勤前の息子が透明のビニール袋をぼくの目の前に差し出した。なかには得体のしれないものが入っていた。
「昨日の夜、釣ってきたんだ。ヒイカだよ。5匹、釣れた」
「おぅ、釣れたか、よかったな」
このところ長男はよく釣りに行っている。休日は朝方の暗いうちに、そっと出て行く。仕事のある日は就業時間が終わるのを待ねるようにして、車を海へ走らせる。
昨夜も仕事を終えたあと、糸島半島の小さな漁港の防波堤からイカ釣り用のエリンギを投げまくったという。
「これ、店に持って行って、みんなで食べるんだ。天ぷらにしようかな。次はもっと釣ってくるからね」
こんなことを言われると、ぼくら夫婦が東京から福岡に移り住んで、息子はこの地で産まれ、育って、よかったなぁとおもう。
福岡は都会の利便性に加えて、山、川、海の自然に恵まれている。近在の釣り場にも事欠かない。防波堤からでも、いろんな魚が釣れる。
息子には幼いころから釣り竿を与えて、夜釣りにも連れて行ったので、そのころの体験がいまの行動につながっているのだろうか。そうだとしたら、やってよかったな、とうれしくなる。
40年前の夏のはじめ、東京から福岡市に引っ越してきた早々、ぼくたち夫婦は仕事が終わると博多湾沿いをドライブして、志賀島へ行ったものだ。
シュノーケルと足ヒレをつけて、だれもいない岩場で泳ぐのだ。波が打ち寄せる水のなかは別の世界があって、小さな魚たちがたくさん泳いでいた。
シュノーケルと足ヒレを付けて、素潜りをやったことのある人には説明不要だろうが、水深50センチほどの浅いところでも、まるで自分のからだが一枚板のように浮かんだまま、滑るように泳ぐことができる。
岩や石ころについている貝類やウニ、魚たちが間近な目の下を過ぎて行く。泳ぐというよりも、空に浮かんでいる感覚である。
ベラ、ハコフグ、メバル、クロダイ(メジナ)、ウミタナゴ、アラカブ(カサゴ)、カワハギ、クジメ、アイナメ、タカノハダイ(ビダリマキ)、タコやフカの子もいた。きらきら光るカタクチイワシの群れに遭遇したこともあった。
魚たちはほとんどがチビッ子だが、海の中の生き物たちの動きにはそれぞれに固有の特徴があって、いつまで見ていても飽きることがなかった。
福岡の夏は夜の7時を過ぎても明るい。ぜいたくな時間を過ごして、薄暗くなった帰り道、博多湾の静かな水面には向こう岸に広がる福岡市街のにぎやかな灯りが映っていた。
仕事の後で、嫁さんと一緒に、きれいな海に潜って、遊んで、遅くならないうちに自宅に戻れる。東京の生活では考えられないことだった。
息子は今夜も店が終わったら、釣りに行くという。思い切って、東京から縁もゆかりもない福岡に越してきたが、その選択はどうやら正解だったようである。
■幼いころの長男は、まな板の上に置いた魚の目をみると「睨んでいる」とこわがった。いまは仕事で魚に包丁を入れる。こんなイカの目に睨まれてもへっちゃらである。
小林秀雄の痛烈な言葉 ― 2021年11月16日 23時42分

ある地方の文学賞に応募する人を年代別に分けたら、大半が70歳以上という。このアサブロでも同年輩の人たちが、ゆったりした気分で過去を振り返ったり、身のまわりの出来事や季節の変化などを書き留めている文章を散見する。
小説を書いてみたいな。これまで何度、そうおもったことか。でも、おもうだけだった。そうしているうちに時間はアッという間に過ぎて行き、若いころにはどこへでも飛んで行けた想像力の翼もめっきり弱くなった。
だが、そのころにはなかった、もうひとつの想像力の翼があることに気がついた。それは歳を重ねることでしか、わからないものである。
小説は書いていないけれども、こころのなかには自分だけの物語がある。うまく言えないが、何度も、何度も、読み返しても、飽きずまた読んでしまう物語である。
数々の人物が登場して、ぼくの振り付けに従って、いろんな動きや話をする。泣いたり、笑ったり、怒ったり、居なくなったり。そんなオリジナルのロングセラーの書き手に、自分はなっている。
ぼくたちは知らず知らずの間に、そのときどきの感情を文字にすることはなくても、どう言えば自分の気持ちをぴったり表現できるのかという、言葉を探す旅を続けているのだ。そして、つかみどころのないこころをうまく表現できないという壁にぶつかる。
あの小林秀雄の文章は痛烈だ。
-拙(まず)く書くとは即ち拙く考えることである。拙く書けてはじめて拙く考えていたことがはっきりすると言っただけでは足りぬ。書かなければ何も解らぬから書くのである。文学は創造であると言われますが、それは解らぬから書くという意味である。予(あらかじ)め解っていたら創り出すという事は意味をなさぬではないか-
こういう文章に出会うと、ぼくは立止まってしまい、しばらく動けなくなる。
■近く公園にあるナンキンハゼの木。この自然の美しさを表すのに、ぼくが知っている乏しい言葉ではとても歯が立たない。
小説を書いてみたいな。これまで何度、そうおもったことか。でも、おもうだけだった。そうしているうちに時間はアッという間に過ぎて行き、若いころにはどこへでも飛んで行けた想像力の翼もめっきり弱くなった。
だが、そのころにはなかった、もうひとつの想像力の翼があることに気がついた。それは歳を重ねることでしか、わからないものである。
小説は書いていないけれども、こころのなかには自分だけの物語がある。うまく言えないが、何度も、何度も、読み返しても、飽きずまた読んでしまう物語である。
数々の人物が登場して、ぼくの振り付けに従って、いろんな動きや話をする。泣いたり、笑ったり、怒ったり、居なくなったり。そんなオリジナルのロングセラーの書き手に、自分はなっている。
ぼくたちは知らず知らずの間に、そのときどきの感情を文字にすることはなくても、どう言えば自分の気持ちをぴったり表現できるのかという、言葉を探す旅を続けているのだ。そして、つかみどころのないこころをうまく表現できないという壁にぶつかる。
あの小林秀雄の文章は痛烈だ。
-拙(まず)く書くとは即ち拙く考えることである。拙く書けてはじめて拙く考えていたことがはっきりすると言っただけでは足りぬ。書かなければ何も解らぬから書くのである。文学は創造であると言われますが、それは解らぬから書くという意味である。予(あらかじ)め解っていたら創り出すという事は意味をなさぬではないか-
こういう文章に出会うと、ぼくは立止まってしまい、しばらく動けなくなる。
■近く公園にあるナンキンハゼの木。この自然の美しさを表すのに、ぼくが知っている乏しい言葉ではとても歯が立たない。
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