短編小説にチャレンジする ― 2021年12月01日 12時24分

12月になった。いよいよ2021年のカウントダウンが始まった気持ちになる。こうしてまた歳をとっていくのだ。みんな公平に、平等に。
年内までに、せめて一本、短篇小説を書こうとおもい、先日からパソコンに向かっている。取材をして、原稿を書くのは、若いころからの商売だったので、言われた通りの枚数(行数)でまとめるのは慣れている。ルポや事件、政治、スポーツの記事はある種のノンフィクションだから、それらは取材をして、その後でシャープな切り口を見つければいい。この点、虚構の物語を書く小説とはかなり勝手が違う。
ちょっと横道にそれるが、取材と原稿のテーマについては鮮烈な思い出がある。
田 英夫さんは伝説のジャーナリストだった。元共同通信の看板記者で、民放の夕方のニュース番組で、ニュースキャスターの先駆けとなり、社会党から参院選の全国区に打って出て、トップ当選した人である。(その後、社会民主連合の代表に就いた)
政治の取材にようやく慣れたころ、田さんのコメントがほしくて、夜中の零時過ぎに、彼が泊まっている札幌のホテルに電話を入れたことがある。
歯切れのいい声が返ってきた。そして、質問をする前に、こう言われた。
「ところで、最初に聞いておくけど、あなたの取材のテーマは何なの? 編集会議で決まっているんでしょ」
相手はこの道の大先輩である。尋ねられたことに、正直に答えた。来週号の特集のテーマは決まっていて、そのことをもっと掘り下げたい目的で、田さんをつかまえたのだから、隠すことはなにもない。
ところが、ぼくの説明を聞き終えたとたん、彼はこう言ったのだ。
「ひっかかったね」
電話のむこうで、冷笑している顔が見えるようだった。
「最初から、報道するテーマを決めて、それに合わせるための取材をして、記事にするのはおかしいだろ。まず、取材をする。そして、その取材のなかから報道するのにふさわしいテーマを見つけるのが、記者としての順序じゃないか。君のやっていることはおかしいよ」
ぐうの音も出なかった。その後で、田さんは機嫌よく、ていねいに取材に応えてくれた。あの言葉も絶対に忘れない。本当にいろんな人がぼくを育ててくれたことをありがたく思いだす。
さて、話を戻す。
同じ原稿でも、「小説」となると、変に構えてしまう。また書いていて、これは物語ではなく、雑誌の記事みたいだなと気がつく。いったい小説家の頭のなかはどうなっているのだろうか。彼らは毎日、10枚書くなどと話しているが、ぼくはいまだに書き出しの4、5枚を行ったり来たりしていて、いっこうに筆が進まない。
と、ここまで書いて、また別のことをおもい出した。あの立花隆さんが知り合いのあるカメラマンと話しているテレビ番組を見たことがある。そのとき立花さんはこう言った。
「そろそろ小説を書こうと思っているんですよ。小説じゃないと書けないこともあるでしょ」
これに対して、カメラマンの答えがふるっていた。
「立花さん、もうずいぶん前から、そう言っているじゃないの。小説を書く、書くって。言うばかりで、きっと書かないんじゃないの」
そういえば、立花さんには小説を書いた本がない。
やっぱり、そういうものなのかなぁ。まぁ、こうしてブログで宣言しておけば、やらざるをえないだろう。でも、立花さんの例もあるからなぁ。
■紅葉のなかに、カササギがいた。数日前にスマホで撮影した。今日は寒くて、風も強く、赤や黄色に色づいた葉っぱがあらかた散ってしまった。木々が枝だけになって、バードウォッチングの季節がやってきた。
年内までに、せめて一本、短篇小説を書こうとおもい、先日からパソコンに向かっている。取材をして、原稿を書くのは、若いころからの商売だったので、言われた通りの枚数(行数)でまとめるのは慣れている。ルポや事件、政治、スポーツの記事はある種のノンフィクションだから、それらは取材をして、その後でシャープな切り口を見つければいい。この点、虚構の物語を書く小説とはかなり勝手が違う。
ちょっと横道にそれるが、取材と原稿のテーマについては鮮烈な思い出がある。
田 英夫さんは伝説のジャーナリストだった。元共同通信の看板記者で、民放の夕方のニュース番組で、ニュースキャスターの先駆けとなり、社会党から参院選の全国区に打って出て、トップ当選した人である。(その後、社会民主連合の代表に就いた)
政治の取材にようやく慣れたころ、田さんのコメントがほしくて、夜中の零時過ぎに、彼が泊まっている札幌のホテルに電話を入れたことがある。
歯切れのいい声が返ってきた。そして、質問をする前に、こう言われた。
「ところで、最初に聞いておくけど、あなたの取材のテーマは何なの? 編集会議で決まっているんでしょ」
相手はこの道の大先輩である。尋ねられたことに、正直に答えた。来週号の特集のテーマは決まっていて、そのことをもっと掘り下げたい目的で、田さんをつかまえたのだから、隠すことはなにもない。
ところが、ぼくの説明を聞き終えたとたん、彼はこう言ったのだ。
「ひっかかったね」
電話のむこうで、冷笑している顔が見えるようだった。
「最初から、報道するテーマを決めて、それに合わせるための取材をして、記事にするのはおかしいだろ。まず、取材をする。そして、その取材のなかから報道するのにふさわしいテーマを見つけるのが、記者としての順序じゃないか。君のやっていることはおかしいよ」
ぐうの音も出なかった。その後で、田さんは機嫌よく、ていねいに取材に応えてくれた。あの言葉も絶対に忘れない。本当にいろんな人がぼくを育ててくれたことをありがたく思いだす。
さて、話を戻す。
同じ原稿でも、「小説」となると、変に構えてしまう。また書いていて、これは物語ではなく、雑誌の記事みたいだなと気がつく。いったい小説家の頭のなかはどうなっているのだろうか。彼らは毎日、10枚書くなどと話しているが、ぼくはいまだに書き出しの4、5枚を行ったり来たりしていて、いっこうに筆が進まない。
と、ここまで書いて、また別のことをおもい出した。あの立花隆さんが知り合いのあるカメラマンと話しているテレビ番組を見たことがある。そのとき立花さんはこう言った。
「そろそろ小説を書こうと思っているんですよ。小説じゃないと書けないこともあるでしょ」
これに対して、カメラマンの答えがふるっていた。
「立花さん、もうずいぶん前から、そう言っているじゃないの。小説を書く、書くって。言うばかりで、きっと書かないんじゃないの」
そういえば、立花さんには小説を書いた本がない。
やっぱり、そういうものなのかなぁ。まぁ、こうしてブログで宣言しておけば、やらざるをえないだろう。でも、立花さんの例もあるからなぁ。
■紅葉のなかに、カササギがいた。数日前にスマホで撮影した。今日は寒くて、風も強く、赤や黄色に色づいた葉っぱがあらかた散ってしまった。木々が枝だけになって、バードウォッチングの季節がやってきた。
激変した年賀状の向こう側 ― 2021年12月10日 16時18分

仕事が休みの息子が朝から出かけて行った。高校時代の友だちの2周忌で、仲間と誘い合わせて、お骨を納めている寺に墓参りに行くという。
息子の辛くて困難な時期を支えてくれたのが、仲良し4人組だった。そのなかのM君がまだ一歳の誕生日も迎えていないひとり娘を残して、ガンで旅立ったとき、知らせを聞いたぼくたち夫婦は涙があふれて止まらなかった。
4人組は3人組になったけれど、息子はいまもM君の月命日には、できる限り墓参りをしている。悲しくて、残念無念だが、お前たち、いい友だちだよなぁ、とおもう。
昨日はしばらく会っていない年下の知人から、喪中挨拶のハガキが届いた。この時期になると「年末年始のご挨拶をご遠慮申し上げます」という黒枠のハガキがぽつぽつ舞い込んでくる。
はじめのころ、亡くなった人は祖父とか祖母だった。それが父、母になり、このごろは兄弟も加わった。昨日のハガキも実兄だった。
ああ、自分もそういう歳になったのだ。来年はまた年男になる。年賀状はその人の近況だけではなく、過ぎてゆく時間の速さも教えてくれる。
数年前からは「今年で、年賀状のご挨拶をやめます」という人も出てきた。
その気持ちはわからないでもない。世事のわずらわしさからすっきりと解放されたくなったのだろう。10年も、20年も会っていない人に、そして、おそらく会うこともない人に、「今年もよろしく」と空々しい決まり文句の書くのは、あまり気分のよいものではない。もらう方だって、苦笑しているだろう。ま、固いことを言っても仕様がないか。
いただいた年賀状で、いちばんショックだったのは、中学時代のいちばんの友人からのものだった。それまでの年賀状は、彼が描いた大胆な構図の版画で、気の利いた一文が躍動的な筆づかいで書かれていた。ひと目で、東京にいる彼のからのものだとわかった。
ところが、今年の元旦に届いた賀状は、よくある印刷モノに変わっていた。文章も彼のものではなかった。しばらくして関西にいる同じクラスメイトの女性から、「彼、どうしたのかしら。いつもの年賀状ではないけれど。心配だな」という連絡があった。
その彼は、クラスでいちばん頭がよくて、発想が飛び抜けてユニークで、絵も上手だった。分け隔てのない人柄はワルガキからも好かれて、生徒会長にも選ばれた。一流の国立大学から大手企業に就職し、海外でも活躍したぼくらの自慢のエースだった。中学校の友だちのなかで、互いの結婚披露宴に出席し合ったのは、彼とぼくだけという間柄である。
こちらも気になっていたので、東京の彼の自宅に電話を入れた。すぐにぼくとわかって、明るく元気な声が返ってきた。だが、話がちぐはぐで、いつもとは感じがちがう。奥さんに代わって、わかったのは、これまでのように会話のやりとりができなくなっている、ということだった。
まったく原因は不明だが、退職してから、急速にそうなったという。ふつうに元気だから、見た目には病人とはわからないそうだ。
ときおり、彼に送ったメールの返事も、本人からのものではなく、奥さんからになった。そして、彼の病名は認知症と書かれていた。その病気なら、ぼくだって、だれだって、いつそうなってもおかしくない。
でも、あいつなら、きっと大丈夫だ。学生時代からの恋人で、あいつのことをだれよりも愛している、気丈でやさしい奥さんもついている。
こんなブログを書くのは、大切な友だち夫婦の苦衷をさらしモノにしているようで、自分が嫌になる。でも、いまを書くということは、いまのありのままを書くということだ。それは隠しごとをしなかったアイツとオレとの流儀である。ただし、彼の病気のことは、あの関西の同級生とうちのカミさん以外には、絶対にだれにも言わないと決めている。
ずいぶん会っていないが、わが畏友と奥さんには、心からのエールを込めて、例年と同じように、「今年もよろしく」の挨拶を送ろうとおもう。
■買い物の途中で、きれいな花を見かけた。ときどき目にするが、浅学にて、花の名前は知らない。きっとこの家の人には自慢の花だろう。
息子の辛くて困難な時期を支えてくれたのが、仲良し4人組だった。そのなかのM君がまだ一歳の誕生日も迎えていないひとり娘を残して、ガンで旅立ったとき、知らせを聞いたぼくたち夫婦は涙があふれて止まらなかった。
4人組は3人組になったけれど、息子はいまもM君の月命日には、できる限り墓参りをしている。悲しくて、残念無念だが、お前たち、いい友だちだよなぁ、とおもう。
昨日はしばらく会っていない年下の知人から、喪中挨拶のハガキが届いた。この時期になると「年末年始のご挨拶をご遠慮申し上げます」という黒枠のハガキがぽつぽつ舞い込んでくる。
はじめのころ、亡くなった人は祖父とか祖母だった。それが父、母になり、このごろは兄弟も加わった。昨日のハガキも実兄だった。
ああ、自分もそういう歳になったのだ。来年はまた年男になる。年賀状はその人の近況だけではなく、過ぎてゆく時間の速さも教えてくれる。
数年前からは「今年で、年賀状のご挨拶をやめます」という人も出てきた。
その気持ちはわからないでもない。世事のわずらわしさからすっきりと解放されたくなったのだろう。10年も、20年も会っていない人に、そして、おそらく会うこともない人に、「今年もよろしく」と空々しい決まり文句の書くのは、あまり気分のよいものではない。もらう方だって、苦笑しているだろう。ま、固いことを言っても仕様がないか。
いただいた年賀状で、いちばんショックだったのは、中学時代のいちばんの友人からのものだった。それまでの年賀状は、彼が描いた大胆な構図の版画で、気の利いた一文が躍動的な筆づかいで書かれていた。ひと目で、東京にいる彼のからのものだとわかった。
ところが、今年の元旦に届いた賀状は、よくある印刷モノに変わっていた。文章も彼のものではなかった。しばらくして関西にいる同じクラスメイトの女性から、「彼、どうしたのかしら。いつもの年賀状ではないけれど。心配だな」という連絡があった。
その彼は、クラスでいちばん頭がよくて、発想が飛び抜けてユニークで、絵も上手だった。分け隔てのない人柄はワルガキからも好かれて、生徒会長にも選ばれた。一流の国立大学から大手企業に就職し、海外でも活躍したぼくらの自慢のエースだった。中学校の友だちのなかで、互いの結婚披露宴に出席し合ったのは、彼とぼくだけという間柄である。
こちらも気になっていたので、東京の彼の自宅に電話を入れた。すぐにぼくとわかって、明るく元気な声が返ってきた。だが、話がちぐはぐで、いつもとは感じがちがう。奥さんに代わって、わかったのは、これまでのように会話のやりとりができなくなっている、ということだった。
まったく原因は不明だが、退職してから、急速にそうなったという。ふつうに元気だから、見た目には病人とはわからないそうだ。
ときおり、彼に送ったメールの返事も、本人からのものではなく、奥さんからになった。そして、彼の病名は認知症と書かれていた。その病気なら、ぼくだって、だれだって、いつそうなってもおかしくない。
でも、あいつなら、きっと大丈夫だ。学生時代からの恋人で、あいつのことをだれよりも愛している、気丈でやさしい奥さんもついている。
こんなブログを書くのは、大切な友だち夫婦の苦衷をさらしモノにしているようで、自分が嫌になる。でも、いまを書くということは、いまのありのままを書くということだ。それは隠しごとをしなかったアイツとオレとの流儀である。ただし、彼の病気のことは、あの関西の同級生とうちのカミさん以外には、絶対にだれにも言わないと決めている。
ずいぶん会っていないが、わが畏友と奥さんには、心からのエールを込めて、例年と同じように、「今年もよろしく」の挨拶を送ろうとおもう。
■買い物の途中で、きれいな花を見かけた。ときどき目にするが、浅学にて、花の名前は知らない。きっとこの家の人には自慢の花だろう。
雪国の山の音 ― 2021年12月12日 10時41分

朝のテレビの気象情報がはじまると新潟の天気に目がいく。妻の出身地だからそうなるのだが、彼女が生まれたのは画面に映っている新潟市ではない。そこから信濃川の上流をたどり、千曲川との分流点から魚野川をさかのぼって、さらに支流に分け入った南魚沼市の山あいにたたずむ、うつくしい山里である。
先月の末、義兄から妻の携帯電話に、初雪が降ったというメールが届いた。いよいよ日本有数の豪雪地帯の長い冬がはじまったようだ。
この季節になると、かの地の山の冬景色が浮かんでくる。
冷え込みがきびしいある朝、妻の実家の玄関を出てみると、まわりの山という山の景色は一変していた。ひときわ高くそびえる中ノ岳(2,085m)や八海山(1,778m)はすでに冠雪していたが、真っ白い綿帽子はぐーんと麓(ふもと)近くまで降りていた。雪と山肌の境界線は、定規で線を引いたように水平になっている。そして、その一直線から上は、朝陽を浴びて白銀にきらめいていた。
翌朝、雪の衣装の裾はそのまま水平に100mほど下がっていた。その翌日はまた100m、地面に近づいた。冬の使者は人々が寝静まった夜なかに、足音もたてずに降りてくるのだ。
ずん、ずん、ずんと山から下ってくる白い世界は、やがて地表のすべてをおおい、それでも足りずに雪は綿々と降りつづいて、1mを越える根雪になる。雪が舞いはじめると土地の人は、ああ、嫌だなぁ、と嘆いていたが、ぼくははじめて目にした荘厳な山と雪との自然の演出に、しばし心をうばわれてしまった。
そのころである、「人の心のなかには山がある」と考えついたのは。山岳列島の日本はどこに住んでも、山がみえる。その当たり前のことに気がついたとき、ぼくは「俺のなかには山がある」とおもうようになった。すると、なにかどっしりした、確かなものが、自分のなかにできたような気がした。
ベ平連のリーダーでもあった作家の小田実は、どこかの著書に「オダマコトヨ、海ニナレ」と書いた。その言葉は、三畳ひと間の下宿暮らしをしていた学生時代のぼくには衝撃的だった。そうだ、もっと伸び伸び生きようとおもい、「○○○○ヨ、海ニナレ」と当時の日記に書きこんだ。
だが、それは際限もなくふわふわしていて、つかみどころのない言葉だった。そこに「オレノ心ノナカニハ、山ガアル」が加わったのだ。「海ニナレ」と「心ノナカニ、山ガアル」は、自分のなかではすっきり折り合いがついて、いまでも自分を支える言葉になっている。
自然は人を育ててくれる――。個人の内面的な体験だが、ぼくの実感である。
もう少し、新潟の雪国の山について書きたい。
豪雪地帯の山は、九州のそれとは形から違う。福岡近郊の山の輪郭はなだらかな曲線である。山と樹木の適応した関係を、俗に「尾根に松、腹に桧、谷に杉」というが、九州の山は尾根から腹、谷まですべて杉林のところも珍しくない。だが、雪国の山はそうはいかない。
山の輪郭は曲線ではなく、直線である。山腹はまるで戸板でも立てかけたような急斜面で、峠から下の方を見るとまっすぐ転がり落ちそうな気がする。積もり積もった大量の雪が土や岩を削りとって、鋭角と鋭角が連なる山容をつくり出した。
陽が落ちると、白い雪をかぶった山はしらじらと照り光って、三角刃の彫刻刀で掘ったような黒い斜めの線が幾筋も浮かびあがり、あたり一帯の山々は冬の夜空にむかって吠えているかのようである。あれは降り積もった雪が凍りついていく山の音だったか。
故郷のないぼくは、妻と知り合って、この雪国の里で息子たちにたくさんの思い出を残してあげれたことをありがたいとおもっている。
天気予報によれば、明日の南魚沼市の最低温度は零度。夜明け前から雪が降るという。
■妻の実家のすぐ近くの川には、ヤマメやイワナ、アユ、ウグイ、カジカがいた。夏休みに遊びに行って、よく晩酌の肴にしたものだ。いまはヤマメやイワナはいなくなったと聞く。撮影したのは、3年前の4月末。
先月の末、義兄から妻の携帯電話に、初雪が降ったというメールが届いた。いよいよ日本有数の豪雪地帯の長い冬がはじまったようだ。
この季節になると、かの地の山の冬景色が浮かんでくる。
冷え込みがきびしいある朝、妻の実家の玄関を出てみると、まわりの山という山の景色は一変していた。ひときわ高くそびえる中ノ岳(2,085m)や八海山(1,778m)はすでに冠雪していたが、真っ白い綿帽子はぐーんと麓(ふもと)近くまで降りていた。雪と山肌の境界線は、定規で線を引いたように水平になっている。そして、その一直線から上は、朝陽を浴びて白銀にきらめいていた。
翌朝、雪の衣装の裾はそのまま水平に100mほど下がっていた。その翌日はまた100m、地面に近づいた。冬の使者は人々が寝静まった夜なかに、足音もたてずに降りてくるのだ。
ずん、ずん、ずんと山から下ってくる白い世界は、やがて地表のすべてをおおい、それでも足りずに雪は綿々と降りつづいて、1mを越える根雪になる。雪が舞いはじめると土地の人は、ああ、嫌だなぁ、と嘆いていたが、ぼくははじめて目にした荘厳な山と雪との自然の演出に、しばし心をうばわれてしまった。
そのころである、「人の心のなかには山がある」と考えついたのは。山岳列島の日本はどこに住んでも、山がみえる。その当たり前のことに気がついたとき、ぼくは「俺のなかには山がある」とおもうようになった。すると、なにかどっしりした、確かなものが、自分のなかにできたような気がした。
ベ平連のリーダーでもあった作家の小田実は、どこかの著書に「オダマコトヨ、海ニナレ」と書いた。その言葉は、三畳ひと間の下宿暮らしをしていた学生時代のぼくには衝撃的だった。そうだ、もっと伸び伸び生きようとおもい、「○○○○ヨ、海ニナレ」と当時の日記に書きこんだ。
だが、それは際限もなくふわふわしていて、つかみどころのない言葉だった。そこに「オレノ心ノナカニハ、山ガアル」が加わったのだ。「海ニナレ」と「心ノナカニ、山ガアル」は、自分のなかではすっきり折り合いがついて、いまでも自分を支える言葉になっている。
自然は人を育ててくれる――。個人の内面的な体験だが、ぼくの実感である。
もう少し、新潟の雪国の山について書きたい。
豪雪地帯の山は、九州のそれとは形から違う。福岡近郊の山の輪郭はなだらかな曲線である。山と樹木の適応した関係を、俗に「尾根に松、腹に桧、谷に杉」というが、九州の山は尾根から腹、谷まですべて杉林のところも珍しくない。だが、雪国の山はそうはいかない。
山の輪郭は曲線ではなく、直線である。山腹はまるで戸板でも立てかけたような急斜面で、峠から下の方を見るとまっすぐ転がり落ちそうな気がする。積もり積もった大量の雪が土や岩を削りとって、鋭角と鋭角が連なる山容をつくり出した。
陽が落ちると、白い雪をかぶった山はしらじらと照り光って、三角刃の彫刻刀で掘ったような黒い斜めの線が幾筋も浮かびあがり、あたり一帯の山々は冬の夜空にむかって吠えているかのようである。あれは降り積もった雪が凍りついていく山の音だったか。
故郷のないぼくは、妻と知り合って、この雪国の里で息子たちにたくさんの思い出を残してあげれたことをありがたいとおもっている。
天気予報によれば、明日の南魚沼市の最低温度は零度。夜明け前から雪が降るという。
■妻の実家のすぐ近くの川には、ヤマメやイワナ、アユ、ウグイ、カジカがいた。夏休みに遊びに行って、よく晩酌の肴にしたものだ。いまはヤマメやイワナはいなくなったと聞く。撮影したのは、3年前の4月末。
お父さんも協力してよ! ― 2021年12月19日 16時43分

先日、10年モノの電子オーブンレンジが、ウンとも、スンとも、チーン! とも言わなくなった。ついに御臨終である。さぁ、困った。
そのときカミさんがひらめいたのは貸倉庫だった。洗濯機やキャンプ道具、キャリーバック、釣り道具、本などをほうり込んでいるのだが、「電子レンジもあったよ」と言うのだ。よかった、これで急場はしのげそうだ。
探したら、ちゃんと2台あった。ふたりの息子が家を出て行ったときに持たせたものだ。兄弟ともわけあって戻って来たので、洗濯機や電子レンジもまた一緒にくっついてきたのである。(その後、次男はまた出て行った)
両方とも温めるだけというタイプ。実際のところ、それで不足はないのだが、いざ買い替えるというテーマが浮上したとたん、カミさんの悩みがはじまった。
エディオン、コジマ電気、ヤマダ電機の電子レンジ売り場を見てまわり、ジャパネットタカタ、アマゾン、価格ドットコムなどもチェックして、各メーカーのカタログや量販店のチラシともにらめっこ。
ああでもない、こうでもないとぶつぶつ言いながら、「お父さんも協力してよ!」と言い出す始末。こうなると泥沼から簡単に抜け出せないのはいつものことである。
高齢者夫婦のわが家では、電子レンジのオーブンやグリルなんて、一年にほんの数回、気まぐれに使うかどうか。だったら最低限の機能があればいいじゃないかとおもうのだが、カミさんは、それではお気に召さないのだ。要求がこまかいのである。
「この機種は、油なしでもトリの唐揚げができるんだって。カリッとなるんだって。カロリーが低くて、からだにいいじゃない。作ってみたいなぁ」
また出ました、「作ってみたいなぁ」が。
「でも、この通販の商品だと、色が赤しかないしなぁ。まわりの色と合わないよねぇ」
ほら、またこれだ。
いちばんのクセモノは「作ってみたいなぁ」で、これまで幾度となく、このヤル気満々の言葉を聞かされてきた。しかし、期待はことごとく裏切られた。待ち焦がれていた焼きたてのパンも、肉汁がつまったローストビーフも話だけだった。(その点、ぼくも大きなことは言えないが)。
それでも年内には真新しい電子オーブンレンジを買うことになるはず。正月も近いし、最初のうちはいろんな最新機能を試すことになるだろう。
耳元で、あの「お父さんも協力してよ!」の声が聞こえる。主夫家業をしているぼくは、新しい機種がやってきたら、ご飯や冷凍食品を温めるだけではなくて、何か目新しい料理に挑戦しなければいけないのだろうか。
どうやら、そんな状況に陥ってしまった気配を感じる。やれやれ、また違うレシピを覚えなくてはいけないのかなぁ。
■緑色から真っ黒に熟れた樟(クスノキ)の実。天然の樟の北限は、福岡市に隣接する新宮町の立花山だという。子どものころのぼくたちは、そのへんに生えている竹を小刀で切って、竹鉄砲をつくり、樟の緑色の硬い実を「弾」にして遊んでいた。パーン、と渇いた音と共に、弾丸は勢いよく飛び出していくのだ。
そのときカミさんがひらめいたのは貸倉庫だった。洗濯機やキャンプ道具、キャリーバック、釣り道具、本などをほうり込んでいるのだが、「電子レンジもあったよ」と言うのだ。よかった、これで急場はしのげそうだ。
探したら、ちゃんと2台あった。ふたりの息子が家を出て行ったときに持たせたものだ。兄弟ともわけあって戻って来たので、洗濯機や電子レンジもまた一緒にくっついてきたのである。(その後、次男はまた出て行った)
両方とも温めるだけというタイプ。実際のところ、それで不足はないのだが、いざ買い替えるというテーマが浮上したとたん、カミさんの悩みがはじまった。
エディオン、コジマ電気、ヤマダ電機の電子レンジ売り場を見てまわり、ジャパネットタカタ、アマゾン、価格ドットコムなどもチェックして、各メーカーのカタログや量販店のチラシともにらめっこ。
ああでもない、こうでもないとぶつぶつ言いながら、「お父さんも協力してよ!」と言い出す始末。こうなると泥沼から簡単に抜け出せないのはいつものことである。
高齢者夫婦のわが家では、電子レンジのオーブンやグリルなんて、一年にほんの数回、気まぐれに使うかどうか。だったら最低限の機能があればいいじゃないかとおもうのだが、カミさんは、それではお気に召さないのだ。要求がこまかいのである。
「この機種は、油なしでもトリの唐揚げができるんだって。カリッとなるんだって。カロリーが低くて、からだにいいじゃない。作ってみたいなぁ」
また出ました、「作ってみたいなぁ」が。
「でも、この通販の商品だと、色が赤しかないしなぁ。まわりの色と合わないよねぇ」
ほら、またこれだ。
いちばんのクセモノは「作ってみたいなぁ」で、これまで幾度となく、このヤル気満々の言葉を聞かされてきた。しかし、期待はことごとく裏切られた。待ち焦がれていた焼きたてのパンも、肉汁がつまったローストビーフも話だけだった。(その点、ぼくも大きなことは言えないが)。
それでも年内には真新しい電子オーブンレンジを買うことになるはず。正月も近いし、最初のうちはいろんな最新機能を試すことになるだろう。
耳元で、あの「お父さんも協力してよ!」の声が聞こえる。主夫家業をしているぼくは、新しい機種がやってきたら、ご飯や冷凍食品を温めるだけではなくて、何か目新しい料理に挑戦しなければいけないのだろうか。
どうやら、そんな状況に陥ってしまった気配を感じる。やれやれ、また違うレシピを覚えなくてはいけないのかなぁ。
■緑色から真っ黒に熟れた樟(クスノキ)の実。天然の樟の北限は、福岡市に隣接する新宮町の立花山だという。子どものころのぼくたちは、そのへんに生えている竹を小刀で切って、竹鉄砲をつくり、樟の緑色の硬い実を「弾」にして遊んでいた。パーン、と渇いた音と共に、弾丸は勢いよく飛び出していくのだ。
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