別れのときがきた2022年08月05日 16時47分

 明日は大分県南の町まで「葬場祭(そうじょうさい)」に行くことになった。仏教では葬儀にあたるが、神道ではこのようにいう。恥ずかしながら、はじめて知った。
 亡くなったのは母の下の下の妹。とっても仲がよかった9人姉弟の5女で、残っているのはついに4女の叔母ひとりになってしまった。いまごろ、その叔母の目は泣きはらしていることだろう。
 まことに不謹慎ながら、次はだれかと考えてしまう。そしたら、われわれの世代だとおもいいたった。すでに3年前に逝ってしまった従兄もいる。気がついたら自分の順番が近づいていたのだ。おもわず、背中がゾクリ、とする。
 亡くなった叔父や叔母たちには、子どものころから本当にかわいがってもらった。いい思い出しかない。その思い出をたどるシーンが幼い日から、つい1、2年前までの記憶のあちこちにいっぱい散らばっているのは、つくづく幸せなことだとおもう。そして、そんな時代がごくふつうにあったころの日本人の家族の姿がたまらなくなつかしい。
 困ったときには援け合うとか、相手の身になるとか、自分のことは犠牲にしてとか、我が子とへだてなくかわいがるとか、子どもにはお腹いっぱいたべさせるとか、人が集まる家になれとか、決して豊かではない田舎の家で育った叔父や叔母たちは、人として大切なことをたっぷり教えてくれた。(その通りに身についています、とは言い難いが……)
 人が亡くなるとその人が山あり谷ありの人生の中で蓄えて来た、測り知れない知識や見識もみんな一緒に消えて無くなってしまう。ぼくが跡を継げそうなのは、その山塊のひと握りの土くれにも満たない。
 と、ここまで書いていたら、突然、長男が帰って来た。職場で叔母のことを話したら、「お店のことはいいから、すぐ帰って、お葬式に行っておいで」と言われたとか。本人は今晩の通夜に行きたいようだ。
 彼の新しい職場はカレー料理の小さな店で、経営者は親友のお姉さん夫婦。家族のように温かく受け入れてもらっているようで、どうやら居心地もいいらしい。
 息子にも同じ大家族の血が流れている。こうなったのも自然な道かもしれない。根も葉もない想像にすぎないが、叔母の訃報に接して、本当にそうなのかもしれないという気がしてきた。
 
■室見川の浅いところで昼寝(?)をしているカモメたち。いつも群れになって行動する。1羽が飛べば、のこりもいっせいに羽ばたいていく。

コメント

コメントをどうぞ

※メールアドレスとURLの入力は必須ではありません。 入力されたメールアドレスは記事に反映されず、ブログの管理者のみが参照できます。

※なお、送られたコメントはブログの管理者が確認するまで公開されません。

名前:
メールアドレス:
URL:
コメント:

トラックバック

このエントリのトラックバックURL: http://ichi-yume.asablo.jp/blog/2022/08/05/9515235/tb

※なお、送られたトラックバックはブログの管理者が確認するまで公開されません。