ブラジルからの「原爆許すまじ」 ― 2022年08月13日 09時24分

51年前にブラジルに渡り、サンパウロで元気に暮らしている高校時代の同級生がいる。ときどきメールが届いて、日本から一緒の船に乗って移住した人たちやコロナウイルスの状況などを伝えてくれる。
彼の胸のうちには日本にいたころの思い出やなつかしい景色がいっぱい詰まっているようで、先日はLineでこんなメールが送られてきた。
文章は「この動画をYouTubeでチェック」のひと言だけ。その下にアドレスが書いてあって、「原爆を許すまじ」の最初の歌詞が付いていた。
https://youtu.be/zq9pXGShrHk
翌日の夜中の零時過ぎ、つまり現地の正午過ぎに、またメールが届いた。
彼はこのブログを読んでくれている。送られてきた2通のメールをみて、これは彼に代わって、ぼくがささやかなりとも情報発信の手伝いをするべきだと判断した。そこで、本人には断りなしに、2回目に届いたメールの全文を記す。
ここ数年の長崎の原爆慰霊祭を見て感じたことですが「原爆許すまじ」の歌が流されません。この歌は、私が幼稚園(大村市)に通っていた時に初めて習った歌です。私の通った幼稚園は「純心幼稚園」と言って、以前は原爆孤児の保護施設でした。因って、保母さんたちは、カトリックのシスターでした。
そこで習った歌が「原爆許すまじ」だったのです。この音楽を聴くと当時を思い出します。子供心でも重っ苦しい曲で印象に残っていました。
高校時代にこの歌を久し振りに聴いた時「この怨み忘れまじ」と思わせる曲でした。それ程、強く印象に残る曲です。
長崎市から直線距離で約20kmはなれた幼稚園で、こんな歌を教えていたとは。
子どもたちにこの歌の重く深い言葉の意味がわかったとはおもえない。それでも以前は原爆孤児の保護施設だった幼稚園の保母さんたちは歌わせた。純心な子どもだからこそ、ぜひとも「三度許すまじ原爆を」の言葉を植えつけておきたかったのだろうか、70歳過ぎのかつての幼稚園児がいまだに記憶しているように。
ぼくはこのことに軽いショックを受けた。幼い子どもたちに向けて、そこまでやるか、という意見もあるだろう。でも、それは原子爆弾投下から77年も経ったいまだから、そう感じるのかもしれない。
広島、長崎の原爆の日を知らない人もいる。テレビのニュースで、アメリカと戦争したことさえ知らない若者がいると聞いたとき、あまりの無知さにがく然したこともある。
それに引き換え、ブラジルにいる友は毎年、長崎の原爆慰霊祭を地球の裏側から見ていたようだ。ぼく自身を含めて、被爆者でもないのに、いまどきそんな人がどれだけいるだろうか。
彼のメールの最後の方には、「この怨(うら)み忘れまじ」と書いてある。「怨み」とは穏やかではない。だが、日本をはなれて、遠くから祖国のことを気にしている人の発言はときに遠慮がなく、かつ核心的であることが多い。彼もまた日本を誇りにおもう男である。
ぼくは息子たちに、何度もこう話したことがある。
「日本軍がやったことはよくなかったけれど、アメリカ軍は子どもや女性、年寄りも関係なく、一般の人々を無差別に皆殺しにした。沖縄も東京、大阪、福岡の大空襲も、広島と長崎に落とした原子爆弾もそうだ。あれは歴史に残る戦争犯罪だ」と。
いまウクライナで繰り広げられているロシアの残虐な侵略戦争に対して、アメリカもわが身を振り返れば、けっして威張れたものではない。かつての日本も、相手国にとっては来てほしくなかった侵略者だったことが悔やまれる。
だが、「三度許すまじ原爆を」の歌は、日本からしか生まれなかった。ブラジルの友人の気持ちを代弁すれば、この歌まで風化させてはいけないとおもう。
■先週の土曜日、カミさんと一緒に地元のアビスパ福岡の応援に行った。ルヴァンカップのヴィッセル神戸戦。首尾よく1-0で勝利し、わがアビスパは初のベスト4にコマを進めた。
目を引いたのは、先ごろチームに合流したジョン・マリの迫力満点のプレー。ライン際でパスを受けるや軽やかなワン・ツートラップで、元日本代表の槙野を一瞬で振り切って、見事なアシストをやってくれた。サポーター総立ちで、歓喜爆発。
この日、アビスパはコロナ感染の影響が深刻で、ベンチ入りした選手はたったの3人。しかも2人はゴールキーパーという心細さ。試合が成立する、ぎりぎりの戦力という苦境のなか、選手一丸となって戦い抜いて、アビスパの前途に光明が差した。戦力が整わないまま、明日はリーグ戦だ。強敵の鹿島にアウエイで立ち向かう。
彼の胸のうちには日本にいたころの思い出やなつかしい景色がいっぱい詰まっているようで、先日はLineでこんなメールが送られてきた。
文章は「この動画をYouTubeでチェック」のひと言だけ。その下にアドレスが書いてあって、「原爆を許すまじ」の最初の歌詞が付いていた。
https://youtu.be/zq9pXGShrHk
翌日の夜中の零時過ぎ、つまり現地の正午過ぎに、またメールが届いた。
彼はこのブログを読んでくれている。送られてきた2通のメールをみて、これは彼に代わって、ぼくがささやかなりとも情報発信の手伝いをするべきだと判断した。そこで、本人には断りなしに、2回目に届いたメールの全文を記す。
ここ数年の長崎の原爆慰霊祭を見て感じたことですが「原爆許すまじ」の歌が流されません。この歌は、私が幼稚園(大村市)に通っていた時に初めて習った歌です。私の通った幼稚園は「純心幼稚園」と言って、以前は原爆孤児の保護施設でした。因って、保母さんたちは、カトリックのシスターでした。
そこで習った歌が「原爆許すまじ」だったのです。この音楽を聴くと当時を思い出します。子供心でも重っ苦しい曲で印象に残っていました。
高校時代にこの歌を久し振りに聴いた時「この怨み忘れまじ」と思わせる曲でした。それ程、強く印象に残る曲です。
長崎市から直線距離で約20kmはなれた幼稚園で、こんな歌を教えていたとは。
子どもたちにこの歌の重く深い言葉の意味がわかったとはおもえない。それでも以前は原爆孤児の保護施設だった幼稚園の保母さんたちは歌わせた。純心な子どもだからこそ、ぜひとも「三度許すまじ原爆を」の言葉を植えつけておきたかったのだろうか、70歳過ぎのかつての幼稚園児がいまだに記憶しているように。
ぼくはこのことに軽いショックを受けた。幼い子どもたちに向けて、そこまでやるか、という意見もあるだろう。でも、それは原子爆弾投下から77年も経ったいまだから、そう感じるのかもしれない。
広島、長崎の原爆の日を知らない人もいる。テレビのニュースで、アメリカと戦争したことさえ知らない若者がいると聞いたとき、あまりの無知さにがく然したこともある。
それに引き換え、ブラジルにいる友は毎年、長崎の原爆慰霊祭を地球の裏側から見ていたようだ。ぼく自身を含めて、被爆者でもないのに、いまどきそんな人がどれだけいるだろうか。
彼のメールの最後の方には、「この怨(うら)み忘れまじ」と書いてある。「怨み」とは穏やかではない。だが、日本をはなれて、遠くから祖国のことを気にしている人の発言はときに遠慮がなく、かつ核心的であることが多い。彼もまた日本を誇りにおもう男である。
ぼくは息子たちに、何度もこう話したことがある。
「日本軍がやったことはよくなかったけれど、アメリカ軍は子どもや女性、年寄りも関係なく、一般の人々を無差別に皆殺しにした。沖縄も東京、大阪、福岡の大空襲も、広島と長崎に落とした原子爆弾もそうだ。あれは歴史に残る戦争犯罪だ」と。
いまウクライナで繰り広げられているロシアの残虐な侵略戦争に対して、アメリカもわが身を振り返れば、けっして威張れたものではない。かつての日本も、相手国にとっては来てほしくなかった侵略者だったことが悔やまれる。
だが、「三度許すまじ原爆を」の歌は、日本からしか生まれなかった。ブラジルの友人の気持ちを代弁すれば、この歌まで風化させてはいけないとおもう。
■先週の土曜日、カミさんと一緒に地元のアビスパ福岡の応援に行った。ルヴァンカップのヴィッセル神戸戦。首尾よく1-0で勝利し、わがアビスパは初のベスト4にコマを進めた。
目を引いたのは、先ごろチームに合流したジョン・マリの迫力満点のプレー。ライン際でパスを受けるや軽やかなワン・ツートラップで、元日本代表の槙野を一瞬で振り切って、見事なアシストをやってくれた。サポーター総立ちで、歓喜爆発。
この日、アビスパはコロナ感染の影響が深刻で、ベンチ入りした選手はたったの3人。しかも2人はゴールキーパーという心細さ。試合が成立する、ぎりぎりの戦力という苦境のなか、選手一丸となって戦い抜いて、アビスパの前途に光明が差した。戦力が整わないまま、明日はリーグ戦だ。強敵の鹿島にアウエイで立ち向かう。
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