無農薬自然栽培のたのしさ ― 2022年08月17日 09時56分

トマトやキューリ、ミョーガなどの値段が少しずつ上がってきた。夏野菜の収穫期はそろそろ終わる。旬の食材の値段が変化していく様子は、猛暑のなかでも季節が着実に進んでいることを教えてくれる。
ぼくたち夫婦は市民農園を借りて、10年余りも畑仕事をたのしんだことがある。自宅から車で10分足らず、広さは20平方メートルほどの小さな菜園だった。ぜんぶで50区画以上もあっただろうか。高齢者が多く、みなさん、それぞれのやり方で野菜作りに挑戦していた。
ぼくらがやったのは無農薬自然栽培。肥料はEMボカシを使って、台所から出る生ゴミを発酵させたもの。専用のプラスチック製の容器に生ゴミを入れて、その上からEM菌を振りかけておけば発酵してくれるのだが、参ったのはその臭いこと。とくに液肥は効果抜群のすぐれものだが、茶色の液体はおもわず息を詰めたくなるほど臭かった。
容器が生ゴミでいっぱいになるたびに畑に運ぶ。鍬で畝を掘りあげて、生ゴミ堆肥を入れる。液肥はすぐ目の前にあった井戸から手押しポンプで水をバケツに汲み上げて、濃度を薄めたうえで野菜の株元にかけた。
自然栽培だから草は抜かない。背丈が伸びたら鎌で刈り取って、野菜の根元に置く。これが緑肥になる。また草たちは夏場は土の温度の上昇や乾燥を防いでくれるし、冬場は寒さから野菜を守ってくれる。
葉っぱの部分を刈り取られて、土のなかに残った根は微生物が分解して、これも肥料になる。根の跡は空気の通り道になって、固かった土は草の力でやわらかくなっていく。それは木々におおわれた山の土をみればわかることだ。自然は、自然のままでうまくやっている。
ぼくたちの畑は微生物の天国だったおもう。初めのうちは大量発生していたアブラムシやヨトウムシも、野菜が青々と健康に育つようになってからは目に見えて少なくなった。
元気なミミズがいっぱいいて、彼らは勤勉な「耕作人」だった。土は団粒構造でふかふかになって、連作障害も起きなかった。ここまで来るのに試行錯誤を繰り返して3年も、4年もかかった。
教本にしたのは、痩身のからだに白髪、白いヒゲがトレードマークだった福岡正信さん(故人。愛媛県伊予市)。自然栽培のパイオニアで、伝説の人である。彼が書いた『わら一本の革命』、『無の哲学』は、ぼくの畑づくりの指南書だった。
テレビ番組で見た彼の畑は雑草が生い茂っていて、どこにでもある草やぶだが、よく見ると大根や白菜などがあちこちで芽をだしていて、どれもたくましく育っていた。
タネの蒔き方も変わっていた。いろんな野菜のタネを混ぜた泥団子をそこら辺にポンポン放り投げるだけ。福岡さんはこのやり方で世界各地の砂漠の緑化にも貢献している。
この市民農園で、こんなことをやっていたのはぼくら夫婦だけ。まわりからは奇異の目で見られていると感じていた。
あるとき、だれかが見るに見かねたのか、絶対に拒否していた化成肥料を盛大にばらまかれたこともあった。こちらの居ない間にやられたことは詮方なし。黙々と白い化成肥料のひと粒ひと粒を拾って捨てたこともあった。
「どうですか、自然農法は。ここは変わっとるもんねぇ。草は抜かんとですか」
いつもこういって、笑っていた夫婦連れもいた。しかも、こんなことまで「忠告」してくれた。
「この間、うちの畑にもミミズがおったから、全部やっつけて捨てました。ミミズは害虫ですもんな」
こちらはカミさんと目を合わせて苦笑いするばかりである。
ある日、隣りの空いた区画に新しく加わって来た50年配の男性から声をかけられた。この人、ぼくらのやり方をずっと見ていて、草をかぶせた土をひとつかみすると、こう言ってくれたのだ。
「おぅ、(土が)でけちょる、でけちょる。あたなたちのやり方がいいんだよ」
さらに思いがけない言葉が続いた。
「福岡正信さんという人がいるんだけどね……」
なんと、この人、福岡さんの弟子だった。伊予市にある福岡さんの畑で、自然農法を手伝っていたという。ぼくたちはおもいがけずに無農薬自然栽培の本家筋の師匠にめぐり会ったわけだ。
「はい。福岡さんのことは知っています。本も読みました。」
「上等、上等。これからもっと土はよくなるよ」
ぼくらの畑の、たとえばミニトマトは、切って来た竹で支柱を立て、さらに天井部分にも竹を並べて、そこにミニトマトの茎を伸ばすようにしていた。枝芽はぜんぶ摘み取っているから、一本だけになった茎は気持ちよく伸びて行く。長さは6、7メートルにもなった。
そのロープのような茎に赤やオレンジ、黄色の丸い実をつけた。まるでミニトマトのぶとう畑である。ほかの区画にはない実りの景色だった。
一方で、大根やスーヨーキューリ、サラダ菜など、いろんな野菜を盗まれた。夏休みに遊びに来るお孫さんのために、大きなスイカを大切に育てていた人が、その宝モノのスイカを盗まれたこともあった。泥棒よけのために、鉄の棒とネットで畑を囲い込み、出入り口にカギまでつけた人もいた。
あれやこれやおもしろかった市民農園だったが、持ち主の農家の人が宅地として分譲することになって、あえなくゲームセット。あれほど手を入れてつくり上げた豊穣な土は、ただの平地になってしまった。
■ムギワラトンボ(青い色のシオカラトンボのメス)を見つけた。おう、いたのか、珍しいな。がんばって、子孫をたくさんつくってくれよな。
ぼくたち夫婦は市民農園を借りて、10年余りも畑仕事をたのしんだことがある。自宅から車で10分足らず、広さは20平方メートルほどの小さな菜園だった。ぜんぶで50区画以上もあっただろうか。高齢者が多く、みなさん、それぞれのやり方で野菜作りに挑戦していた。
ぼくらがやったのは無農薬自然栽培。肥料はEMボカシを使って、台所から出る生ゴミを発酵させたもの。専用のプラスチック製の容器に生ゴミを入れて、その上からEM菌を振りかけておけば発酵してくれるのだが、参ったのはその臭いこと。とくに液肥は効果抜群のすぐれものだが、茶色の液体はおもわず息を詰めたくなるほど臭かった。
容器が生ゴミでいっぱいになるたびに畑に運ぶ。鍬で畝を掘りあげて、生ゴミ堆肥を入れる。液肥はすぐ目の前にあった井戸から手押しポンプで水をバケツに汲み上げて、濃度を薄めたうえで野菜の株元にかけた。
自然栽培だから草は抜かない。背丈が伸びたら鎌で刈り取って、野菜の根元に置く。これが緑肥になる。また草たちは夏場は土の温度の上昇や乾燥を防いでくれるし、冬場は寒さから野菜を守ってくれる。
葉っぱの部分を刈り取られて、土のなかに残った根は微生物が分解して、これも肥料になる。根の跡は空気の通り道になって、固かった土は草の力でやわらかくなっていく。それは木々におおわれた山の土をみればわかることだ。自然は、自然のままでうまくやっている。
ぼくたちの畑は微生物の天国だったおもう。初めのうちは大量発生していたアブラムシやヨトウムシも、野菜が青々と健康に育つようになってからは目に見えて少なくなった。
元気なミミズがいっぱいいて、彼らは勤勉な「耕作人」だった。土は団粒構造でふかふかになって、連作障害も起きなかった。ここまで来るのに試行錯誤を繰り返して3年も、4年もかかった。
教本にしたのは、痩身のからだに白髪、白いヒゲがトレードマークだった福岡正信さん(故人。愛媛県伊予市)。自然栽培のパイオニアで、伝説の人である。彼が書いた『わら一本の革命』、『無の哲学』は、ぼくの畑づくりの指南書だった。
テレビ番組で見た彼の畑は雑草が生い茂っていて、どこにでもある草やぶだが、よく見ると大根や白菜などがあちこちで芽をだしていて、どれもたくましく育っていた。
タネの蒔き方も変わっていた。いろんな野菜のタネを混ぜた泥団子をそこら辺にポンポン放り投げるだけ。福岡さんはこのやり方で世界各地の砂漠の緑化にも貢献している。
この市民農園で、こんなことをやっていたのはぼくら夫婦だけ。まわりからは奇異の目で見られていると感じていた。
あるとき、だれかが見るに見かねたのか、絶対に拒否していた化成肥料を盛大にばらまかれたこともあった。こちらの居ない間にやられたことは詮方なし。黙々と白い化成肥料のひと粒ひと粒を拾って捨てたこともあった。
「どうですか、自然農法は。ここは変わっとるもんねぇ。草は抜かんとですか」
いつもこういって、笑っていた夫婦連れもいた。しかも、こんなことまで「忠告」してくれた。
「この間、うちの畑にもミミズがおったから、全部やっつけて捨てました。ミミズは害虫ですもんな」
こちらはカミさんと目を合わせて苦笑いするばかりである。
ある日、隣りの空いた区画に新しく加わって来た50年配の男性から声をかけられた。この人、ぼくらのやり方をずっと見ていて、草をかぶせた土をひとつかみすると、こう言ってくれたのだ。
「おぅ、(土が)でけちょる、でけちょる。あたなたちのやり方がいいんだよ」
さらに思いがけない言葉が続いた。
「福岡正信さんという人がいるんだけどね……」
なんと、この人、福岡さんの弟子だった。伊予市にある福岡さんの畑で、自然農法を手伝っていたという。ぼくたちはおもいがけずに無農薬自然栽培の本家筋の師匠にめぐり会ったわけだ。
「はい。福岡さんのことは知っています。本も読みました。」
「上等、上等。これからもっと土はよくなるよ」
ぼくらの畑の、たとえばミニトマトは、切って来た竹で支柱を立て、さらに天井部分にも竹を並べて、そこにミニトマトの茎を伸ばすようにしていた。枝芽はぜんぶ摘み取っているから、一本だけになった茎は気持ちよく伸びて行く。長さは6、7メートルにもなった。
そのロープのような茎に赤やオレンジ、黄色の丸い実をつけた。まるでミニトマトのぶとう畑である。ほかの区画にはない実りの景色だった。
一方で、大根やスーヨーキューリ、サラダ菜など、いろんな野菜を盗まれた。夏休みに遊びに来るお孫さんのために、大きなスイカを大切に育てていた人が、その宝モノのスイカを盗まれたこともあった。泥棒よけのために、鉄の棒とネットで畑を囲い込み、出入り口にカギまでつけた人もいた。
あれやこれやおもしろかった市民農園だったが、持ち主の農家の人が宅地として分譲することになって、あえなくゲームセット。あれほど手を入れてつくり上げた豊穣な土は、ただの平地になってしまった。
■ムギワラトンボ(青い色のシオカラトンボのメス)を見つけた。おう、いたのか、珍しいな。がんばって、子孫をたくさんつくってくれよな。
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