松本清張の大きな頭2022年08月20日 16時32分

 うそだろうとおもった。本当だとしたら超人ではないか。
 先日、夕食の準備がひと息ついたので、テレビをつけた。ローカルニュースで、没後30年の松本清張さんのことを取り上げていて、当時担当した編集者が彼の思い出話をしているところだった。そのなかでびっくりする発言があったのだ。
「清張は、多いときには雑誌に月10本の連載を持っていました。1日100枚書いていたんです」
 異なる作品の連載が月に10本なんて! 登場人物だけでも相当な数になる。筋書きだって、みな違うはずだ。
 さらに1日100枚とは! そんな大量生産なのに、作品の水準は落ちていない。ぼくの頭では想像すらつかない仕事の質と量である。
 ある本のなかで、人気作家の角田光代さんが「締め切りは月に20本。いちばん多いときは28本もあった」と言っていた。これにも仰天したが、清張さんの1日100枚は驚異的である。
 それがどんなにすごいことなのか、計算すればすぐわかる。
 400字詰めの原稿用紙1枚を、猛スピードの10分間で書いたとして、100枚なら合計で1,000分になる。すなわち約17時間かかる。それも食事もせず、トイレにも行かず、まったくの休みなしで、ぶっ続けに書いたとして、である。そもそも1枚10分なんて、神業に近いのだ。(だが、あのマンガ家の手塚治虫も追いつめられたときはすごかったという)
 当然、この間に関連の資料にも目を通しただろうし、書き直しもしただろう。また目の前に迫っている次の締め切り原稿を書くための準備も必要だったろうに。
 社会派推理小説の分野を切り拓いた清張さんの取材は徹底していたという。取材をしなければ原稿が書けない。この点だけは、ぼくにもよくわかる。
 取材は個人差がはっきり出るものだ。ここからはぼくのささやなか経験の一端を書く。
 駆け出しのぼくに、ある先輩が教えてくれたのは取材ノートの使い方だった。質問する項目を思いつくだけ書き出せと言われた。記事にするために、聞いておきたいこと、つまり知っておきたいことは山のようにある。そこで、ぼくなりに質問項目をいっぱい書き出して、先輩に見せた。すると、あれが足らん、これが抜けていると、ビシビシやられてしまった。その時点で、ぼくの取材力はライバル他社に負けていたことになる。
 こんなのは序の口で、先輩たちはいろんな方法を駆使していた。ほんの一例だが、夜の編集部でこんなシーンがあった。
 ある先輩は、電話案内を呼び出して、東北地方のある町の米屋や酒屋、牛乳配達の店の電話番号を聞き出していた。まだ米や酒などが専売制の対象だったころである。
 ぼくは何をしているんだろうとおもった。すると、こんな取材がはじまったのだ。
「お宅が米を届けている家に、××さんという人はいませんか」
 先輩は××なる人物の情報がほしくて、彼の出身地の米屋や酒屋の電話番号を調べて、片っ端らから電話をかけていたのである。
「あっ、いますか。それで××さんのことですが、ちょっと教えてください」
 米屋の配達先に、××さんの家があれば、その米屋は××さんの家族のことを知っている。うまくいけば、××さんの同級生もわかる。そうか、うまいことをやるものだと感心した。
 取材は情熱だ。そして、その熱意は相手にも伝わるものだ。事件のシリーズ企画を担当していたとき、こんなことがあった。
 警察取材で、週刊誌などの窓口になるのは副署長である。ある殺人事件の取材で、何度も出直して、副署長に食らいついていると、突然、「ちょっと失礼」と言って、彼が席を立った。机の上にはノドから手が出るほどほしい被疑者の取り調べの調書を置いたままだった。
「わたしがいない間に、見ていいよ」のサインである。
 ぼくはドキドキしながら、その調書をめくった。まわりの職員たちは見て見ぬふりをしていた。
 さらに、この副署長はこんな電話までくれた。
「読売さんが被疑者の立ち寄ったスナックを見つけたようだよ。××さん、あなたに教えてあげるから、取材に行ったら」
 完全にこちらの味方だった。駆け出しのぼくを、がんばれ、負けるなと応援してくれたのだ。そういう人があちこちにいた。
 清張さんには、担当の編集者という資料集めのプロがついていた。彼自身の取材力(文献集めも含めて)もすごかったようだが、この陰の軍団なしでは、あれほどの執筆活動はできなかったかもしれない。ちなみに尋常小学校卒の清張さんの子どものころの夢は新聞記者だったという。
 北九州市の小倉に松本清張記念館がある。館内を見てまわるだけで、その仕事ぶりに圧倒される。清張さんのあの大きな頭のなかには、いったいどれくらいの「未使用の知識」が詰まっていたのだろうか。