恩師が指導してくれた「角打ち」 ― 2022年08月25日 12時35分

わが家から歩いて3分もかからないところに間口4間ほどの酒屋がある。ここに引っ越してきたときにはなかなか羽振りのいい店だった。盆や正月には2、3人のアルバイト学生を雇って、2,000世帯以上もある公団住宅の注文をほぼ一手にさばいていた。
そのころ酒類販売の免許を持っていた酒屋の経営は独占状態で守られていたから、ちょっとした構えの酒販店の年間売上は数千万円を下らないと言われていたものだ。
だが、いまはこの店に客が入る姿を目にすることはない。すぐ近くにあるスーパーが根こそぎ客を奪ってしまい、かつての繁盛ぶりは二度ともどらぬ昔物語である。
これではとても持つまいとおもっていたら、あるとき店の外の横壁にすだれが立てかけられて、その奥から酒に酔った声が聞こえるようになった。
角打ちをはじめたのだった。酒は一滴も飲めない店主が客のご機嫌をとっているようで、ギャッハッハッという笑い声まで聞こえて来る。
いいな、角打ちか。ぼくも仲間入りして、冷酒でもひっかけてみようかとおもうときがある。角打ちにはいろんな思い出があって、なかでも「角打ちデビューの日」が忘れられない。
一浪して、東京の大学に行かせてもらった初めての夏休み。ぼくはアポイントもとらずに、中学3年生のときの担任だったK先生を自宅に訪ねた。
K先生は理科が専門で、あだ名はガマ。四角い顔にまるい眼鏡、ゴマ塩の頭髪は固そうで、いつも整髪料でフルバックにしていた。どこからみても、ガマの風貌ではなかったが、上級生たちがつけたあだ名を、ぼくたちは素直に受け継いでいた。
教室に掲げられていた先生の書は「誠実」。教室ではその通りのお人柄だった。怒られてビンタを張られた同級生によれば、その痛さは特攻帰りの国語の先生と双璧だったという。
そのK先生をひとりで訪ねたのだ。玄関に出て来たのは、ぼくと同じ年ごろの娘さんで、あいにく先生は不在だった。近所に出かけているという。どこか、と聞いた。
「駅前のパチンコ屋です。もうそろそろ帰ってくるとおもいますが」
「わかりました。パチンコ屋ですね」
5分後、ぼくはパチンコの台のなかをはねまわっている銀色の玉を、上から下へと目で追いかけているK先生の真後ろに立っていた。先生は左手に玉をつかんで、左の親指の先で一個一個を投入する穴に送り込みながら、右手の親指はリズミカルにバーをはじいていた。それは熟練者の手つきだった。
「K先生。(玉が)出てますね」
ガマ先生は顔をあげて、振り返った。おどろいた風でもなかった。
「おう、××か。よし、これで止めよう」
先生は箱の八分目ほどまでパチンコ玉を獲得していた。それを換金して2、3枚の千円札をポケットにねじ込むと、まだ真昼間だというのに、
「××、角打ちに行こう」とお誘いくださったのである。
ぼくはおもいがけない幸運(だって、先生がパチンコで負けていたら、どうなったかわからないではないか)に、子犬のようによろこんで、くっついて行った。酒屋には客はおらず、ぼくたち師弟の貸し切りだった。
「角打ちは初めてか。じゃあ、やり方を教えてあげよう」
そういって、先生はカウンターに用意してあった紙切れと鉛筆を取り出して、
「この紙が皿だよ。このうえに好きなつまみをとって、酒でも、ビールでも好きなものを飲んでいい。そして、注文した分は、この紙に書いておいて、後で清算すればいい」
先生はかつて知ったるわが家のようなふるまいで、一升瓶を棚からとりだして、小皿に立てたグラスになみなみと注いだ。酒がグラスからあふれて、小皿が満杯になった。なんだか得をした気分である。ほくもそれに見習った。
「どうだ、いいだろ、角打ちは」
「いいですね、先生」
あのときは先生にお付き合いして、同じ日本酒の銘柄を飲んだ。先生がお代わりするとぼくもそうした。先にお代わりしなかった。そこは師弟の礼節というものだ。
昼間に飲んだ酒で、あんなにうまかった一杯はなかった。ああ、こうして書いていると、もういちどK先生と角打ちをやりたくなる。
■先月の半ばに移植したトレニアが順調に育って、花が四方八方にひろがってきた。相変わらず水やりはおっくうだが、ここまできたら枯らすわけにはいかない。立ち止まって、この花をまじまじと見る人も増えてきた。
そのころ酒類販売の免許を持っていた酒屋の経営は独占状態で守られていたから、ちょっとした構えの酒販店の年間売上は数千万円を下らないと言われていたものだ。
だが、いまはこの店に客が入る姿を目にすることはない。すぐ近くにあるスーパーが根こそぎ客を奪ってしまい、かつての繁盛ぶりは二度ともどらぬ昔物語である。
これではとても持つまいとおもっていたら、あるとき店の外の横壁にすだれが立てかけられて、その奥から酒に酔った声が聞こえるようになった。
角打ちをはじめたのだった。酒は一滴も飲めない店主が客のご機嫌をとっているようで、ギャッハッハッという笑い声まで聞こえて来る。
いいな、角打ちか。ぼくも仲間入りして、冷酒でもひっかけてみようかとおもうときがある。角打ちにはいろんな思い出があって、なかでも「角打ちデビューの日」が忘れられない。
一浪して、東京の大学に行かせてもらった初めての夏休み。ぼくはアポイントもとらずに、中学3年生のときの担任だったK先生を自宅に訪ねた。
K先生は理科が専門で、あだ名はガマ。四角い顔にまるい眼鏡、ゴマ塩の頭髪は固そうで、いつも整髪料でフルバックにしていた。どこからみても、ガマの風貌ではなかったが、上級生たちがつけたあだ名を、ぼくたちは素直に受け継いでいた。
教室に掲げられていた先生の書は「誠実」。教室ではその通りのお人柄だった。怒られてビンタを張られた同級生によれば、その痛さは特攻帰りの国語の先生と双璧だったという。
そのK先生をひとりで訪ねたのだ。玄関に出て来たのは、ぼくと同じ年ごろの娘さんで、あいにく先生は不在だった。近所に出かけているという。どこか、と聞いた。
「駅前のパチンコ屋です。もうそろそろ帰ってくるとおもいますが」
「わかりました。パチンコ屋ですね」
5分後、ぼくはパチンコの台のなかをはねまわっている銀色の玉を、上から下へと目で追いかけているK先生の真後ろに立っていた。先生は左手に玉をつかんで、左の親指の先で一個一個を投入する穴に送り込みながら、右手の親指はリズミカルにバーをはじいていた。それは熟練者の手つきだった。
「K先生。(玉が)出てますね」
ガマ先生は顔をあげて、振り返った。おどろいた風でもなかった。
「おう、××か。よし、これで止めよう」
先生は箱の八分目ほどまでパチンコ玉を獲得していた。それを換金して2、3枚の千円札をポケットにねじ込むと、まだ真昼間だというのに、
「××、角打ちに行こう」とお誘いくださったのである。
ぼくはおもいがけない幸運(だって、先生がパチンコで負けていたら、どうなったかわからないではないか)に、子犬のようによろこんで、くっついて行った。酒屋には客はおらず、ぼくたち師弟の貸し切りだった。
「角打ちは初めてか。じゃあ、やり方を教えてあげよう」
そういって、先生はカウンターに用意してあった紙切れと鉛筆を取り出して、
「この紙が皿だよ。このうえに好きなつまみをとって、酒でも、ビールでも好きなものを飲んでいい。そして、注文した分は、この紙に書いておいて、後で清算すればいい」
先生はかつて知ったるわが家のようなふるまいで、一升瓶を棚からとりだして、小皿に立てたグラスになみなみと注いだ。酒がグラスからあふれて、小皿が満杯になった。なんだか得をした気分である。ほくもそれに見習った。
「どうだ、いいだろ、角打ちは」
「いいですね、先生」
あのときは先生にお付き合いして、同じ日本酒の銘柄を飲んだ。先生がお代わりするとぼくもそうした。先にお代わりしなかった。そこは師弟の礼節というものだ。
昼間に飲んだ酒で、あんなにうまかった一杯はなかった。ああ、こうして書いていると、もういちどK先生と角打ちをやりたくなる。
■先月の半ばに移植したトレニアが順調に育って、花が四方八方にひろがってきた。相変わらず水やりはおっくうだが、ここまできたら枯らすわけにはいかない。立ち止まって、この花をまじまじと見る人も増えてきた。
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