明日から入院2022年11月10日 19時45分

 明日の昼過ぎ、車で6、7分の総合病院に入院する。この1週間はめまぐるしくて、精神的にこたえた。こんな話は書くまいと決めていたのだが、これもぼくが生きている証(あかし)の一部である。いつまでも避けて通ることはできないので、やはり吐き出すことにする。
 いまも意識の底に鉛のかたまりがへばりついているみたいだ。「すい臓ガン」という言葉である。
 先週の金曜日(4日)、すぐ近くの小さな医院で無料の健康診断「よかドック」を受けた。カミさんがいちばん心配していたのだが、このごろのぼくは声が弱々しくなって、「ずいぶん痩せたね」と言う人たちもいて、そのことは自分も自覚していたから、12年ぶりに自らすすんで受けた検診だった。
 予想通り、以前からの糖尿病がほったらかしのままで悪化していて、医者から総合病院で徹底的に治療するコースを準備された。そのときは言われるままにすれば、血糖値が改善することは約束されているので、ああ、入院か、嫌だなぁ、と憂うつになる程度だった。
 そして、一昨日の8日、総合病院の糖尿病センターで、また採血されて、入院が決定。ここまでは想定したコースである。
 入院するには、さらに詳しい検査が必要ということで、その手順に従った。詳細は省くが、そこですい臓に腫瘍が見つかった、というわけである。
 翌日、つまり昨日に会った若い外科医の見解も同じだった。ただ、「まだガンだと確定したわけではありません」という慰めの決まり文句はついていたが、ぼくの方から「すい臓ガンでしょ」と念を押した。
「可能性はありますね」
「かなり高いんでしょ」
「まぁ、そうですね」
 そこからは早くも専門の検査と抗がん剤、手術の話に移って行った。もう、その気なのである。
 糖尿病のことで病院に行って、よりにもよって、「すい臓に腫瘍がある」と宣告された夜はさすがに眠れなかった。
 真っ黒な波間に沈み落ちて行くような長い、長い夜だった。何も知らずに隣りで眠っている妻の泣き顔が浮かんで、幸せにしてあげられなかったなぁと、かわいそうでならない。どうしても悪い方へ、悪い方へと想像が膨らんで行く。
 昨日、有給休暇を取ってもらい、家にいたカミさんに、昼食後すべてを話した。
 ガンが見つかって、逆によかった。手のほどこしようがないわけじゃない、手術ができるのは幸運だよ。息子がふたりとも福岡にいてよかったな。そんなプラス志向の面ばかりを言葉に力を込めながら話をした。カミさんはじっと堪えてくれたが、ひとりの夜はきっと泣くだろうな。
 長男と次男には「入院の間、おかあさんを頼むぞ」と電話で報告した。ふたりとも「むしろ見つかってよかったじゃない。そうおもった方がいいよ。入院中、おかあさんのことはちゃんとフォローするから」と言ってくれた。
 これもめぐりあわせだろうか、幸いなことに次男は漢方薬のメーカーで営業をやっている。お得意先には、医者から見放されて、漢方薬のお陰で末期ガンから全快した人もいるという。
「病院とは別に、やれることはやってみたいんだ。漢方薬でガンの増殖が止まってくれればいい。大量に飲んで、できれば少しでも小さくなってくれたら、もっといい。そしたら医者の見方も変わるだろうから。お前の仕事の守備範囲で協力してほしいんだ、頼むよ」
「もちろん!!」
 いつもの次男らしく、きっぱりと力強い言葉が返ってきた。
「ありがとな」
 不覚にも危うく声がふるえそうになった。
「アドバイザーがいっぱいいるから、いろいろ聞き込んで、しっかりやるから。おかあさんのことも兄貴と連絡をとってフォローするよ。それで、お金の方は大丈夫なの?」
 長男は昨夜、仕事を終えて駆け付けて来た。
「おかあさん、ぼく、泊まりにくるよ」
 今夜は、長男と宮崎に出張中の次男もさっそくおすすめの漢方薬を持ってくるという。
 ぼくの戦いは、たちまち家族全員が支えてくれる総力戦になった。
 しみじみおもう、いつの間にか、ふたりとも頼りになる男になったなぁ。そして、妻がいて、ふたりの息子が近くにいてくれてよかったなぁ、と。
 これから先、このブログを闘病日記にするつもりはない。それは「風のひょう吉」にはまるで似合わない。
 どういう運命が待ち受けているかわからないが、予定では、明日からたぶん半月ほど三食昼寝付きの治療の旅に出ることだけは決まっている。
 まぁ、これも人生だ。ぼくが書く散文も、これを契機にひと皮もふた皮もむけそうな予感がする。

※知人の方へ。ご覧のように結論も、経過も、まだ何も出ていません。ご静観ください。

■道ばたにトノサマバッタが一匹いた。まわりに仲間はいない。はぐれものの、ひとり旅か。おい、お前。これからどこへ行くんだ。気をつけるんだぞ、元気でな。

ライ麦畑でつかまえて2022年11月14日 13時33分

 ノートを開けたら、こんな文章を書きとっていた。

 階下(した)へ行ってマル・ブロッサードが何をしているか、見てみようと思ったんだ。が、急に気が変わってね。急にあることを決心したんだな。ペンシーから飛び出してやれ――そのまま、その夜のうちに飛びだしてやれ――そう僕は決心したんだな。

 これは青春小説の『ライ麦畑でつかまえて』のなかにある文章である。
 たぶん、そのときのぼくは、ああ、プロの作家はこうやってストーリーを転回するのかと感心して、その具体例として書き写したのだろう。主人公に「急に気が変わってね」と言わせるなんて、上手い方法を考えついたものだ。
 それはともかく、『ライ麦畑でつかまえて』には青春時代のほんわりした恋の思い出がある。
 大学2年生のとき、ぼくは早稲田大学界隈の小さな書店で、3か月ほどバイトをしたことがあった。本屋の仕事は、朝のうちに届く雑誌や本を書棚に並べる、返本する商品は箱詰めして取次店へ送り返す、という繰り返しで始まる。
 その本屋にはひとり娘のE子さんがいた。ぼくよりも二つ年上の小柄で色白、笑顔のかわわい人である。店主の父親はでっぷり太って、いつも黒っぽい着流しで、洋服姿をみたことがなかった。母親は3時になると自宅の茶の間に呼び入れて、お茶を淹れてくれる控え目な人だった。
 E子さんは都内の私大を卒業して、実家の手伝いをしていたというわけである。
 本屋の二階の四畳半には、北海道出身の幼友だちというバイト生が二人いた。いまでは珍しい住み込みで、暇さえあればギターを弾いて、フォークソングを歌っていたっけ。
 店の構えは小体でも商いの方は手堅くやっていて、教授たちに高額な専門書を売り、付属中学部の教科書の販売を一手に収めていた。人もそうだが、あまり客の来ない店だって、みかけだけではその奥にある実力を判断できないのである。
 ぼくはふたりのバイト生とも仲良しになった。彼らの部屋で安いウィスキーを飲み、窓から隣の二階建ての屋根のてっぺんに登って、真下を流れている神田川に放尿したこともある。夜だから怖くなかったのだろう。いまおもえば危険極まりなく、足が震えそうな高さだった。もちろん、本屋の家族も、その家の人たちも、何も気づいていなかった。
 少し上流には橋がかかっていて、剣道部の主将のYさんが1年生のときに早慶戦で敗けて、悔しくてたまらず、その橋から神田川に飛び込んだという伝説があった。このYさんには数々の爆笑ものの武勇伝がある。
 話を急ぐ。
 ある日、下宿のおばあちゃんから、「これ、××書房の娘があなたに渡してと持ってきたよ」と紙包みを手渡された。
 なかに入っていた本が『ライ麦畑でつかまえて』だった。便箋が1枚はさまれていて、そこには「わたしの大好きな本です。読んでください」という短いメッセージがあった。
 この本は高校時代に読んでいたから、別の本だったらよかったのに、と少しがっかりしたが、本の題名がひっかかった。なにしろ『ライ麦畑でつかまえて』である。
 『ライ麦畑で』は余計で、ぼくに伝えたかったのは、『つかまえて』なのかもしれない。そういえば、彼女からそんな気配を何度も感じたことがあった。でも、ぼくは気立てのよい、やさしいお姉さんという感覚だったから、彼女から好意を持たれていることははっきりわかっていたけれど、こちらは地方からやってきた学生バイトの身分である。いただいた本は読まずに下宿の机の上に積んだままにしておいた。
 時は流れて、ぼくは練馬区へ引っ越した。
 あるとき、外出から帰ると郵便受けのなかに、ぼくあてのメモがあった。そのなかに「××さんのアパートまで来ました。ドキドキしています。 E子」と書かれていた。
 こうして彼女と久しぶりに会い、旧安倍球場沿いの坂道を一緒に歩いているとき、
「わたしと一緒になって、本屋をやってくれないかな」と言われたのである。
 あのとき、急に気が変わって、急にあることを決心して、「ぼくもそうおもってました」なんて口走って、力いっぱいの抱擁と熱いキスでもしていたら、ぼくの人生にどんな景色がみえていただろうか。

■十月桜が咲いている。これから寒い冬を乗り越えて、春まで咲き続ける。

選挙参謀のころ2022年11月17日 13時58分

 今日はちょっと硬くて、長い話になるかな。
 今度の日曜日は福岡市長選の投票日。選挙の結果は見えている。48歳、現職の高島宗一郎市長(大分市出身)は絶頂期と言えるほど自信に満ちている。今回の争点は前回と同じく現職の信任投票だから、ほぼ無名に等しい野党統一候補がどこまで批判票を集められるかが注目点である。
 評論家風なことを言うなと叱られそうだから、ここからはぼくが参謀を務めた選挙戦の体験を初めて書く。(参謀は表に顔を出すものではないと決めていたので)
 まだ固有名詞は明かせないが、2期目を目指す現職側の陣営で、敗色濃厚な首長選をひっくり返したことがある。足早にざっと振り返るとー、
 まず、公示直前に敵が奇襲を仕掛けて来た。当時の選挙区では現有の文化施設が老朽化していて、新しい大型の文化施設の建設計画が議会で承認されていた。ところが、その議案に賛成票を投じた某議員が手の平を返して、「箱もの行政」批判のビラを全戸に撒いて立候補したのだ。
 ビラは新聞の号外そっくりに作られて、発行元の出版社の名前も載っていた。知らない人がみたら、いかにも客観的な報道記事だと受け取られるようにしていたのだ。だが、内容はねつ造そのものだった。原始的なブラックジャーナリズムの手口である。
 ただし、その威力はすごかった。「箱もの行政」という言葉は反発を呼びやすい。そして、実際に大型施設を建設することは決まっている。敵はそこを突いて来たのだ。しかも、裏金に数百万円が動いているという利権話まででっち上げて。
 わが陣営は猛烈な逆風に立たされてしまった。選対事務所の面々は怒り心頭だったが、しょっぱなから作り話の情報戦で先行されて、住民からは批判の声があがり、事務所のなかは重苦しい空気に一変してしまった。ポツリポツリと出る言葉は、いっそのこと文化施設の話には触れずおこう、こんなデマは無視するしかない、という声ばかり。
 それは敗者の道である。そんなことをしたら、相手に好きなように得点を与え続けて、こちらは受け身一方の言い訳に追い込まれてしまう。ここは真正面からがっちり受けとめて、何がなんでも「箱もの行政」への批判を正反対の賛成へと転じなければ勝ち目はない。
 ぼくもそうだったが、選対のなかでいいアイデアはだれも持っていなかった。だが、こんなときのやり方は知っている。わからないこと、知らないことは取材をすればいいのだ。
 そこで単独行動で、それらしい人の知恵を求めて歩いた。そして、たどり着いたのが「タイシン」だった。折しも阪神大震災の恐怖が生々しく残っていたころ。さっそく、ペンをとって、反撃の原稿を書き、こちらもビラを撒いた。
「新しい文化施設は最新の耐震構造です。いまの古い建物は大地震が来たら崩壊する危険があります。住民の皆さん命を守るために、いますぐ必要なのです」
 以後、敵の「箱もの行政」という唯一、最強の攻撃はピタリと止まった。
 次は現職の強みを最大限に生かすことにした。両隣の著名な首長を呼んで、看板役者のそろい踏みを演出し、ニュース性の高い地域ビジョンを練って、「○○○連合の××サミット」を立ち上げる企画を書いた。
 その際、事前に記者クラブに手まわをして、必ず記者発表をやること。写真撮影は3人の首長の真ん中に立つことを、現職の候補者に何度も念を押した。朝刊にでかでかと載った記事も写真も、当然のように主役はわが候補者になっていたのは、こちらの計算通りである。
 選対の人たちはその新聞を広げて驚いていたが、なんということはない、元記者として、よくある広報戦略のやり方をやっただけのことだ。
 ぼくの書いた戦略メモ「勝利のシナリオ」では、ここまでは情報戦、それから先は組織戦だ。その主役は女性たち。
 ある日の午後、選対事務所で炊き出しをしている女性たちを集めて、現状の分析と彼女たちにしかできない役割をわかりやすく説明した。みんな初めて聞く戦場の話である。
「この選挙戦のカギを握っているのはあなたたちです。ここにいる7人がスタートです。今夜、ご家族にいまの話を伝えることから始めてください。そこから順々に仲間を増やして行って、2日後、3日後と少しずつ大きな波を起こしましょう。横のつながりのある女性だからできるんです。こんなことは男どもにはできませんからね」
 話を終えたとき、彼女たちがうれしそうな顔をしていたことを思い出す。
 友人のデザイナーに頼んで、ポスターもつくった。その際、縦と横のデザインを用意した。選対本部の面々に参加意識をもってもらうために人気投票をやったのだ。
 男性陣が選んだのは、何十年も変わらない縦のポスター。女性陣の意見も聞いた。彼女たち全員が選んだのは横のデザインだった。やっぱりね、である。相手候補者のポスターをみたら、案の定、女性陣が嫌だと言っていた縦のデザインだった。
 エプロン姿の女性たちは思いがけずに、自分たちの出番ができて、頭に「必勝」の鉢巻きをきりりと締めて、自分から勇んで選挙カーに飛び乗るようになった。
 最後の総決起大会では、男性たちは全員が後ろに下がってもらい、女性部がビラ作りから受け付け、式次第作り、司会進行までのぜんぶを取り仕切った。いつの間にか、前代未聞の女性たちが表に出る選挙戦になっていた。(もちろん、男性たちもそれぞれの持ち場で奮闘した。)
 大会の会場は押しかけた人たちで入りきれなかった。女性たちがいっぱい集まった。その数は近くで開かれていた敵の総決起大会を文句なしに圧倒した。
 こうして投票日の前夜、ぼくたちは勝利を確信したのだった。
 舞台裏を明かせば、ポスターは故中川一郎氏のそれを参考にさせてもらった。女性陣への働きかけは、これも前例があって、前参議院議長の山東昭子氏が参院全国区に初出馬したときのやり方をヒントにした。
 山東氏は田中派が担ぎ出した候補で、企業ぐるみ選挙とたたかれたが、実は全国各地の自民党候補の選挙事務所の女性たちを味方につけていたのだ。
 そのやり方はこうである。元女優の彼女が選挙事務所を訪ねたとき、真っ先に向かったのは食事当番の女性たちのところ。この思いがけない行動がエプロン姿の女性たちをいたく感激させ、山東ファンになって、全国各地で女性たちが燃え上がったのである。
 最後に断っておく。選挙もやはり人である。あのときの現職候補は、ぼくにポンとまとまった資金を渡して、ひと言も口をはさまず、好きなようにやらしてくれた。戦略と作戦を立て、選挙公報からスローガン、ビラのすべてを書かせてもらった。それらを選対のみんなが息を吹き込んでくれた。感謝しかない。

 脚本家の内館牧子さんがどこかで書いていたように、これからは自分の気持ちのなかに残っているもの(どなたもお持ちだろう)は出し惜しみをしないで、散文にもどんどん書いて行こうかなとおもっている。

■昨日の午後、カミさんが着替えを持って、面会に来てくれた。ふたりの間の壁はガラス張りで、荷物を直接手渡しすることもできない。顔をみながら、話はスマホで。許された時間は10分間だけだった。

■先ごろ、カミさんと団地の花壇をきれいにして、自宅にあったゼラニウムを植えた。いま、花たちへの水やりも彼女の当番になっている。

馬鹿だった2022年11月21日 12時44分

 今ごろになって、そうだ、そうだった、と気がついた。なんて馬鹿なんだろうと。
 ひょっとしたらという色気も多少はあって(宝くじだってそうでしょ)、よっちら、よっちら楽しみながら書き上げた散文(小説)を懸賞に応募して、すでに3回落選。いや、まだたったの3回だけか。
 まぁ、予想的中だから、やっぱりなと納得しつつ、最優秀に選ばれた人はすごいなぁ、プロはこれで食っているのだから、もっともっとすごいよなぁ、よく勉強しているよなぁ、と手の届かない、はるかな高みを見上げながら感心するばかりである。
 でも、そもそも売れている作家は昔も今もほんのひと握りしかいないのだ。まして出版不況が長引いているので、出版社からの仕事は本が売れる見込みのある人に殺到する。その他おおぜいの作家たちは声もかけてもらえない。でも、売れっ子作家の新刊本もそんなに売れていないのだろう、ブックオフの棚に大量に並んでいる有様だから。
 小林秀雄は作家になる心得を尋ねられて、そのひとつに「むずかしい本を読むこと」と書いていた。しかし、乱発される類の本はテレビのショー番組同様に、その場限りの消耗品のような気がする。そして、そのことに非常な危機感を持っている心ある作家たちもいる。
 ぼくが書いた下手な散文は選者たちの目からみたら、まるで商品価値がなかったことになる。いわゆるゴミ箱直行のボツ原(稿)と同じだ。いまは70歳過ぎて応募する人が増えているというから、いっぱいいるんだろうな、同じような人たちが。
 ネットに載っている小説公募の条件をみると、例外なくどこかに応募した作品はお断り、と書いてある。
 さらに落選した原稿は書き直しても当選の見込みはありません、次の作品に取りかかりましょう。書きたいテーマの引き出しは多い方がいいのですというアドバイスも書いてある。
 これをみて、ぼくはそうなんだろうなぁ、とおもっていた。そこが馬鹿だった。
 かわいがってくれた先輩のエース記者が原稿用紙に書いては消し、書いては消しをしていたことは、このブログでも紹介したことがある。
 大江健三郎は何度も書き直し、書き直ししながら、最後まで原稿を書き上げて、それからまた最初から書き直している。チェーホフも、村上春樹もそうだ。彼らは言葉や文章を磨きあげることをむしろ楽しんでいるらしい。
 ぼくが若いころ鍛えられた週刊誌の編集部でも、書き上げた特集記事をぜんぶやり変える光景はめずらしくもなかった。ぼくも何度も経験している。そんなことは百も承知だったはずなのに、散文の全面書き直しをしないままだった。
 落選した散文はみたくもないが、パソコンからもういちど引っ張り出してみようかな。
 唐突ながら、太宰治が井伏鱒二の選集記に寄せた文章にこんなことを書いている。当時、井伏が40歳のころのことである。

-井伏さんが銀座からの帰りに荻窪のおでんやに立寄り、お酒を呑んで、それから、すっと外へ出て、いきなり声を挙げて泣かれたことがあった。ずいぶん泣いた。途中で眼鏡をはずしてお泣きになった。私も四十歳近くになって、或る夜、道を歩きながら、ひとりでひどく泣いたことがあったけれども、その時、私には井伏さんのあの頃のつらさが少しわかりかけたような気がした。-

 結局は、この違いなんだね。書き直し云々(うんぬん)前に、肝心なことがあるということか。

 いまお隣のベッドから、おばんさん看護師さんが74歳の入院中の男性に言い聞かす声が耳に入ってきた。
「いいわね、このままじっと動かないようにしてね。息はしていいからね」
 ここまでわりとまじめに書いてきたのだが、おもわず噴きだしてしまった。

■井伏鱒二の本を持ってきた。こんな文章を書ける人は、いまはいないみたいだなぁ。

何も知らないままだった2022年11月23日 10時50分

 入院生活のことを書く気はなかったが、これだけは書いておいた方がいいとおもうことが出てきた。それは「話ことば」について、である。話し方とか、説明能力と言ってもいい。
 なぜ、こんなことを書く気になったのか言えば、かかりつけの開業医の言うことを信じていたら、とんでもないことになっていたという話をいくつか耳にしたからだ。それは、ぼく自身にも思い当たることだった。
 ある74歳の男性は某大病院で診察を受けたとき、すでに目に映る景色は黒いカーテンが降りたように暗くなっていて、2mはなれた人の顔がよく見えなかったそうだ。
 信じられないことだが、視力はだんだん悪くなっていて、そんな差し迫った深刻な事態になっても、10年間も通っていた田舎の開業医はいつもと同じように薬を出すだけだったとか。
「自分が儲かるためでしょ。何も知らん、つまらん医者ですよ」
 60歳を過ぎて、毎日毎日が恐ろしくなって、別の医者に診てもらったら、あわてて福岡市内の大学病院を紹介されたというのだ。
 そこで初めて、自分のからだの異変を知ることになった。糖尿病が限界近くまで悪化していた。眼の網膜の細い血管はボロボロになって、眼球の奥はほぼいちめん出血していたのだ。まちがいなく失明する寸前だった。
 さいわいアメリカから最新の治療機器が導入されたばかりで、網膜に広がっていた微細な180個もの出血をひとつ一つレーザーで治療してもらい、1日2時間の治療を半年間つづけて、真っ暗闇の生活にならずにすんだという。以前のようには見えないけれど。
 もうひとりの71歳の男性は10年ほど近所の開業医に通い続けていた。処方は投薬だけで、血糖値はいつまで経っても下がらなかった。
 医者はいつも「あまり変わらないねぇ。食事に気をつけて、運動をして」の繰り返し。専門医でないのは明らかで、この医者で本当に大丈夫かと不安になって、別のクリニックを訪ねた。すると「こりゃあ、大変だ」と驚かれて、この総合病院に入院したという。ちなみに、彼の血糖値はぼくと同じぐらいだった。
 そこを乗り越えてきた彼らはみな精神力が強い。同世代のぼくを「大丈夫ですよ」と励ましてくれる。
 自分のことも言っておく。
 実は10年ほど前、かかりつけの医者から糖尿病と診断された。通院すること半年間。血糖値は少しばかり改善したが、おもうほどではなかった。医者から精密検査を受けるように紹介されて別の中規模の病院でも検査を受けた。そこで言われたのは、「糖尿病でも、そんなに深刻ではありませんよ」
 人のせいにするわけではないが、それで気がゆるんでしまったのは事実である。医者に診てもらっても変わり映えしないなと自分に都合よく解釈して、それまで通り、酒は飲む、メシは食う、運動はしない、の三拍子そろった生活を続けていた。それで何ごともなかった。
 糖尿病がここまで悪くなっていたのがわかったのは、先日、同じ医院にインフルエンザの予防接種に行き、自分から病歴の欄に「糖尿病」と書き込んだからである。そこで無料の高齢者向けの簡単な検査を受けて、いまの入院となったわけだ。
 入院して数日後、ぼくはあることを知って驚くことになる。
 この総合病院には2週間入院して糖尿病を改善する教室がある。それに参加している人たちは、いずれも開業医の紹介で来たのだが、その人たちの血糖値を聞いて、少なからずショックを受けた。
 彼らは10年前のぼくのそれよりも低かったのだ。どうしてもそのときの時点まで時間を戻して、立ち止まってしまう。
 自業自得と言えば、その通り。だが、医者によって、判断はこうも違う。
 長くなってしまったが、ここからが書いておきたいことである。
 ぜんぶがそうだとは言わないが、医者は話し方が下手くそ、ということだ。その裏側には、自分は専門家ではない、よく知らない、という自信のなさが隠されている。
 だれでも知っている常識的な話はどうでもいい。生活習慣病という厄介な病気を抱えている自分の、いまの病状の進行はどの程度なのか。血糖値が下がらないね、とかではなく、それまでの検査で得られたデータを分析して、自分にはわからないけれども、いまどんなことがからだで起きているのか。
 具体的に、たとえば医者として血管がどうなっているとおもっているのか。すい臓から出ているインスリンの量はどれぐらいと判断できて、それは取り返しのつかないレベルなのか。このままでいたら、半年後、1年後にはどうなるのか。
 つまり、自分では気がつかないからだの兆候や変化について、わかりやすい根拠や症例をあげながら説明してくれることを、ぼくたちは求めているのだ。「変わったことはないかね。ちゃんと食事に気をつけて、運動もしてね」ではないのである。
 自信がなければ、さっさと専門医のいるころへバトンタッチすればいい。そういう地域医療のシステムになっているのだから。
 ぼくは、たまにしか行っていない主治医を非難する気はない。ただ、これ以上、悪くなることを防げる可能性があったのに、自分の知らないうちに、その可能性の芽を摘んでしまわれたことを後から知る。そんなことの無いように願って、今日のブログを書いている。
 多くの開業医はサラリーマンや自営業者のように実社会でもまれたことがないのではあるまいか。相手の気持ちを汲み取りながら、わかりやすく、きちんと説明するコミュニケーションの訓練が不足しているのかもしれない。持ち時間に制約はあるだろうが、診察で費やす言葉の数も、説明の仕方も、ぼくには不十分に感じられてならない。
 専門医師のチームをはじめ看護師や医療器具、設備も充実している、このきれいな総合病院でお世話になって、そのことがよくわかった。
 糖尿病の医師たち、これから世話になる外科医について、ここの若い女性の看護士さんは「最強のチームですね」と言っていた。

■今日は待ちに待ったワールドカップの初戦。相手は優勝候補の西ドイツ。観たいなぁ。でも、試合開始はちょうど消灯時刻の午後10時。カーテンで仕切られた暗い部屋で、イヤホンを耳につけて、レンタルの小型テレビにかじりつく人もいるんだろうな。写真は談話室の壁掛けテレビ。

ひとまず退院できた2022年11月26日 17時42分

 ここの看護師さんたちは本当によく働く。この病棟の6階の三分の一ほどが20代の女性で、やっと仕事に慣れましたという人もいる。入院中の男女は白髪頭がほとんどだから、艶やかな黒髪の彼女たちとって、担当する相手は年寄りのじいちゃん、婆ちゃんだらけである。
 先日、ぼくは大腸カメラの検査を受けるために、朝から2リットルの下剤を2時間かけて飲んで、腸のなかが空っぽになるまで、何度もトイレに通った。仕方がないから嫌でもやったのだが、あれをやると腸は大掃除されて、なかがきれいなる。そこで年に一回、健康のために自分からすすんで、この下剤を飲む看護師さんもいるという。
 下剤のあとに水もガブ飲みして、廊下を歩きまわって、何度目かのトイレ直行の苦しさが終わって、そうだ、お尻をきれいにしておこうという気になった。洗面台で熱いお湯を出して、タオルを濡らして絞って、ベッドに戻って、外から見えないようにクリーム色のカーテン閉めた。その閉め方が中途半端だった。
 パンツを下ろして、尻を丸出しにして、入念にふいていたそのとき、「××さん」と声をかけられた。
 すでに、とき遅し。
 中途半端に開いていたカーテンのすき間に、白い看護服が立っていた。そのときパンツを下ろしたままのぼくのからだは、彼女の真正面を向いていた。
「すみません!」
 カミさんにこのことを電話で話したら、あっさり言われてしまった。
「看護師さんもイヤなモノを見たね。若い男の人だったらよかったのにね」
 この看護婦さん、とっても感じのいい娘さんで、ほかの患者からも好かれているのがよくわかる。彼女だけではなく、ここの看護士さんたちはみな明るく、ほがらかで感じがいい。職業柄とはいえ、そうそうできることではない。よほど鍛えられているのだろう。
 彼女たちの仕事は休みなしである。しかも、人一倍、神経を遣う。たとえば注射の薬剤の種類も量も、必ずふたりでチェックするという。
「とくにインスリンは危険ですからね。なんでもダブルチェックします」
 体温、血圧、血糖値などの記録だけではない、その日の体調の聞き取りも、立ったまますぐ小型の台車の上に乗せているパソコンに打ち込んでいる。それらデータは瞬時に医師たちも共有する。治療の根幹ともいえる重要なシステムを、彼女たちが支えているのだ。
 夜勤の仕事はこちらの目に留まる範囲だけでも過酷である。夜中も患者の世話を焼いている。ナースステーションからは信号発信機のような音が寝静まった病室まで断続的に聞こえて来る。就業規則では2時間の休息時間があっても、30分ほど横になれるのが精いっぱいだという。
 入院中の中国人の男性は、「日本の看護師さんは、看護師以外の仕事をいっぱいやらされている。どうして彼女たちが食事まで運ばなければならないの」と信じられない顔をしていた。
 朝6時過ぎにベッドにやって来る彼女たちは、いまさっき目が覚めたばかりのように元気で、溌剌としている。しかし、「大変だね。よくがんばるね」と声をかけると、
「もうくたくたです。夜勤が終わって、車で帰るときは、頭がボーッとしているのに、どこかまだ緊張してるんですよ。夜勤明けはひたすら寝ています。先日は目が覚めたら、夜の8時でした」
「みなさんの朝の食事を運ぶとき、みそ汁のいい匂いがして、お腹が空いて。もう、バテバテです。はやく朝ごはんを食べたくなります」
「わたし3人姉妹の真ん中で、28歳になったんですよ。そろそろ結婚したいですけどね。でも、夜勤明けは寝てばかり。そんなことは起きそうもないです。年末にこちらは夜中も働いているのに、急性アルコール中毒で意識不明になって、服をべったり汚して救急車で運ばれてくる若い男の人もいるんですよ。ベッドまで運んで寝せて、やっと起きたとき、ここはどこですかって。まったく、なにをやっているんでしょうかねえ」
 あのときの姿をみられてしまった、この28歳の看護師さんがとくにぼくのお気に入り。いつもマスクをしているので、ぜんたいの顔立ちはわからないが、ほうっておくのはもったいないほど、かわいいタイプの美人である。こまかいところに気がまわって、仕事もできるし、気立てもいい。
「うちの息子の嫁さんに来てくれたらなぁ」
 カミさんにそう伝えた。
「来てくれたら、いいのにねぇ」
 自分のからだも、それぞれの人の都合も、こちらの思うようにはいかないものだ。
 今日は午前中にひとまず退院できた。途中まで書いていたブログの続きを、こうして久しぶりにわが家で書いている。
 やっぱり看護師さんたちよりも、カミさんのいる家がいい。軽くやりたくなって、半月ぶりに赤ワインを買って来た。

 昨日の午後、先日も書いた元気のいいおばさん看護師が、またお隣のベッドの脇にやって来た。今度は大きな声でこんなことを言っていた。
「からだをよくするのは力が要るの。エネルギーが要るのよ。
 命と健康とどっちが大事か、よく考えてほしいのよ」

■写真は病室に持ち込んだ自製の月間進行表。今月になって入院生活の書き込みだらけになった。

ミツバチが思い出を連れてきた2022年11月28日 16時30分

 自転車で学校へ急ぐ高校生たちには目もくれずに、ミツバチが朝っぱらから一心不乱に働いている。
 室見川河川の遊歩道(このあたりでは人気のウォーキング、ジョギング、サイクリングコース)を歩いていたら、植樹された木の小さな白い花にミツバチが集まっていた。
 ブーンとかすかな羽音を立てて、花の房にとまっては蜜を吸っている。その様子がかわいらしくて、しばらく観察した。
 いったいどれぐらいはなれたところから飛んで来たのだろうか。ここには遠い北の国からやって来たコガモの群れもいる。そういうぼくも宮崎の山奥から鹿児島の田舎の港町、小倉、東京と渡り歩いて、ここまでたどり着いた。
 それは線路の旅だった。子どものころから線路が好きだった。
 コールタールの匂いが染みついた枕木の上に腹ばいになって、ひんやりした鋼鉄のレールに耳をぺたりとくっつける。じっと耳をすませていると、かすかにカタン、カタン、カタン、という音が聴こえはじめる。列車の重い鉄の車輪がレールとレールの継ぎ目をたたきながら近づいて来る。
 タカン、カタカタン、カタカタカタン。
 音はだんだん大きくなる。それにつれてぼくの心臓もドクン、ドクン、ドクン、と速くなるのだった。
 あれはずっと向こうの未来からの音だった。いつかきっとこの町を出て行くときが来る、子どもごころにそうおもっていた。そして、めぐりめぐって、いまこの地に立っている。
 錦江湾にのぞむ港町から旧小倉市の小学校に転校したとき、担任だったT先生から一枚の絵が送られてきた。
 おおきな画用紙に、絵の得意な先生が描いた水彩画で、手前の下の方には赤やピンクのレンゲ畑、右側にはなつかしい山の稜線が遠近法でスケッチされていた。その山並みの麓には国鉄職員の父たちが建設した線路が海岸線に沿って伸びている。そして、画面の左の奥には噴煙たなびく桜島が小さく描かれていた。
 先生からの「忘れないでな、元気でがんばれ」という声が聞こえてくるようだった。
 大好きだった港町を去るとき、ぼくは父、母、姉と家族そろって、始発の上り線ホームに停まっていた二両編成のディーゼル列車のなかにいた。ホームにはT先生と同級生たちがおおぜい来てくれた。クラスの半分以上の20人ほどもいただろうか。
 ブオォーン。
 発車の合図の汽笛が鳴って、オレンジ色の車体はぶるん、ぶるんと小刻みに震えながら、そろりと動き出した。いっぱいに開いた窓は一緒に遊びまわった友だちの顔だらけだった。くりくり坊主頭やぼっちゃん刈り、おかっぱに三つ編み。みんな一緒に動きはじめた。
 列車の速度が歩く速さから急ぎ足になる。窓際にいる顔や顔がついて来る。
「××くーん」、「××くーん」
 ぼくの名前を叫ぶ声が青い空に吸い込まれて行く。あっという間に列車は短いホームをはなれた。
 あぁ、みんなともお別れだとおもったそのとき、いちばんの仲良しだったK君がホームから飛び降りた。T先生も、男子も女子も波頭が崩れ落ちるように次から次に飛んで降りた。赤や白や青の服が線路の上をいっぱいに広がって、手をふりながら追いかけて来る。
「また来いよぉー、××くーん」
 60年以上も前に、そんなことがあった。
 人は未来を想像しながら、過去と一緒に暮らしている。いままでのすべてが昨日のことのようである。
 歩く途中に出会ったミツバチはT先生がくれた、あの絵のレンゲ畑と楽しかった日々を思い出させてくれた。
 絵のなかのレンゲ畑でもよく遊んだ。ピンク色の花のじゅうたんのなかに寝っ転がった耳元で、ブーンという音がした。いまは見かけることもない、まるっこいからだのニホンミツバチである。
 ミツバチたちはおとなしい性格で、手でつかまえても、ほとんど刺されることはなかった。何度つかまえても、なにごともなかったように、そのへんの花の蜜を集めていた。
 ぼくにとってはごくありふれたことだったけれど、ニホンミツバチもいなくなって、もう同じ体験はできそうもない。