AIと人のこころ2023年07月08日 11時26分

 いま何かとさわがしいAIによる文章の作成について、気がついたことを書き留めておく。
 前回のブログで認知症にかかった友(O君)のことに触れた。頭脳明晰で、発想が抜群におもしろくて、顔を合わせるたびに、「いまね、やりたいことがあるんだ。聞いてくれる」が挨拶代わりだった。
 ぼくが出京して、彼の行きつけの喫茶店で向き合ったある日の午後、おすすめのエスプレッソコーヒーを飲みながら、こう切り出したことがある。
「ある学説の論文を書くとするじゃない。そのときにテーマをパソコンに打ち込むだけで、これまでの膨大な論文の中から関連する必要な要素がツリーのようにつながって出てきて、最終的には目的の論文の文章が完成する。そんなのができたら、いいなぁとおもって」
「へえー、ということは、これまでの人類の膨大な知恵が必要に応じて、たちどころに整理されて取り出せるわけか。それって基本的には編集のノウハウだよな。問題はそれらのデータをどうやって集めて、どう分類するかだな」
「そう。時間はかかるけど、仕組みはつくれるとおもうんだ。やってみる価値があるとおもうけど、どうおもう?」
「おもしろいな。いつかそうなるかもしれんな。それって使える範囲は論文だけじゃないよな。革命が起きるよな。お前ならやれるよ、やってみろよ」
 なんのことはない、ビッグデータの活用から、いまにつながっているAIの話をしていたわけだ。長年の付き合いから、彼がここまで言うからには単なる思いつきではなく、だいぶ研究しているんだなと察しがついた。10年前のことである。
 思い出に浸っていても仕方がないので、話を飛ばす。
 さまざまなジャンルの原稿を書いてきたぼくにとって、AIの脅威としてすぐ頭に浮かんだのは、定型化した文書や記事だけではなく、小説やエッセイの分野にもAIが進出してくるのではないか、ということだった。実例を挙げての報道もあった。
 極端に言えば、書き手の仕事がなくなるかもしれない。そんな寒々とした光景が頭のなかをひんやりよぎって行った。
 未知の事態に遭遇したとき、漠然とした恐怖心と警戒感が入れ混じった自己防衛本能が働くものだが、AIについてもいまがそのときなのかもしれない。
 なにしろAIは膨大な文章表現のデータを有しているらしい。夕焼け空の表現ひとつにしても、海面を赤く燃えるように染める夕陽、山の稜線をほの明るく紫色に照らす夕暮れの空など、AIはデータ化されたありとあらゆる言葉のなかから、たちどころに上手な表現を見つけ出すのだろう。とてもぼくなどの及ぶところではない。
 うんうん唸って、ぴったりの言葉を探す苦労も要らなくなる。恋愛小説だって、ミステリーだって、たちどころに完成原稿をつくれるようになるという話も耳にした。コンピューターはとうとうここまで来たのかとおもった。
 だが、待てよ、AIはつまるところ、使いこなしてなんぼの道具ではないのか。
 人が文章を「書く」ときには、「考える」という行為がくっついている。多くの作家たちが言うように、筋書きも、結末も、書き始めてみなければわからないところがある。
 これに対してAIは目標(結末)を設定した上で、過去のデータの中から最善手を選び出すのを得意とする。人間の頭と人工のAIとでは、文章作成のアプローチの仕方が根本的に違うのだ。デジタル技術に疎いので、間違っているかもしれないが、そう外れてはいないだろう。
 では、どちらの文章が人の心に残るだろうか。肝心なのはそこだ。
 たとえば、日記はどうか。字が汚くても、書き直しがあっても、メモでもいい。それはかけがえのない、その人だけの記憶の海の入り口になる。AIで日記を書いたら、それは自分ではなく、他人が書いた日記になってしまうのではないか。手紙もそうだろう。どうもそんな気がする。
 対談の編集企画はどうか。育ちも、個性も、得意分野も異なる人と人とが直接会って語り合う。そこで予期せぬ化学反応が起きる。もし、AI同士が対談したら、同様のことが起きるのだろうか。それとも大ゲンカになるのだろうか。
 こんなことが起きるかどうかわからないが、ぼくが見てみたいのは、最適の解を導くはずのAIが互いに自説を譲らずに、大ゲンカするシーンである。そうしたら、こう言ってやろう。
 あのね、人間社会は矛盾だらけ、わからないことだらけなんだよ。AIを使って、悪いことをする人も出てくるんだよ。人間はね、簡単じゃないんだよ。
 ああ、こんな非生産的なことをO君と話したい。

■雨の音が聞こえる。北部九州は今日の午後から明日にかけて大雨の恐れがあるという。カミさんは夜の7時からJ1のアビスパ福岡の応援に行く予定。たまたまNHKがその試合を中継する。でも、やっぱり現場がいいんだろうな。
 写真は先日室見川で撮影したもの。カモの子どもが2羽、親から離れまいと水のなかで懸命に両脚を動かしている。昨日からの雨で増水している今は、どこに避難しているだろうか。この親子はこれから本番を迎える真夏の暑さにも耐えきれるだろうか。

伝えきれない人たち2023年07月21日 13時45分

 先ごろ2年ぶりにアフリカのザンビアから戻って来た友人に会った。首都ルサカ(標高1,300m、人口233万人)には日本の無償資金協力で建てられた病院が5つある。それらのマネジメントを強化した上で、有機的につないで地域医療の骨格を整備するというのが、JICAから派遣された彼の仕事だった。そのプロジェクトが終わったという。
 友人は前年にもボランティアの立場で1年間、現地で活動している。今回の国家プロジェクトは、そのときに彼が取り上げた今後の課題から生まれたものだった。本人はやり残してきた宿題を現地で汗をかきながら完遂したわけだ。
 若いころに日本を飛び出して、ヨーロッパを旅して歩き、まったくのど素人なのに中東の大型プラント建設の工事現場に飛び込んだこともある、いかにも彼らしい挑戦だった。なぜか、ぼくはこういうタイプとウマが合う。
 ちなみに彼は30歳のころ病院の経営コンサル会社から仲間3人と独立して、定年退職するまで大きな病院の業務改善や地域医療システムの立案に取り組んできた。ただし、前の会社に就職したときも、医療や経営についてはまるっきり門外漢からのスタートだった。
 こう言っては失礼だが、ま、一般的には変わり者の部類に入るだろう。
 彼が日本チームのリーダーで、官庁出向の若手エリートと考え方が衝突して、何度も言い合いになったと聞いて、そいつはいいやと愉快になった。30代前後の若手ばかりの少数チームのなかに、経験豊富な67歳の父親みたいな彼がいて本当によかったとおもった。
 高学歴とか、身分とか、高尚な理論とかが、どこでも通用するほど世のなかは単純ではない。泣いている子どもの前でそんなものは何の役にも立たない。男女の仲だって、そうではないか。
 いまは彼も自由の身である。話は自然に「これから何をやろうか」ということになった。
「人生はホント、一瞬だからなぁ。死んだらみんな無くなっちゃうからなぁ。癌で死にかかって気がついたんだけど、自分のことを伝えきれずに死んだ人はいっぱいいると思うんだ。俺も死んだオヤジやオフクロのこと、知っていたようで、知らないことばっかりだ。自分の息子との関係もそうなるんだろうな。やっぱり、自分の得たものや経験は伝えないといけないよなぁ」
「そうですね。でも、あまり自分のことは言いたくないですね。なんだか偉そうにしているなと思われたくないですからね」
「そうなんだよな。だから上から目線はよくないよな」
 こんなことをしゃべっているうちに、では小説家は何を書き残しているのかという話になった。ふたりで交わしたよもやま話では確証が持てないので、手元の文庫本を開くと、たとえばこんな文章がある。
 -肌合いの相違というものは仕方のないもので、東京生まれの作家の中には島崎藤村を毛嫌いする人が少なくなかったように思う。私の知っているのでは、荷風、芥川、辰野隆氏など皆そうである。漱石も露骨な書き方はしていないが、相当に藤村を嫌っていたらしいことは「春」の批評をした言葉のはしはしに窺うことが出来る。最もアケスケに藤村を罵(ののし)ったのは芥川で、めったにああいう悪口を書かない男が書いたのだから、よほど嫌いだったに違いない。書いたのは一度だけであるが、口では始終藤村をやッつけていて、私など何度聞かされたか知れない。そういう私も、芥川のように正面切っては書かなかったが、遠廻しにチクリチクリ書いた覚えは数回ある。作家同士というものは妙に嗅覚が働くもので、藤村も私が嫌っていることを嗅ぎつけており、多少気にしていたように思う。そして藤村が気にしているらしいことも、私の方にちゃんと分っていた-
 よくもまぁ、平気でこんなことを書いて本にしたものだ。だれが書いたかと言えば、あの文豪・谷崎潤一郎である。
 もっと凄いのは深澤七郎の文庫本、『言わなければよかった日記』で、その中には『とてもじゃないけど日記』、『変な人だと言われちゃった日記』などが収録されている。
 タイトルからして人を食っている。内容はまるで自分の恥とドジのオンパレードだが、クスリと笑ってばかりではいられない。そこには常識の枠にとらわれない生き方の、この人ならではの人間味が躍動している。
「とにかく書くなり、話すなりして、伝えることだね。××君はいろんな経験をしているから、伝えることがいっぱいあるだろ」
「そうか、そうですね」
「でもなぁ。ぜんぶをさらけ出せないよなぁ」
 結局、ぼくたちは伝えきれない大勢の人たちと同じように、分相応に落ち着くところに落ち着きそうである。でも、気を取り直して、どうでもいいようなことでも、このブログで書き続けていこうかな。
(読んでいただている方へ。闘病日記になるのが嫌で、ついつい休筆しがちです。でも、そのこともフタをしないで書くことにします)

■先日の北部九州を襲った大雨で、目の前の水路から水があふれて、並行している道路まで川になった。この水路は100メートルほど先で室見川に合流するのだが、本流の方の水位も上がっていて、水の逃げ場がなくなったらしい。この地に移ってから、こんなことは初めてだった。

ウナギ捕りのこども名人2023年07月23日 10時19分

 30日の土用の日を控えて、スーパーではウナギのかば焼きの予約販売がにぎやかである。原寸大のウナギのかば焼きの写真がどーんと入ったチラシが行く先々の店頭に貼ってある。ウナギにとっては、一年中でいちばん迷惑至極な受難の日であろう。
 それにしても値段が高くなったものだ。ニホンウナギは絶滅危惧種に指定されているが、絶滅危惧種をひっそりとならまだしも、こんなに大騒ぎして食べていいのだろうか。きちんと保護しないでいいのか。何のための指定なのか。なんでこんなにわかりにくいことをするのだろう。
 子どものころ、生まれた土地の宮崎県北部のちいさな町はV字型の地形で、急斜面の底には一級河川の五ヶ瀬川が流れていた。父の仕事の関係で、小学校1年生を迎える春に引っ越した鹿児島県の桜島の南方にある港町にも、当時住んでいた鉄道官舎のすぐ下を子どもでもヒョイヒョイ渡れる浅い川が流れていた。どちらの川もアユやウナギがいっぱいいた。
 あのころのウナギは買うモノではなかった。食べたくなったら、川から捕ってくるモノだった。もちろん、すらりとした天然モノで、ボテッとした養殖ウナギなんか見たこともなかった。捕ってきたウナギは父が包丁で割いて、七輪に乗せた金網の上で焼いた。天然ウナギの本格炭火焼である。
 都会の小倉に引っ越して、初めて養殖のウナギを食べたとき、両親は妙なものが口に入ったというような顔をして、「養殖モノは脂ぎってて、においが臭い」と箸を引っ込めた。ぼくも「こんなのウナギじゃない」と食べる気がしなかった。
 ウナギは水がきれいな川にいる。養殖ウナギは濁った池で飼われている。天然ウナギの好物は生きているアユなどで、養殖ものは何だかわけのわからないものを食べて大きくなっている。絶対に天然モノの方がおいしい。それがぼくたちのジョーシキだった。
 父はウナギ捕りの名人だった。そのことはいつか別の機会に書くとして、子どもたちのなかにも名人がいた。昭和30年はじめのころの田舎の子どもたちの川遊びがどんなものだったか、ほんのごく一端を書いておこう。
 その男の子の名前は忘れてしまったので、仮にN君としておく。同級生だったが、ぼくたち悪ガキたちとは一緒に遊ばない静かな男の子で、夕方ちかくになると自宅のすぐ前を流れている川にやってくる。いる場所はいつも決まっていて、地べたから川のなかに一歩踏み出したところにある、人ひとりが座れるほどの石の上である。
 水の深さは30から40センチぐらい。歩くような速さで流れてくる水はこの石にぶつかって、ゆっくり渦を巻きながら左右に分かれ、底の方の水流は石の下へと潜って行く。ウナギはその石の下にある暗い穴の奥に隠れているのだ。
 石の下の穴のなかに、腕を突っ込むと肩まで水に浸かってもまだ奥まで届かない。一辺が50センチほどの四角い石の下がどうなっているのか。どこにウナギの隠れ家があるのか、解けない謎だった。大雨が降れば小さな川はたちまち濁流となって、石の下の構造もがらりと変わってしまうのだ。
 ぼくはウナギ用の釣り針を太い糸で結んで、そこらへんから大きなミミズをつかまえてきて針につけて、その釣り針を小刀で切った短い竹竿の先に引っかけて、そっと石の下に突っ込むのだが、いくらやってもウナギは食いつかないのである。
 ところが、おとなしいN君だけは特別の才能があった。見たところ道具もエサも釣り方もぼくらと変わったところはない。違うところは必ずブリキのバケツを横に置いていることで、それは絶対に釣る、という自信の表れなのである。そして、その通りになるのだった。
 彼がいるのは10分か、せいぜい20分ぐらい。40センチほどのウナギを釣り上げるとさっさと店じまいして家に帰る。そこには1匹だけしかいないことを知っているのだ。数日置いて、また同じ場所に座る。空き家になった石の下に、別のウナギが棲みつくのを川の様子で窺(うかが)っているのである。
 N君が大きなやつを釣り上げるとぼくたちは拍手喝采をしたものだが、だんだん見慣れて来て、N君はとうとう川の景色の一部になってしまった。この石はN君だけの聖地になった。ぼくらはみんなあきらめた。
 お馴染みの井伏鱒二に、ウナギ釣りに関するこんな文章がある。
 -夕方になると、翌日の釣り場に豫定した鰻の穴を一つ一つ竹切れでこねまわして歩き、素人の私たちに釣れないように鰻を威かした。翌日、自分だけが釣るためである。怖るべき自信であり、怖るべき釣り技である-
 N君もまた怖るべきウナギ釣りの名人であった。今でもウナギをみると、あのころの川の匂いや暴れまわるウナギを両手でつかまえた感触を思い出す。

■買い物の途中、ハグロトンボを見つけた。すぐそばには農業用の細い水路が通っている。水とトンボは切っても切れない仲。あの鹿児島のちいさな川には、川面を覆いつくすように赤トンボの群れが飛んでいた。

ウナギからの伝言2023年07月25日 09時34分

 山、川、海で暗くなるまで遊びまわっていた子どものころは、春夏秋冬の毎日が日替わりの冒険だった。
 あれは夏休みが始まったころだったか、近くの川にいたウナギをめぐって忘れられない事件があった。
 ある日突然、小学校の友だちが大声を上げて、息を切らしながら、ぼくの家に駆けこんできた。
「××君、来て! 早く来て! 川がすごいことになってるよ!」
「どうしたの」
「いいから、手ぬぐいとバケツを持って、早く来て!」
 ガラガラと玄関の戸を開けて、すぐ下の方を流れている川を見た。何人かの子どもたちが半ズボンのまま中に入って、何かを追いかけている。ワーワー叫びながら、水しぶきを上げて走りまわっていた。
「ウナギだよ! ウナギだらけなんだよ!」
 わけもわからず、それっ、と崖のような細い下り道をひた走った。
 川幅は3、4メートルほどしかない。大きな石や小さい石がごろごろしている浅瀬に、ウナギがうようよいた。
 石と石との間の水の通り路に白い腹をくねらせながら、上流からとめどもなく流れて来る。見たこともないような大きいやつもいる、まだ子どものウナギもいる。
 白いタオルの端を両手にギュッと握りしめて、ぼくはズックを履いたまま獲物たちのまっただなかに飛び込んだ。足が滑らないように、お尻がぬれるほど腰を落として、できるだけ大きいヤツに狙いを定める。
 つまかえた。ぬるりと逃げた。ギュッとつかまえた。するりと逃げた。
 逃がしても、逃げられても、次のうなぎが目の前にくねりくねりと流れてくる。
 力いっぱいつかまえた。また逃げた。ランニングシャツもずぶ濡れになったが、もう、おもしろくて、おもしろくてたまらない。持って帰って、とうちゃん、かあちゃん、姉ちゃんをびっくりさせてやろうとおもった。
 顔を上げたら、男や女の大人たちも混じっていた。ほんのわずかの時間に、ゆっくりした川の流れは大人たちと子どもたちが入れ混じっての狂乱狂喜の奔流になっていた。
 何匹つかまえたのか、記憶にないが、終末はあっけなかった。
 結局、ぼくたちはつかまえたウナギをその場でぜんぶ川に放してやることになったのだ。
 だれかが「農薬のせいだ。食べたら死ぬぞ」と言い出したのである。その声はあっという間に広がった。「捕るな! 食べたら死ぬぞ!」という声が方々で挙がって、ぼくは固まってしまった。だれもウナギを追いかけなくなった。
 みんな心のどこかで、こんなのはおかしいぞ、と感づいていたのだろう。ぼくもその場に突っ立ったまま、足もとにやってきた大きなウナギを見送った。
 そのうち、「農薬じゃない。だれかがサンショウの粉かなんか、魚がしびれるクスリをまいたんだ。毒じゃないぞ」と言い出す声が耳に入った。
 人間には害がなくて、魚をしびれさせる木の皮か草を川に流して、漁をする話は聞いたことがあった。だが、「いや、農薬だ。上の方のたんぼで農薬を撒いているのを見たんだ」という声が決め手になった。
 テレビも電話もなかったころの田舎の子どもだったから、全国的な社会問題について何も知らなかったが、昭和30年代の半ばごろまで毒性の高い農薬が使われていた。ぼくたちの川で大量のウナギが死んだとき、全国各地のたんぼの畔にもタヌキやキツネの死骸が点々と転がっていたという。その有名な事件がぼくたちのところでも起きたのだ。あれは初めて身近に体験した公害であった。
 小さな町を揺るがした農薬事件があってから、しばらくの間、川から魚たちは消えた。自然保護という言葉もなかったころだが、それでもまもなく、また元のたのしい川に戻ってくれた。
 いま地球で起きていることは、あのころとは自然破壊のスケールもスピードも異次元で違う。元の地球に戻ってほしいけど、もう戻ることはない。だんだん酷くなるばかりだ。
 あのウナギの大量死から30年ほど後、いまから30年ほど前に、ぼくは家族と一緒にこの川を訪れたことがある。あのころの景色は、石ころも、岸辺の雑草も、子どもたちも、何も残っていなかった。生きていた川は人が寄りつかない澱んだ流れになっていた。
 それでも、いまでも、子どもたちには自然のなかで感じてほしいことがあるから、こんなことがあったんだということを書いておく。

■朝方の涼しいうちに室見川へ散歩に行く途中の公園で、ヤマイチジクの実が目に入った。黒くて艶やかに熟したまるい実がたくさんついている。イチジクが出まわる時期は、ヤマイチジクも食べごろの季節を迎える。甘くて、イチジクと同じような、ちょっと野性的な風味がある。
 そこは目立つ場所で、ちいさな子どもでも手の届く高さなのだが、だれも採った形跡はない。野鳥たちが増やしてくれたのだろう、この木は公園のあちこちにある。子どもたちに教えてあげたらよろこぶだろうなぁ。
 財布のなかに小さく折りたたんで常備しているビニール袋をとりだして、黒い実を選んでちぎった。その数37個。薄い塩水で汚れを落として、キッチンペーパーでふいて、ぜんぶ冷凍室に入れた。手製のヨーグルトにトッピングして、今夜仕事から帰って来る、イチジクが大好きなカミさんに出してあげよう。

もうひとつのドラマがあった2023年07月27日 14時47分

 気がつかないところで、どんなドラマが進行しているのかわからない。つくづくそうおもうことがあった。
 意を決して初めて受診する歯科医院に行った。4、5日前から右の奥歯の上と下とが痛みはじめ、すぐ治療に行けばいいのに、少なからずブレーキになったのは馴染みの医者を替えることだった。どこの歯科医がいいのか迷って、延ばし延ばしになっていた。
 主治医を替えたのはそれなりの理由があってのこと。今年の1月に半ばに歯周病の定期健診に行ったときが事の発端だった。
 あの日のことはよく覚えている。治療用の椅子で仰向けになっていると珍しく医院長が最初からやって来て、「このオヤシラズはもう駄目ですね。こりゃ、抜いた方がいいですね。抜歯しましょう」と言い出したのだ。
 医者は後ろに立っている。こちらは仰向けのままだから、まるで頭上から降って来る天の声を聞かされるようなものだ。ふいにとんでもない爆弾を落とされて、「ええっ、そんなぁ」である。
 反論したくとも動きがとれないので、白い天井に向かって言うしかないが、面と向かって言いたいことがあった。何しろ、これまで聞いていた話と180度違うのだ。
「もう抜いた方がいいんですけどね。でも、××さんは抜きたくないようだから、努力して大事にしましょう。ただ、いずれは抜くことになりますよ」
 これまでは、そういう物わかりのいい話だったのだ。
「止めてください。痛くも何ともないんだから。このオヤシラズが右の奥歯のブリッジを支えてくれている(ブリッジがなくなると歯が2本消失する)から、ふつうに食べられるんですから。抜くのはお断りします」
「抜いた方がいいんだけどなぁ。これを抜いても噛むのはそう困らないし、抜いたら悪いところはみんな無くなるのだから、もう何も心配しないでいいんですよ。そっちの方がいいいでしょう」
「いや、すごく不便です、困ります」
「ふぅ。わかりました。じゃあ、今日は止めておきます。でも、次回は抜歯しますからね」
 ざっと、こんなやりとりがあったのである。さらに支払いの窓口でまた延長戦があった。副医院長(医院長の奥さん)が「次回は抜歯しますから」と念を押して来たのである。さすがに、ムカッときた。
「本人が了承していないのに、抜歯するんですか」
「ええ、治療ですから」
「では、また次回にぼくの方から先生に希望を伝えます」
 そう言って、ムシャクシャした気分のまま、通い慣れた歯科医院を後にしたのである。
 そのときは翌月に迫っていたすい臓癌の手術のことで頭がいっぱいだった。医者には、癌のことも、抗がん剤治療を受けていることも言わなかった。言う必要もないし、言いたくもなかった。家に帰ってからもしばらく不愉快だった。歯医者を替えようかな、初めてそうおもった。
 だが、このときすでに、もうひとつのドラマが進んでいたのである。
 退院してから2か月後、カミさんがその歯科医院に行った。腕前がいいと評判の医者で、彼女の方がこことの付き合いは長い。その日、医院長は不在だったという。
 それからひと月後の5月のある日、同じ歯科から帰宅したカミさんが急ぎ足で近づいて来た。
「医院長、亡くなったんだって。待合室に張り紙が出てたの。大腸癌だって」
 それからしばらくの間、彼との最後のやりとりを何度も思い出しているうちに、ぼくの頭にひとつの架空のドラマがありありと浮かび上がってきたのだ。
 -あのとき彼は、自分は癌だとわかっていた。余命わずかなことも知っていたんだ。だから、あんなにしつこく悪いところをぜんぶ取ってしまえば、あとはもう大丈夫みたいな言い方をしたのだ。
 だったら、奥さんがきびしい顔をして、「治療ですから」と言い出したのも合点がいく。あの夫婦は手遅れになった癌と向き合って、奇跡を信じて最後まで戦っていたのだ。そうでなければ、人が変わったように「とってしまいましょう」とか、「治療です」なんて言い出すわけがない。
 ぼくのオヤシラズをそのまま放置していたら、まるで癌細胞が転移するように、他の歯まで悪くなってしまうのを恐れて、さっさと抜いてやろうと決めたんだろう。生きているうちに医者の責任を果たしたかったのだ。だからあんなに強硬だったんだ。そういうことだったんだ-
 この推測が当たっているかどうか、もはや確かめる術(すべ)はない。だが、ぼく自身も癌だったから、同じ病人の直感としてそうおもえてならない。もしも、ぼくが彼だったら、同じことをしたかもしれない。
 お互いに自分のからだのことは黙っていて、最後はケンカみたいになったけど、ひとまわり年下の彼も、同じ癌患者同士だった。ぼくと彼の生と死は紙一重の差で分かれたのだ。
 患者も多くて、よく働く人だった。彼の死を確かめに行きたくない。もう二度とあの医院長がいなくなった歯科医院に行くことはないだろう。

■散歩の途中で、セミの抜け殻を見つけた。空蝉(うつせみ)とも言う。その姿と寂しげな言葉にいろんなことをおもう。

記者会見の見どころ2023年07月29日 09時04分

 中古車販売業大手のビッグモーターの詐欺にも等しい修理費の水増し事件。人の車によくもあんなことができるなぁ、やった後でどんな顔をしてお客に説明していたんだろう、そのときの顔を見てみたいものだと、あきれ返っていたが、先日同社のトップ以下の記者会見をテレビで見て、「ああ、こういう人か」と、その印象に輪をかけた気持ちになった。
 案の定、ニュースの続報では世の中の道理に反する同社のやり口がぞろぞろ出てきた。一部の保険会社もグルになっていたらしい。整備された街路樹の無断撤去なども現場から中継されて、同社のブランドも信用もたちまち地に堕ちた。
 不正問題の根っ子にあるのは、どうやら人並み外れた個人の欲望のようだ。××したい、××になりたい、という欲はだれしも持っているものだが、底知れない欲望と権力が合体すると人を人ともおもわなくなって、最後にはこんなことになる。その暴走の見本がまたひとつ加わったということだろう。
 記者会見はやり直しのきかない一発勝負だから、人間性がモロに出てくることがある。当事者は想定問答を繰り返したうえで、記者たちの前に登場するのだが、ふっと気がゆるんだ本音のひと言やまだ何か隠しているなと勘づかれると、火に油をそそぐはめになる。
 そうなったら最後で、記者たちは俄然、報道人としての使命感を燃やすのだ。とりわけ大きな社会的事件の場合は、はげしい取材競争の幕が切って落とされる。
 ぼくにもこんな経験があった。細かい部分の記憶は定かではないが、早稲田大学で入試問題漏洩事件(1980年)がM新聞へのタレコミによるスクープで明らかになったときのこと、ぼくは独断で母校の記者会見場に駆けつけた。用意された会場は新聞、テレビの記者たちが殺到していた。
 繰り返すが、取材に行ったのはぼくの判断で、デスクから指示されたわけではない。だが、事の重大性からどうしてもその場にいたかったのだ。
 その夜遅く、単身である人を訪ねた。夜討ち取材というよりも、その人に会って、ひと言伝えておきたいことがあった。
 訪問先は、母校の総長の自宅である。初対面だったが、彼は迷惑そうな顔ひとつせず、落ち着いた様子で、応接間に通してくれた。その場でぼくはこんな話をした。
「今日の記者会見場は、早稲田の卒業生の記者でいっぱいでした。みんな、なんでこんなことが起きたんだと衝撃を受けて、ふだん以上に取材の熱が入っています。M紙にスクープされたから、なおさらです。間違いなく取材合戦が始まります。そうなると記者たちは何から何まで徹底的に取材して報道します。
 ですから、大学側の広報が非常に大事です。言えないこともあるでしょうが、隠すと余計に記者は燃えます。できるだけ隠さずに情報を発表してください。このことを言いたくてお邪魔しました」
 あのころは30歳前後で、仕事にも自信がつき始めたころだった。だが、まだまだ青かった。よくもあんなことを言いに行ったものだとおもう。しかし、いまも企業や団体の広報に求める考え方は寸分も変わらない。
 この事件もはげしい取材合戦になったが、ぼくはほんの少ししか関与していない。ただ、最高責任者の総長にわかりきったことの念を押しに行った行動については、自分でも肯定している。
 地方にいるとなかなか体験できないが、政界を揺るがす疑獄事件や大きな社会的事件が明るみになると各社入り乱れての取材合戦が始まる。いったんそうなるとライバル各社に負けるなと取材は一気に熱を帯びて行く。毎日のようにどんどん新しい事実が出て来る。それがまた取材合戦をさらにはげしいものにする。記者たちの目は真っ赤になる。
 そういう先輩たちを間近に見てきたし、こんなことは当たり前で、ぼくも前年に発覚したダグラス・グラマン事件では、その疑惑の関係者のパンツの値段まで、近所人から聞き出したことがあった。
 だからこそ、最初の迅速な記者会見が大事なのである。記者会見は勝負の場なのだ。そこで少しでも言い逃れみたいなことをすると記者たちは黙っていない。調査報道が少なくなったことを懸念する声もあるが、いまもその伝統は続いているものと信じたい。
 ぼくはたいした記者ではなかったけれど、記者会見のニュースを目にするたびに、会見している人の「人物評定」をしてしまう。企業は人である。トップを見たら、どんな会社なのかわかってしまうのだ。

■近くの公園は明るい小さな森のようで、野鳥たちもやって来る。上空5メートルほどの高さのクスノキの枝には、鳥の巣箱がくくりつけられている。だれだか知らないが、こしらえた人の期待感も伝わって来る。
 だが、残念ながら野鳥たちのお気に召さないようで、きょうも空き家のままだ。

今年のわが家の流行語大賞2023年07月31日 10時44分

 昨日はうれしいことがあった。うれしくて、うれしくて、今日仕事を休んでいるカミさんと何度も昨日のことを繰り返し話しながら、そのうれしい余韻に浸っている。
 39歳になる長男が彼女を連れてやってきたのだ。個人のことをあれこれ書き立てるわけにはいかないので、その場のことを報告的にまとめるとー、
 息子はバツイチ、39歳。彼女は23歳のかわいい娘さん。昨日わが家に来た目的は「結婚します」の報告と「お腹に赤ちゃんがいます」ということだった。そして、わが家から車で10分足らずのところに新居を借りる手はずになっていること。息子はすでに先方のお母さんと弟とも一緒に食事をしていて、いい雰囲気でふたりの決断を受け入れてくれている。そういうことだった。
 その一つひとつがたまらなくうれしかった。
 しばらく前からふたりは同棲していたから、結婚するかもしれないな、とはおもっていたが、それはぼくたち夫婦の願望であって、どうしても年の差のことが気になっていた。
 父親が知ったら、おもしろくないだろな。チラリとそうおもったが、どこの家庭にもいろんな事情があることだし、もしもそうなったら、ここはぼくたち夫婦が盾になって、彼女の味方になればいいことだ。
 いちばん安心したのは、23歳の彼女の人柄である。これについてはいくらでも書けるし、書きたいのは山々なのだが、それにしても、よくもまぁ、16歳も年上の、それもバツイチで、社員とはいえ、安定した手堅い職業ともいえない安月給の料理人の男を好きになってくれたものだ。
 今朝、カミさんがうまいことを言った。
「お父さん、今年の××家の流行語大賞は、『よくぞ、好きになってくれました』、で決まりだね」
「ほんとだ。暗い言葉のすい臓癌とか、再発防止がそうだなと憂うつだったけど、ぜんぶ吹っ飛んだね。いっぺんに明るくなったね」
 わが家と似たような環境にある親御さんなら、わかってくれるだろうが、ホント、芯から安心した。息子にもようやく、いつかは来るはずの春が来た。
 まだ未婚の次男が控えているけれど、弟も「兄貴、よかっな」とよろこぶことはわかっている。おい、今度はお前の番だぞ、そう言ってやろう。
 赤ちゃんの誕生予定は来年1月のはじめ。無事に五体満足で生まれてほしい。切に、切に、そう願っている。
 今日のブログは書きたいことがいっぱいあり過ぎて、そこに踏み込んだら、短篇モノになりそうだから、書きたいのをぐっとこらえて筆を擱(お)く。

■ぼくたち夫婦が世話をしている花壇がたいぶ花壇らしくなってきた。ぼくたちの娘になってくれる気立てのいい娘さんに、この花壇のことを話したら、二人で仲良く並んでの帰りがけに、ここで立ち止まって花たちを見てくれていた。
 わが家には、もっとかわいい、これ以上はない花が咲いた。大切に、大切に見守っていこう。