幼い兄弟はかわいいな2023年10月02日 11時53分

「ちゃーん」。「ちゃーん」。
 声を張り上げている子どもの声が聞こえた。幼い声はすぐ近くから道路の方へと移動している。何やら追いかけている様子である。その先は車の多い道なので、ちょっと心配になって、窓から団地のなかの歩道を見下ろした。
 青い半そでのTシャツを着た4歳ぐらいの男の子が走っていた。5、6メートルほど後ろにはひとまわり小さな白いシャツの男の子もいた。前を行くのはお兄ちゃんなのだろう、細い腕を前後に振って懸命に追いかけているけれど、短い両足はいまにももつれて倒れそうである。ふたりの前方には初老の男性が立ち止まっていた。どうやらおじいちゃんの後を追ってきたらしい。
 こんな光景をみるのは久しぶりだなぁ。そうか、兄と弟か。わが家にもあんなことがあったよなぁと、二人の息子の幼いころを思い出した。
 長男と次男は2歳違い。下の子が歩いて10分ほどの保育園に通っていたころ、カミさんが家事で忙しいときのお迎えは小学生になったばかりの長男の役目だった。子ども用の自転車の後ろに保育園の制服を着た弟を乗せて、寄り道もせずに連れて帰ってくれた。そのあいだじゅう、弟はお兄ちゃんの背中をみていたことになる。
 兄が遊びにでかけるときは、弟もすぐ立ち上がって、くっついて出て行った。遊んでくれるのはいつも兄貴の同級生たちだった。といっても、そこにはちゃんと長幼の序があったようで、ときどき「あれを持ってこい」と命令されて、はぁはぁと荒い息を吐きながら、3階の家まで駆け上がってきて、バットやグローブをひっさげて、うれしそうにまた飛び出して行くシーンがよくあった。
 ぼくは姉とのふたり姉弟だったから、男の兄弟と遊んだり、喧嘩をしたことがない。結婚してはじめて授かった子は女の子だったが、誕生する直前にわが子を抱くたのしみも、よろこびも暗転してしまった。かわいい娘には恵まれなかったけれど、男の子がふたりいて、本当によかったとおもっている。
 そのハイライトのひとつは、弟が小学校に上がったときの運動会だった。兄は3年生になっていた。
 いよいよ新入生の弟が出場する番がきた。運動場に引かれた楕円形のラインにそって、ちびっ子たちが走り出した。縦長になった集団が生徒や親たちのいる応援席の前を駆けて行く。
 その走って行く先々で、「△△△!!」、「△△△!!」と下の息子の名前を力いっぱいに叫ぶいくつもの声が上がったのだ。まるでスピーカーでアナウンスされているようだった。
 予想もしないことだった。どうして1年生のうちの子をこんなに応援するのか、何が起きたのか、わからなかった。
 目をこらして生徒たちがいる応援席をみると、立ち上がっている生徒なかに見覚えのある顔がいた。
 お兄ちゃんの友だちだった。みんな弟をかわいがってくれている、仲のいいお兄ちゃんたちだったのだ。
 カミさんもこのときのことをはっきり覚えていて、すっかり姿形が変わり果てた息子たちのよき思い出をたどるひとコマになっている。
 ゴムの長靴をはいた幼い長男が水たまりのなかに入って、脚を上下にバシャバシャさせながら、「わーい、水の花火。水の花火」と騒いでいたことがあった。保育園に通っていた次男が急坂の山登りの途中で、飴玉を1個だけ口に入れたとたん、「飴は子どものキューピーゴールド!」と叫んで、たちまち元気を取り戻したこともあった。
 子育てに後悔することは多々あれども、幼いころのたのしさの数々を昨日のように思いだせるのは、せめてもの親の特権といったところか。

■道端でみつけたキンカンの丸い実。子どものころミカンの青い実をちぎって、カボスの代わりに使っていたぼくのおじさんがいた。年上の人たちにまじっているだけで、いろんなことを教えてもらった。

空を飛ぶ夢をみたい2023年10月15日 18時07分

 文章を書くときによく使う言葉がある。最近では「子ども」という名詞が多くなった。
 これも死と向き合ったことによる心境の変化なのだろうか。たいした事柄ではなくても、ぼくらの世代が歩いてきた道のりのなかで、未来に対して伝えることがある、その役割が残っている、そんな思いが強くなってきた。
 子どものころはできていたのに、二度とできなくなった能力がある。超能力と言った方がいいかもしれない。
 そのひとつが空を飛ぶ夢をみることだった。ところが、中学生のころからまったくみなくなってしまった。たぶん思い当たる人もいるのではとおもう。
 子どものころのぼくは、夢のなかでときどき空飛ぶ人間になった。高度数十メートルから数百メートルぐらいの空中にふわりと浮いていて、両手と両脚を大の字に広げて下界の様子をみながら、ゆっくり飛びまわっているのだ。
 いつも歩いている道路や家々の屋根瓦、友だちの農家の広い庭、その先にある芋畑や銀色に輝いている川や池などが眼の下を通り過ぎて行く。山や谷や海の上もパジャマを着たまま飛行した。眠っているはずなのに、わくわくドキドキして、大声で叫びたくなる快感のひとときだった。
 夢の研究で名高いフロイトのように精神分析や心理学の専門家なら、空を飛ぶ夢をみる原因やその根拠をたちどころに解明するのだろうが、子どものぼくにもなんとなく思い当たることがあった。そのころ漠然と感じていたことを言葉で表現すると-、
 空は身近なもうひとつの遊びの場だったのである。
 鹿児島の小さな港町にいた小学生時代には、まだ大人になる前のトンビの「太郎」を飼っていた。タローはぼくの自慢だった。茶色の翼を広げて、はるか頭上をゆっくり、ゆっくり、おおきく、おおきく、気持ちよさそうに旋回していた。「タローッ!」と呼ぶと、翼を広げたまま空からすべるように舞い降りて来た。地上と空でぼくたちはつながっていた。
 空中での遊びはほかにもあって、たいていの男の子は細い竹ヒゴ、紙、ゴムの紐、木製の薄いプロペラを組み合わせた模型飛行機を作っていた。形やバランスをあれこれ調整して完成した手作りの飛行機は、どんなできあいのオモチャよりも何倍も大切な宝モノだった。
 同級生たちもそれぞれの飛行機を手にして、小学校に通っていた。校舎のある土手の上から、15、6メートル下にあった広い運動場に向かって、みんなで飛ばしっこをするのだ。
 きりきり舞いして墜落する機もあったが、なかには風をつかまえて、グライダーのようにグラウンドの外まで飛んで行くものもあった。その先には漁船や自衛隊の艦船が係留されている港があって、錦江湾の青い海が静かに広がっている。こうして遊びほうけているうちに、大きな夕陽が海を赤く染めて、薄紫色にかすんでいる薩摩半島に沈んで行った。
 それらのすべてが美しかった。
 毎日走りまわって遊びながら、ぼくたちは知らず知らずのうちに五感を磨いていたのだとおもう。あの小学校も10年前に閉校になってしまった。
 雪国の田舎育ちのカミさんも、子どものころよく夢のなかで空を飛んだという。
 ところで、子どもならだれでも同じような夢をみる、というほど単純なものではないらしい。鹿児島から都会の小倉の小学校に転入したときのクラスには、空を飛んでいる夢を一度もみたことのない級友がいた。それも何人も。これには驚いてしまった。
 ふとおもう。いまの子どもたちは空を飛ぶ夢をみたことがあるだろうか。

■先日、久しぶりに高校時代の同級生ふたりに会って、昼間から約5時間、しゃべって飲んだ。この日のことはまた別の機会にふれるとして、ふたりから「なぁ、もっと書けよ」と言われた。
 友はありがたい。からだのことを気遣ってくれて、なかなかエンジンがかからなくなっていたやる気まで引っ張り出してくれた。
 写真は通りかがりにみつけたカササギの家族。こいつら、いいなぁ、いつでもそのまま空を飛べて。

「皆殺し」から学んだこと2023年10月24日 10時20分

 戦争の報道をみると胸が痛む。ウクライナに続いて、パレスチナでもミサイルや砲弾が飛び交っている。いったいどれだけの人々を殺せば、あるいは殺されれば戦争は終わるのか。
 現状は戦争を早く終結させるという名目の下、どちら側の陣営も軍備力の増強にひた走っている。自分の味方を増やそうとする動きも活発で、個と個の争いがたちまち数と数の勢力争いに拡大してきた。
 一部には停戦の働きかけもあるけれど、その裏には自国に火の粉が飛んで来ないようにという思惑もにおう。気の毒なのはいつも前線におかれている罪のない人たちである。
 「戦争とは、他の形態をもってする政治の継続である」。ここまで書いて、あの『戦争論』の本のなかにあるクラウゼヴィッツの有名な言葉を思い出した。
 政治と戦争の領域に足を踏み入れると際限のないテーマになる。それらの仕事は国際政治や軍事研究の専門家にお任せして、戦場をみるレンズの焦点を、ぼくたちと同じ立場にいる一般の人々の暮らしの場に絞り込んでみたい。
 戦争の体験者ではないが、ひとりの日本人として、どうしても言っておきたいことがある。
 アメリカ軍による沖縄侵攻、東京大空襲などの各都市の空襲、ヒロシマとナガサキへの人類初の原子爆弾の投下。
 あれはいったい、なんだったのか。
 ぼくはこれらのすべてが「皆殺し」を狙ったものだとおもっている。沖縄も、数々の大空襲も、原爆も、そこにいる人たちをだれかれの区別なく殺りくした。人々が生きている形跡さえ残さないほど猛烈な爆弾の雨を降らせた。もとよりアメリカ軍はそうなることを百も承知の上でやったのだ。
 なぜそこまでやったのか。
 よく知られているように、アメリカ軍は日本軍とはじめて戦って、日本人の優秀さを知った。また母子ともども玉砕する姿を目撃して、日本人は死を恐れない民族だと驚愕した。そこで日本人を心底おそれたアメリカがとった作戦は、日本人を根絶やしにすることだった。戦争を止めるために、平和を取り戻すために、原爆を落とすのは正しかった。そういう理屈である。
 そんな理屈でやられた方はたまったものではない。彼らは先住民のインディアンも皆殺しにしてきたことを付け加えておく。
 戦争の実態は敵を殺すこと。主たる攻撃の手段はミサイルや砲弾だから、皆殺しはどこでも起きる。まず、そのことを言っておきたい。
 日本は侵略行為をやった結果、最後は原爆を落とされて、皆殺しされる側の体験をした。ユダヤ人はヒトラーが率いるナチスから過酷きわまる同じ体験をした。そのユダヤ人はパレスチナの敵対勢力を狙って、子どもたちまで巻き込む皆殺しをやっている。
 日本は戦争を永久に放棄する憲法を制定した。ぼくはこの国に生まれて、本当によかったとおもっている。
 物ごとはいつもその反対側をみた方がいい。戦争も核兵器もそうで、戦争をやっている反対側には、戦争反対、即時停止を求めるおおぜいの声がある。核兵器使用の危機が迫る反対側には、同じように核兵器廃絶の運動が高まる。
 日本はどちらも反対側に立つことを憲法で世界に宣言している国である。最近の好戦的な風潮をみていると、こんな単純明快なことすら忘れられているのではないかとうすら寒くなる。
 「一畳一夢」の勝手気ままな想像力をもう少し書く。
 では、戦争を永久に放棄する憲法を持ち、世界で唯一の被爆国の日本が戦争反対、核兵器廃絶運動の真のリーダーになったら、何が起きるだろうか。
 馬鹿なことをするな。尖閣諸島をみろ。ウクライナをみろ。そんなことで国民の生命が守れるものか。軍備増強の増税を図ろうとしている岸田政権と歩調を合わせるように、猛反対が起きるに違いない。
 その反対側では、日本は反戦と平和をリードするアジアの先進国として、世界中から一目置かれる国になるだろう。国際的な発言力も格段に高まる可能性がある。そのことが間接的に国を防衛する力になることだってありえる。
 事実、憲法第9条があるからこそ、日本は戦争にまきこまれなかったし、海外での信頼も高いという指摘はずいぶんあるのだ。
 と、ここまで書いて、待てよ、そうなったら日本を盾にしてきたアメリカの方が困るのではないかとおもえてきた。
 また長くなりそうなので、このへんで止めよう。

■写真は、近くの道路脇でみつけたドングリの実。2個だけ拾って来て、机の上に置いている。爪先ではじいて、コマのように回転させてみた。すっくと立って、くるくるまわるはずなのに、子どものころのようにはうまくいかない。
 下手になったなぁ。 こんなことでも平和な日々を感じている。

その常識は間違いです2023年10月26日 09時45分

 軽(けい)でも気に入っている車のハンドルを握りながら、「えーっ、知らんかった。ホントかよ」とおもわず声が出た。
 過日たまたまつけたラジオから、こんな話が耳に飛び込んできたのだ。そのさわりをざっと再現すると-、
 -「士農工商」って、あるでしょ。江戸時代の身分制度で、すべての人を職業で4つに分けた。武士がいちばん偉くて、次が農民、その次が職人たち、いちばん下が商人いうもの。あれは間違いです。以前は学校の授業で間違いを教えていたんですね。いまの教科書ではそういう説明はしていません。
 ウソだろうとおもった。そしたら、次のパンチが飛んできた。
 -「参勤交代」って、あるでしょ。みなさんは、徳川幕府が各地の大名に、1年おきに領地と江戸を往復することを命じて、重い財政負担をかけることで、大名たちが幕府に反逆できないようにした。歴史の授業でそんなふうに習ったでしょ。あれも間違いです。幕府はそんなことは狙っていなかったんですね。
 ちょっと待て。いつからそうなったんだ。そんな話、聞いたことがないぞ。(インターネットで調べたら、そのとおりだった。信じられない人は、ご自分の目でご確認ください)
 恥ずかしながら、間違った解釈のまま生きてきた。でも、同じように思い込んでいる人はそこらじゅうにいらっしゃるとおもう。
 これまでも似たような話はちょくちょく耳にしてきたような気がする。
 たとえば、高校時代のクラブ活動では、「運動中は水を飲むな」という言い伝えがあった。足腰を鍛えるために、うさぎ跳びもやらされた。あの不自然な格好で、校舎内の階段をピョン、ピョン飛び跳ねながら登っているやつもいた。
 ずいぶん後になって、どちらも間違っていた、逆にからだにはよくなかったと知った。あんなにきつくて、苦しいことを、強くなるための練習だからと自分に言い聞かせてやって、バカみたいだった。
 ひと昔前までの医者は、風邪でもなんでも、ためらいなく抗生物質を出していたが、後から風邪に抗生物質は効かないことがわかった。食べ物でもタコやイカのように評価が一変したものがある。
 すぐには思いつかないけれど、そんな例はもっとあるだろう。
 さて、ぼくのような他人に影響を与えない恥は別として、士農工商と参勤交代の「間違った常識」のあおりを食った人たちは、いまごろどんな心境だろうか。その人たちとは歴史小説家や脚本家、時代劇の映画監督といった職業の人たちである。
 今さらあの小説や映画の時代設定は間違っていると贋作(がんさく)の烙印を押して、よくできた作品をお蔵入りさせるのは大きな損失だし、こちらとしても忍びない。
 いっそのこと、ここはよくあるシーンのように大上段に構えて、「元はと言えば、国の教育が間違っていたからだ。満天下の前で、よくも赤っ恥をかかせおったな。おのれ、この恨み晴らずにおくものか」とタンカを切るしかないか。
 そういえば歴史の教科書の内容も、ときの政権の意向で変わったことがあった。お隣の国では、あの天安門事件もなかったことにしてしまった。
 戦争や選挙で飛び交うプロパガンダや人をあざむくフェイクニュース、詐欺メール、AIで人の顔や声までそっくりに作り上げて、本人になりすます事件など、いまの世のなかは、いったいなにが真実で、なにがウソなのか、いよいよわかりにくくなってきた。
 そのうえ自分の正体はバレないようにして、人をだますことをおもしろがってやる者たちは世界中で跡を絶たないから、ますます始末が悪い。
 学校で習った「士農工商」や「参勤交代」のことぐらいで驚いてはいけないのかもしれない。

■夕食の準備の買い物のために、まわり道をしながら歩いていたら、住宅やアパートが立ち並んでいる狭い隙間に、秋の実りの季節をみつけた。黄金色の稲穂が生きている。
 持ち主の農家の人は、祖先代々から受け継いだ土地を、せめてここだけでも昔の形のままに残しておきたいのかな。そうか、この辺りはぜんぶたんぼだったんだ。

言葉で切り抜けていく2023年10月31日 18時33分

 誕生日はこの世に生まれたときから、生涯を伴走してくれる節目の日である。ぼくが生まれた10月は気候もよくて、一年中でも好きな月のひとつだ。
 実りの秋、味覚の秋、食欲の秋、芸術の秋、読書の秋、スポーツの秋など、いいとこ取りのオンパレードで、神無月は日本中の神様が出雲大社に勢ぞろいするというから、神様たちにとっては行楽の秋か。
 あれからもうすぐ1年になる。まさか10月の翌月の11月そうそうに、すい臓がんの宣告が待ち構えていようとは。いつか必ず訪れる死は不意を突いてすぐ目の前にひょっこり現れた。望んでいないことが起きるのはどうしようもないことだ。死期へと向かう足音もまたそうだった。
 今日は10月の終わり。明日から11月。昨年のいまごろ、「明」から「暗」に急変したときをおもいだす。ことしは「暗」を「明」に変える潮目になってほしい。
 井上ひさしはうまいことを言っている。
 -自分が悩みごとやさまざまなことで追いつめられたとき、言葉がいちばん、役に立つのです。
 言葉で切り抜けていくしかないのです。
 よく、あの人、頭がいいから文章を書く、という言い方を耳にしますが、そんなことは全然ありません。文章を書く、ということは、考えて書く、ということなんですね。-
 同じ意味のことを小林秀雄も、大江健三郎も書いている。彼らもよほどこのことを伝えておきたかったのだろう。こんな独り言みたいなブログしか書いていないが、その列の最後に並び続けようとおもう。
「ゆるしてください。もうしませんから」。そう手紙に書いて、親からの尋常ではない虐待で命を落とした女の子がいた。あの子もそうやって必死に戦っていたのだ。一生懸命に考えて書いた言葉が通じなかった無念さはいかばかりだったか。悔しいけれど、それもまた現実である。
 そんなことを思いめぐらせていた折りも折り、昨日の地元紙の朝刊になつかしい人をみつけた。
 宝塚歌劇団のトップスターだった安奈淳(76歳)。一世を風靡した、あの『ベルサイユのばら』の男役の主人公オスカルを演じた。
 どうしてなつかしいのかと言えば、週刊誌の記者時代、当時のエース・Tさんとコンビを組ませてもらって、安奈淳が出演していた『ベルばら東京公演』のルポをやったからだ。
 新聞の記事に戻る。彼女は53歳のとき体調が急激に悪化し、医者は周囲の人たちに「余命3日。お別れの会の準備を」と告げた。のちに珍しい難病だとわかった。薬の副作用に苦しんで、何度も死のうとしたという。そんな彼女を救ったのはふたりの友人だった。そして、たどり着いた彼女の心境を語る言葉が紙面に載っていた。
「死ななくてよかった。人は何かやるべきことがあるから生きている。元気なうちはだれかの役に立ち、自分も幸せになりたい」
 たびたび耳にする表現だが、彼女はこの言葉を胸に抱きしめて、これから先を切り抜けていくのだろう。
 同じく昨日は再発防止の化学療法の日だった。抗がん剤の点滴がはじまって半年が過ぎた。これまでに13回打たれた。幸いにして、がんが再発した兆候はないけれど、まだまだ先はみえない。
 こんな文章を書きつづるのも、この状況を自分の言葉で切り抜けていこうとしている、まっただなかにいるからだ。それもまた、たのしみだとおもって歩いて行こう。

■ベランダに吊り下げているトレニアの花に、かわいらしいトンボがやってきた。おや、いらっしゃいとうれしくなった。ちいさな幸せを運んでくれた。
 うん、きっといいことがある。