空を飛ぶ夢をみたい ― 2023年10月15日 18時07分

文章を書くときによく使う言葉がある。最近では「子ども」という名詞が多くなった。
これも死と向き合ったことによる心境の変化なのだろうか。たいした事柄ではなくても、ぼくらの世代が歩いてきた道のりのなかで、未来に対して伝えることがある、その役割が残っている、そんな思いが強くなってきた。
子どものころはできていたのに、二度とできなくなった能力がある。超能力と言った方がいいかもしれない。
そのひとつが空を飛ぶ夢をみることだった。ところが、中学生のころからまったくみなくなってしまった。たぶん思い当たる人もいるのではとおもう。
子どものころのぼくは、夢のなかでときどき空飛ぶ人間になった。高度数十メートルから数百メートルぐらいの空中にふわりと浮いていて、両手と両脚を大の字に広げて下界の様子をみながら、ゆっくり飛びまわっているのだ。
いつも歩いている道路や家々の屋根瓦、友だちの農家の広い庭、その先にある芋畑や銀色に輝いている川や池などが眼の下を通り過ぎて行く。山や谷や海の上もパジャマを着たまま飛行した。眠っているはずなのに、わくわくドキドキして、大声で叫びたくなる快感のひとときだった。
夢の研究で名高いフロイトのように精神分析や心理学の専門家なら、空を飛ぶ夢をみる原因やその根拠をたちどころに解明するのだろうが、子どものぼくにもなんとなく思い当たることがあった。そのころ漠然と感じていたことを言葉で表現すると-、
空は身近なもうひとつの遊びの場だったのである。
鹿児島の小さな港町にいた小学生時代には、まだ大人になる前のトンビの「太郎」を飼っていた。タローはぼくの自慢だった。茶色の翼を広げて、はるか頭上をゆっくり、ゆっくり、おおきく、おおきく、気持ちよさそうに旋回していた。「タローッ!」と呼ぶと、翼を広げたまま空からすべるように舞い降りて来た。地上と空でぼくたちはつながっていた。
空中での遊びはほかにもあって、たいていの男の子は細い竹ヒゴ、紙、ゴムの紐、木製の薄いプロペラを組み合わせた模型飛行機を作っていた。形やバランスをあれこれ調整して完成した手作りの飛行機は、どんなできあいのオモチャよりも何倍も大切な宝モノだった。
同級生たちもそれぞれの飛行機を手にして、小学校に通っていた。校舎のある土手の上から、15、6メートル下にあった広い運動場に向かって、みんなで飛ばしっこをするのだ。
きりきり舞いして墜落する機もあったが、なかには風をつかまえて、グライダーのようにグラウンドの外まで飛んで行くものもあった。その先には漁船や自衛隊の艦船が係留されている港があって、錦江湾の青い海が静かに広がっている。こうして遊びほうけているうちに、大きな夕陽が海を赤く染めて、薄紫色にかすんでいる薩摩半島に沈んで行った。
それらのすべてが美しかった。
毎日走りまわって遊びながら、ぼくたちは知らず知らずのうちに五感を磨いていたのだとおもう。あの小学校も10年前に閉校になってしまった。
雪国の田舎育ちのカミさんも、子どものころよく夢のなかで空を飛んだという。
ところで、子どもならだれでも同じような夢をみる、というほど単純なものではないらしい。鹿児島から都会の小倉の小学校に転入したときのクラスには、空を飛んでいる夢を一度もみたことのない級友がいた。それも何人も。これには驚いてしまった。
ふとおもう。いまの子どもたちは空を飛ぶ夢をみたことがあるだろうか。
■先日、久しぶりに高校時代の同級生ふたりに会って、昼間から約5時間、しゃべって飲んだ。この日のことはまた別の機会にふれるとして、ふたりから「なぁ、もっと書けよ」と言われた。
友はありがたい。からだのことを気遣ってくれて、なかなかエンジンがかからなくなっていたやる気まで引っ張り出してくれた。
写真は通りかがりにみつけたカササギの家族。こいつら、いいなぁ、いつでもそのまま空を飛べて。
これも死と向き合ったことによる心境の変化なのだろうか。たいした事柄ではなくても、ぼくらの世代が歩いてきた道のりのなかで、未来に対して伝えることがある、その役割が残っている、そんな思いが強くなってきた。
子どものころはできていたのに、二度とできなくなった能力がある。超能力と言った方がいいかもしれない。
そのひとつが空を飛ぶ夢をみることだった。ところが、中学生のころからまったくみなくなってしまった。たぶん思い当たる人もいるのではとおもう。
子どものころのぼくは、夢のなかでときどき空飛ぶ人間になった。高度数十メートルから数百メートルぐらいの空中にふわりと浮いていて、両手と両脚を大の字に広げて下界の様子をみながら、ゆっくり飛びまわっているのだ。
いつも歩いている道路や家々の屋根瓦、友だちの農家の広い庭、その先にある芋畑や銀色に輝いている川や池などが眼の下を通り過ぎて行く。山や谷や海の上もパジャマを着たまま飛行した。眠っているはずなのに、わくわくドキドキして、大声で叫びたくなる快感のひとときだった。
夢の研究で名高いフロイトのように精神分析や心理学の専門家なら、空を飛ぶ夢をみる原因やその根拠をたちどころに解明するのだろうが、子どものぼくにもなんとなく思い当たることがあった。そのころ漠然と感じていたことを言葉で表現すると-、
空は身近なもうひとつの遊びの場だったのである。
鹿児島の小さな港町にいた小学生時代には、まだ大人になる前のトンビの「太郎」を飼っていた。タローはぼくの自慢だった。茶色の翼を広げて、はるか頭上をゆっくり、ゆっくり、おおきく、おおきく、気持ちよさそうに旋回していた。「タローッ!」と呼ぶと、翼を広げたまま空からすべるように舞い降りて来た。地上と空でぼくたちはつながっていた。
空中での遊びはほかにもあって、たいていの男の子は細い竹ヒゴ、紙、ゴムの紐、木製の薄いプロペラを組み合わせた模型飛行機を作っていた。形やバランスをあれこれ調整して完成した手作りの飛行機は、どんなできあいのオモチャよりも何倍も大切な宝モノだった。
同級生たちもそれぞれの飛行機を手にして、小学校に通っていた。校舎のある土手の上から、15、6メートル下にあった広い運動場に向かって、みんなで飛ばしっこをするのだ。
きりきり舞いして墜落する機もあったが、なかには風をつかまえて、グライダーのようにグラウンドの外まで飛んで行くものもあった。その先には漁船や自衛隊の艦船が係留されている港があって、錦江湾の青い海が静かに広がっている。こうして遊びほうけているうちに、大きな夕陽が海を赤く染めて、薄紫色にかすんでいる薩摩半島に沈んで行った。
それらのすべてが美しかった。
毎日走りまわって遊びながら、ぼくたちは知らず知らずのうちに五感を磨いていたのだとおもう。あの小学校も10年前に閉校になってしまった。
雪国の田舎育ちのカミさんも、子どものころよく夢のなかで空を飛んだという。
ところで、子どもならだれでも同じような夢をみる、というほど単純なものではないらしい。鹿児島から都会の小倉の小学校に転入したときのクラスには、空を飛んでいる夢を一度もみたことのない級友がいた。それも何人も。これには驚いてしまった。
ふとおもう。いまの子どもたちは空を飛ぶ夢をみたことがあるだろうか。
■先日、久しぶりに高校時代の同級生ふたりに会って、昼間から約5時間、しゃべって飲んだ。この日のことはまた別の機会にふれるとして、ふたりから「なぁ、もっと書けよ」と言われた。
友はありがたい。からだのことを気遣ってくれて、なかなかエンジンがかからなくなっていたやる気まで引っ張り出してくれた。
写真は通りかがりにみつけたカササギの家族。こいつら、いいなぁ、いつでもそのまま空を飛べて。
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