おいしく食べる ― 2023年11月10日 15時41分

休みをとっていたカミさんと買い物に出かけた。行きつけのスーパーの魚売り場にハタが出ていた。カレイやサケ、ブリの切り身が並んでいるなかで、丸ごと1匹の赤と黄色の魚体がひときわうつくしい。15センチから20センチほどの2匹がパックになっていて、値段は560円。
「珍しいんじゃない、これ。ハタって、アラとは違うの?」
「違うけど、まぁ、同じ仲間だからな」
迷うことなくカミさんの手が伸びた。
「これにしようよ。夜は鍋にしよう」
即決だった。高級魚のアラ(クエ)やマハタよりも味はいくぶん落ちるけど、博多に住んでいてよかったなぁと感じるときだ。
さいわい魚のお腹の内臓は処理されていた。鍋にして食べやすいように、小ぶりの出刃の刃先を鋭くとがった赤い背びれにそって突き割いて、くし状の小さな骨ごと取り出した。切り口をきれいに仕上げないとせっかくの美形が台無しになる。頭を切り落とし、肉厚のところは3枚におろして、残りはぶつ切りにした。
包丁を手にして魚をさばくのは子どものころから見てきたし、おもしろくて好きである。いまどき魚を一匹まるごと買う人はあまりみかけないが、まるごと買う方がだんぜんお得なこともある。
魚屋さんは、魚のおいしいところを知っている。一匹まるごと販売する背景には、その魚や漁師さんへの敬意とお客に対するメッセージも込められているとおもう。「きれいにぜんぶ食べてね」。そんな声が聞こえる。このアカハタもたぶんそうだろう。
食通で鳴らした作家の開高健は、魚のいちばんうまいところは口先のまわりと書いていた。
若いころ、そのエッセイを読んだとき、おいおい、魚とキスでもしたいのかと笑ってしまったが、いったん刷り込まれた記憶はおそろしいものだ。ぼくも鍋の中からハタの頭を取り出して、その大きな口先のまわりの皮やゼラチン質をチューチューやって、小骨までしゃぶりつくした。
たしかに美味い。そして、これは男の食べ方だなとおもった。あの開高なら、「美人の魚の赤いぷっくりした唇にふるえるようなエロチズムを感じた。どうにも我慢ができなかった」とでも表現するのだろうか。(いくらなんでもそれはないか)。ともあれ、昨夜の鍋はなかなかのものであった。
東京にいたころの独身時代、休日には昼過ぎから下駄をはいて、歩いて15分ほどの寿司屋によく通ったものだ。
板前さんは飲み仲間のコウちゃんで、彼の寿司屋に行くのは客足が途絶えた午後2時半ごろ。いつも貸し切りである。まず生ビールの中ジョッキを空けて、それから常温の日本酒をやっていた。
こちらからは注文しない。黙っていても、最初にアワビの肝に、もみじおろしを添えた小鉢が出てくる。
初めてこの店を訪れたとき、つまみを注文する前に、「△△ちゃん、アワビの肝は好き?」と訊かれた。まもなく、「はい。これはぼくからのサービスね」と出されたのがアワビの肝だった。
独特の苦みとねっとりした濃厚な味わいのある緑色の肝は、アワビの身を貝殻から外さないと取り出せない。生きているアワビを、いわば1個犠牲にして、希少な珍味をサービスしてくれるのだ。田舎者のぼくがそのことをちゃんとわかっているのを、コウちゃんは知っていた。
その日、彼は手を休めずに、何かごそごそやっていて、次はマグロの中落ちが小皿の上に山盛りで出てきた。それからは何も言わず、聞かずのまま、ふたりのあいだでこのパターンが続いていた。もちろん、アワビの肝も、マグロの中落ちも、コウちゃんからの「友情の気持ち」である。
その厚意に応えたわけではないが、お銚子と盃でチビリチビリやるのが面倒くさくなって、途中で杉の升に取り替えてもらい、日本酒を何度もお代わりした。飲んだ量は3合や4合ではすまなかったはずだ。
締めくくりは別腹で握りをつまんで、会計は判で押したように2千円少々だった。こうしてぼくは仲良しの兄貴分の店で、昼間からいい心持ちになって、仕事のストレスを解消していた。
どうしてだかわからないが、めし屋や飲み屋での似たような体験はけっこうある。どこへ行っても、出される食べ物は何もかもおいしく、うれしそうに、ぜんぶきれいに食べていた。
地方から出てきて、うまそうに食って、うまそうに飲む若いやつがいる。それがよかったのかもしれない。
■ベランダにザルをふたつ置いて、陽に当てた。左は小カブのやわらかい葉っぱ、右はエノキ茸。カブの葉は塩もみにして漬物に。エノキは乾燥させて保存する。ヒマだから、こんなことをしている。(昨日の話です。今日は朝から雨。)
「珍しいんじゃない、これ。ハタって、アラとは違うの?」
「違うけど、まぁ、同じ仲間だからな」
迷うことなくカミさんの手が伸びた。
「これにしようよ。夜は鍋にしよう」
即決だった。高級魚のアラ(クエ)やマハタよりも味はいくぶん落ちるけど、博多に住んでいてよかったなぁと感じるときだ。
さいわい魚のお腹の内臓は処理されていた。鍋にして食べやすいように、小ぶりの出刃の刃先を鋭くとがった赤い背びれにそって突き割いて、くし状の小さな骨ごと取り出した。切り口をきれいに仕上げないとせっかくの美形が台無しになる。頭を切り落とし、肉厚のところは3枚におろして、残りはぶつ切りにした。
包丁を手にして魚をさばくのは子どものころから見てきたし、おもしろくて好きである。いまどき魚を一匹まるごと買う人はあまりみかけないが、まるごと買う方がだんぜんお得なこともある。
魚屋さんは、魚のおいしいところを知っている。一匹まるごと販売する背景には、その魚や漁師さんへの敬意とお客に対するメッセージも込められているとおもう。「きれいにぜんぶ食べてね」。そんな声が聞こえる。このアカハタもたぶんそうだろう。
食通で鳴らした作家の開高健は、魚のいちばんうまいところは口先のまわりと書いていた。
若いころ、そのエッセイを読んだとき、おいおい、魚とキスでもしたいのかと笑ってしまったが、いったん刷り込まれた記憶はおそろしいものだ。ぼくも鍋の中からハタの頭を取り出して、その大きな口先のまわりの皮やゼラチン質をチューチューやって、小骨までしゃぶりつくした。
たしかに美味い。そして、これは男の食べ方だなとおもった。あの開高なら、「美人の魚の赤いぷっくりした唇にふるえるようなエロチズムを感じた。どうにも我慢ができなかった」とでも表現するのだろうか。(いくらなんでもそれはないか)。ともあれ、昨夜の鍋はなかなかのものであった。
東京にいたころの独身時代、休日には昼過ぎから下駄をはいて、歩いて15分ほどの寿司屋によく通ったものだ。
板前さんは飲み仲間のコウちゃんで、彼の寿司屋に行くのは客足が途絶えた午後2時半ごろ。いつも貸し切りである。まず生ビールの中ジョッキを空けて、それから常温の日本酒をやっていた。
こちらからは注文しない。黙っていても、最初にアワビの肝に、もみじおろしを添えた小鉢が出てくる。
初めてこの店を訪れたとき、つまみを注文する前に、「△△ちゃん、アワビの肝は好き?」と訊かれた。まもなく、「はい。これはぼくからのサービスね」と出されたのがアワビの肝だった。
独特の苦みとねっとりした濃厚な味わいのある緑色の肝は、アワビの身を貝殻から外さないと取り出せない。生きているアワビを、いわば1個犠牲にして、希少な珍味をサービスしてくれるのだ。田舎者のぼくがそのことをちゃんとわかっているのを、コウちゃんは知っていた。
その日、彼は手を休めずに、何かごそごそやっていて、次はマグロの中落ちが小皿の上に山盛りで出てきた。それからは何も言わず、聞かずのまま、ふたりのあいだでこのパターンが続いていた。もちろん、アワビの肝も、マグロの中落ちも、コウちゃんからの「友情の気持ち」である。
その厚意に応えたわけではないが、お銚子と盃でチビリチビリやるのが面倒くさくなって、途中で杉の升に取り替えてもらい、日本酒を何度もお代わりした。飲んだ量は3合や4合ではすまなかったはずだ。
締めくくりは別腹で握りをつまんで、会計は判で押したように2千円少々だった。こうしてぼくは仲良しの兄貴分の店で、昼間からいい心持ちになって、仕事のストレスを解消していた。
どうしてだかわからないが、めし屋や飲み屋での似たような体験はけっこうある。どこへ行っても、出される食べ物は何もかもおいしく、うれしそうに、ぜんぶきれいに食べていた。
地方から出てきて、うまそうに食って、うまそうに飲む若いやつがいる。それがよかったのかもしれない。
■ベランダにザルをふたつ置いて、陽に当てた。左は小カブのやわらかい葉っぱ、右はエノキ茸。カブの葉は塩もみにして漬物に。エノキは乾燥させて保存する。ヒマだから、こんなことをしている。(昨日の話です。今日は朝から雨。)
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