山田太一の言葉2023年12月02日 17時43分

 脚本家の山田太一が亡くなった。晩酌の芋焼酎の水割りをやりながら、昨夜のテレビのニュースで知った。
「山田さんも亡くなったか。活躍していた人がどんどん亡くなるなぁ。次は倉本聰さんかな」
 カミさんにそう話したとたん、テレビにその倉本聰が出てきたのにはちょっとびっくりした。山田の思い出を語るにふさわしい人で、ふたりは「戦友」の仲だったという。
 ニュースでは生前の山田の元気な姿が映し出され、脚本家の仕事について、質問に答えている場面も放送された。芋焼酎の酔いがじわじわまわっていたし、そのとき彼が何をしゃべっていたのか、右から左へ忘れてしまった。録画で取り上げていた彼のコメントのインパクトが弱かったせいもある。
 あんなコメントよりも、本人はもっと伝えたい言葉があったはずだ。テレビ局の編集者はどうしてあのような月並みなインタビューの録画を選んだのだろうか。人が亡くなると、こうして大事なことも一緒にぜんぶ消えてしまう。そうおもったら、少しいらだたしくなった。
 山田太一が残した言葉のなかで、ぼくの記憶に残っているのはひとつだけである。そして、その言葉こそ、伝え残す価値があるとおもっている。
 それは新聞に載っていた彼のインタビュー記事のなかにあった。ずいぶん前のことだし、正確に再現できないが、こんな内容だった。
 そのころ山田は脚本を書くのを止めていた。小説へ比重を移しているころだった。重要なのは、超売れっ子だった脚本家の仕事をなぜ止めたのか、ということである。テレビのニュースでも、今日の地元紙の朝刊に載っていた山田の訃報記事でも、脚本に見切りをつけた理由について、まったく触れていない。
 山田はこんなことを言っていた。
「家族をテーマにしたドラマを見る人がいなくなったんです」
 その理由を彼はこう分析していた。
「家族のなかでも人の考えや価値観はそれぞれ違うし、平和そうに見える家庭でもさまざまな危機や葛藤を抱えています。でも、そんな人の心の奥底をさらすとか、嫌なもの、恐ろしいものを、いまの人々は見たくないんですね。
 原子力発電もそうです。使用済みの核燃料は安全に処理されずにどんどん溜まっていくばかり。このままではいつか破綻する。そのことはみんなわかっているんです。わかっているのに、怖いものは見たくないんです。家族をテーマにしたドラマもそうです。深刻なもの、怖いもの、そうものは嫌われるんですね。そんな世の中になってしまった」
 記憶違いかもしれないが、ほかにも年金問題とか、地球環境などの具体的な例をあげていた。ともかく、彼の言いたいことは明快だった。
「悪くなるのはみんなわかっている。わかっているのに、怖いものは見たくない。いまはそんな世の中になっている」
 彼の警告は今日でもいろんなことに当てはまるのではないか。どこにでもある小さな家族のドラマのシナリオを書きながら、山田太一の時代を見る目はいささかも曇っていなかったとおもう。
 代わりにと言っては僭越だが、彼のこの言葉は伝えておきたいので、ここに書き留めておく。
 いまテレビの番組はどのチャンネルに合わせても、またかというほどお笑い芸人が出ている。なかにはとてもお笑い芸人とはおもえない才人もいるが、たいていは時間つなぎのアクセント役というか、芸ごとで勝負するふうでもない。
 視聴率競争にあくせくしている番組制作人たちのあまりの「芸の無さ」には閉口してしまうが、山田太一の視線で眺めれば、なんとなく腑に落ちるところがある。
 よく時代を映しているなぁ、ということか。

■散歩の途中で出会ったみかんの木。塀を越えて、すぐ手の届くところに、よく熟れた見事な実をたわわにつけている。ガキのころなら、小躍りして黙って2、3個いただいていた。盗られる方もそれを覚悟していたところがあった。
 そんなことを思い出しながら、まわりにはだれもいなかったけれど、写真を撮るだけで我慢した。

取材とコメントのこぼれ話2023年12月06日 12時35分

「先日の発言は訂正させていただきます」
「誠心誠意、しっかり説明責任を果たして参ります」
 どちらもその真意は「これで幕引きします」の宣言に聞こえる。質問されても、これしか言わない。
 政治家たちの記者会見も殺風景になったものだ。記事にしてもおもしろくない。現場の記者たちは「文字にならない」ので困っているだろう。
 そこで前回の続きではないが、思いつくままに取材とコメントをめぐるエピソードを書くことにする。
 週刊誌の特集の場合、たとえば1行当たりの文字数は15字で、総行数は380行といった制約がある。コラムも行数が決まっている。必然的に足で稼いだ情報のほとんどを捨てることになる。時間をとって取材に協力してくれた人でも、ひと言も誌面に載らないことだってある。
 そんなわけで記事にしなかった情報のなかに、酒の肴になるような「生々しい肉声」がいくつも残っている。そちらの方がインパクトは強烈なこともある。
 事件の関係者が口にした言葉には気が重くなることもあった。ある殺人事件を起こした被疑者の父親からは、「書いたら、オレは必ず自殺するからな」と玄関の扉を開けたまま、鋭い目つきでにらみつけられた。
「女子大生の初めてのヌード」と銘打って、完全なヤラセ番組をでっちあげていたテレビの若手ディレクターは、「書くなよ。絶対に書くなよ」とすごんできた。彼の立場は理解できても、あまりにも視聴者をバカにしているのではないかと呆れかえったこともあった。
 意外に思われるかもしれないが、コメントを気にする職業と言えば、反射的に政治家の顔が浮かぶ。差しさわりのないように、ここでは故人の話をしておこう。
 警視総監から参議院議員になっていたコワモテのH議員は無所属ながら、まぎれもなく田中角栄元首相に寄り添っていた。その田中が逮捕されたロッキード事件では、日本側から米国の捜査機関に依頼した司法取引による、ロ社幹部への嘱託質問が決め手になった。司法取引とは正直に言えば罪を軽くするというもの。これが法曹界に賛否両論を巻き起こした。
 H議員は元警視総監ながら、「嘱託質問は違法だ」と反発していた人物である。検察は身内から反論の火の手があがったようなものだった。ちいさな記事にでもなればと考えて、さっそくH議員に取材を申し込んだ。そのてんまつを書いておく。
 参議院議員会館の彼の部屋で、1時間半ほどもやりあうことになった。H議員は持論の法律論争に巻きこもうとしてきた。だが、そのやり方は事件の本質から別のテーマに目をそらさせる狙いがみえみえだし、もとよりこちらは彼の拡声器になるつもりはない。
 さらに、その内容はすでにあちこちで記事になっている。貴重な時間を割いてもらって、同じ質問するのは相手に失礼だし、記者としても失格である。
 それでもH議員は自説を繰り返すばかりだった。私大(日大)卒の初めての警視総監で、都知事選にも担ぎ出された異色のキャリアの持ち主。ぼくは彼の夜の銀座の情報も握っていて、興味津々で会ったのだが、ひと言でいえば、怖いものなし、のタイプにみえた。
 それはそれで魅力的なのだが、検察の捜査を法律違反だと非難する声を聞いているうちに、取材であった警視庁の刑事たちの顔と重なって、ぼくのなかにある「警視総監」のあるべき姿との落差がだんだん大きくなってきた。そうなるとこちらも引けない。
 さんざんやりあって、編集部に戻り、おもしろくもない原稿を書こうとしていたとき、H議員の秘書から電話がかかってきた。
「うちの先生がもう一度、△△さんと話をしたいと言っています」
 あのころの政治家は若い記者でも対等に向き合ってくれた。一期一会のご縁だったが、彼もぼくを鍛えてくれたひとりだとおもっている。
 U元首相への取材もいっぷう変わっていた。出鼻からこうクギを刺してきたのだ。
「うちの秘書にも、この取材のメモを取らせますからね。こちらもきちんとメモを取っておかないとね」
 後日、念願の総理の椅子を仕留める人物は、そういってニヤリと笑った。この人、よっぽど自分の発言で痛い目にあった経験でもあるのかとおもった。
 U内閣はわずか2か月の短命に終わった。記憶に残っているのは在職中の実績ではなく、「指3本」の言葉が話題になった女性スキャンダルで、この情報をおおやけにしたのは当の愛人その人だった。取材中のコメントの管理には抜かりはなかったけれど、とんだところから秘密のひと言が漏れたわけである。
 ぼくの原稿を読んで、電話をかけてきた代議士もいた。面と向かって皮肉を言われたこともある。それだけ自分の発言がどんな扱いの記事になるのか、気にしていたのだとおもう。
「発言を撤回させていただきます」、「説明責任を果たして参ります」。
 この味もそっけもないセリフは連綿と受け継がれて、すっかり「日本の政治文化」になってしまった感がある。
 でも、ちゃんとわかっている人は多いはずだ。言い逃れをするその顔には、「わたしを簡単に信用してはいけません」と書いてある。

■柊(ひいらぎ)の枝に丸くて赤い、ちいさな実がたくさんついている。冬景色のなかにまたたく真っ赤な宝石のようで、ちょっとしたクリスマス気分にしてくれる。

幸運の持ち主の忘年会2023年12月14日 11時37分

 東京にいる学生時代の友から喪中ハガキが届いた。今年は少なくて、これが1枚目。多いときには5、6枚も来たことがある。文面にある故人は、祖父母や両親の世代はとっくに過ぎて、兄や姉、弟の代になってきた。
 いつもなら刻一刻と自分の番が近づいてきたなぁと感じるのだが、今年はすこしばかり違う。大病をくぐりぬけたせいか、自分の死をまだ先へ追い払ったような気持ちになっている。
 文字も図柄も黒一色のハガキをくれた友人M君に、何年ぶりかで電話した。儀礼上、彼への年賀状は出しにくいし、だからといって、なにも連絡をしないままでいるのは、友情に欠けるようで、この1年を締めくくる気持ちの整理がつかない。
 深刻な話でも、相手によっては気が楽になる、むしろ元気が出てくる。そういう人がいる。M君とはずっとそういう仲が続いている。学生時代から進退きわまったときに何度も助けてもらった。今回も期待どおりで、電話のやりとりも後味のよいものになった。
 M君は大学を中退して、ふたりの息子と一緒に品川区で町工場を経営している。最初に建てた自宅の敷地面積はわずか10坪だった。いまでは工場だけでも150坪を越える規模まで大きくしている。彼の研磨の技術力の評判は高い。廃業する同業者が多いなか、しっかりした後継者もいて、いつも不景気知らずだ。
「今度は孫を仕込んで、息子たちの後を継がせようとおもっている。頭が悪いんだから(決して、そんなことはありません)、大学を出てもしようがないし、それよりも技術を覚えた方がいいぞと話しているんだ」
「長男、次男と同じ路線だな。カネとかじゃなくて、継がせるもの(志とか、生きるための考え方。いちいち説明しなくても意味するところは通じ合っている)があるって、いいよな」
「息子たちも自分の得意技を身に着けたからね。若いから無理がきくし、オレよりも高い給料をとっているからね」
「いいねぇ。この先もたのしみだなぁ」
「△△もいろいろ書いて、どこかでまとめて本にすればいいとおもうよ」
「そんな才能はありません。でも、カネはないけど、オレって、すごく運がいい方なんだよな」
「よかったな。お前がいよいよ死にそうになったら、福岡まで会いに行くよ」
「止めてくれよ。おれは死神を追い返したんだからな。こうなったら、そんなに簡単には死なんよ。そんなことで会いに来てほしくないからな」
「ハッハッハ。よし、わかった。福岡まで遊びに行くよ」
 彼と話して、いっぺんに気が楽になった。そして、決めた。
 ガンなんて、どこにでもあることだ。なにも秘密めかして、隠すことはないのだ。それよりも、こうして元気になれることをみせた方が自分のためにもいいのだ、と。
 M君との電話を切ったあと、わけもなく積極的な気持ちになって、しばらく会っていない高校時代の同級生に電話を入れた。
 驚いたことに、その友人はぼくの病気のことを知っていた! ひと月前に、小倉にいるもうひとりの同級生に話したことが口伝てで広まっていたのだ。
「△△から聞いたんだけど、すい臓ガンだってね、大丈夫? 心配してたんだよ」
 ナアーンダ、ソウダッタノカ。ダッタラ、ホンニンノクチカラ、キチントハナサナイトイケナイナ。
 電話だから顔は見えない。元気なことをわかってもらえるには声の調子で伝えるしかない。そこで、ことさら大きな声を出して、明るく聞こえるように意識しながら、早口で答えた。
「声を聞いてわかるだろうけど、オレ、運がよくてさ。早期発見で、手術も成功して、ピンピンしてるよ」
 ウワサが広がっているとわかったので、その後、ふたりの同窓生にも電話した。ことのついでというか、勢いあまって、年明けの飲み会の約束までしてしまった。
 さて、きょうは午後1時から仲のいい先輩との「ふたり忘年会」が待っている。この人は口腔ガンで、なんと26時間もの大手術から凱旋している。
 年忘れは、幸運の持ち主同士の飲み会で締めくくり、というわけである。

■夕暮れが迫る師走の室見川。そこかしこに浮かんでいる小さな黒い点は、北の国からやって来たカモの家族たち。