団地の「空き室」をめぐる空騒ぎ ― 2024年08月06日 22時27分

歓喜と失望のもつれあいに振りまわされた。と言っても、ぼくではなくて、カミさんと年下の友人・Kさんのことである。彼女はひところカミさんと同じ職場で働いていて、いまでも付き合いがある。
ことの始まりは、土曜日の午前中に届いたKさんからのメールだった。
新築のときから27年間も住んでいる3LDKのマンションを処分して、移転先にはぼくたちと同じ団地の1階の空き室を考えている。今日、その内覧に行くので、お昼ごはんを一緒にしませんか、という誘いだった。
Kさんもかつてはこの団地で暮らしていたという。10数年前にご主人に先立たれて、ひと月前には実家の母親も亡くなった。息子は関東で就職して戻って来そうもなく、娘は近くで家庭を持っていて、ずっと独り暮らしが続いている。
住み慣れたマンションは老朽化が進み、2回目の補修工事の費用は1億円近くもかかる。駐車場などの維持費も結構な金額になる。くじ引きの結果、運悪く引き受けざるを得なかったマンションの理事長の役目は、女のくせにとバカにする男性もいるから、一日も早く辞めたくてたまらない。先々のことをよくよく考えたら、思い切ってマンションを売りに出して、そのおカネを元に身軽に暮らしたいということだった。(これらの事情はあとからカミさんが教えてくれた。)
歩いて5分ほどはなれた空き室の下見に付き合って、額に汗を浮かべて帰宅したカミさんの第一声は、「感動したあ!」だった。
「1階の2DKの部屋はね、段差なしのバリアフリーでね、すっごくきれいなの。フローリングから畳、キッチンシステム、洗面所、シャワートイレ、浴槽、タイルも壁紙も、もちろんぜんぶ新品よ。収納スペースは部屋の壁一面がそうなっていて、洋風ですっきりしているし、玄関とキッチンの仕切りはおしゃれな引き戸なの。あれなら車椅子でも移動しやすいよね。水まわりはどこも給湯式だし、ベランダのちょっと先の正面には大きな桜の木があって、部屋の中から花見もできるのよ。もう、すっごくいいところなんだから。気に入ったなぁ。あれで家賃は共益費込みで38,000円台よ。安いよね」
「Kさんが引っ越す部屋だろ。どうしてお前がそんなに興奮するの?」
「だって、よかったんだもの。私たちも歳をとったら、1階のバリアフリーに改装された部屋に引っ越そうよ。同じ団地内だから、敷金も要らないし。あーあ、いい部屋だったなぁ」
かなりほめ過ぎのきらいはあるものの、カミさんがこんなふうに感心するところが、ぼくたち夫婦の生活のレベルをよく表している。彼女にとっては、自分たちにも手が届く超掘り出しモノの物件なのだろう。
同様の声はほかにもいくつか聞いたことがある。高齢者を対象にしたバリアフリーの部屋は1階だけで、空き室が出るたびに順次、改装されている。築50年以上になるこの公団住宅も、ようやく時代のニーズにマッチしたヒット商品の誕生といったところか。
Kさんもおおいに気に入って、上機嫌で帰ったという。
翌日の朝、Kさんからメールが届いた。
「娘も賛成してくれたので、今朝、URに電話したら、先に契約した人がいました」
夢がいっぱい膨らんでいただけに、逃がした魚はあまりにも大きかった。ぼくまで、がっかり、である。
ところが、午後になって事態は急変した。
あの部屋のことを諦めきれないカミさんが性懲りもなくインターネットで団地の空き室情報を調べていたら、「まさか」が起きていた。同じ仕様の空き室があることを発見したのだ。よろこび勇んで、すぐKさんにメールで連絡した。
それから10分も経たないうちにまた異変が起きた。肝心の空き室情報がURのホームページからかき消えていたのである。
立て続けに二度も打ちのめされて、すっかり気落ちしたカミさんは、Kさんのスマホに「騒がせてごめんね」とお詫びのメールを送った。
ほどなく、彼女から返信が届いた。
「空き室の情報が消えたのは、わたしが契約したからです。娘からも同じ連絡があっので、すぐ契約を申し込みました」
まさか、こんな「話のオチ」が待っていようとは。
舞い上がったり、意気消沈したり、最後はガクッ! となって、ぼくたち夫婦はくたくたになった。親しい友だちと同じ団地で暮らすようになれるのも、口で言うほど簡単ではない。
■ハチの種類のなかで、子どものころから好きなのはミツバチとクマバチである。鹿児島にいたころ、クマバチはぼくたち男の子に人気があった。つややかな黒地と金色にかがやく、丸くておおきなからだは、ハチのなかでも別格で、恐る恐る近づいて、じっとその動きを観察するのがおもしろかった。いまでも見つけるたびに立ち止まってしまう。
ことの始まりは、土曜日の午前中に届いたKさんからのメールだった。
新築のときから27年間も住んでいる3LDKのマンションを処分して、移転先にはぼくたちと同じ団地の1階の空き室を考えている。今日、その内覧に行くので、お昼ごはんを一緒にしませんか、という誘いだった。
Kさんもかつてはこの団地で暮らしていたという。10数年前にご主人に先立たれて、ひと月前には実家の母親も亡くなった。息子は関東で就職して戻って来そうもなく、娘は近くで家庭を持っていて、ずっと独り暮らしが続いている。
住み慣れたマンションは老朽化が進み、2回目の補修工事の費用は1億円近くもかかる。駐車場などの維持費も結構な金額になる。くじ引きの結果、運悪く引き受けざるを得なかったマンションの理事長の役目は、女のくせにとバカにする男性もいるから、一日も早く辞めたくてたまらない。先々のことをよくよく考えたら、思い切ってマンションを売りに出して、そのおカネを元に身軽に暮らしたいということだった。(これらの事情はあとからカミさんが教えてくれた。)
歩いて5分ほどはなれた空き室の下見に付き合って、額に汗を浮かべて帰宅したカミさんの第一声は、「感動したあ!」だった。
「1階の2DKの部屋はね、段差なしのバリアフリーでね、すっごくきれいなの。フローリングから畳、キッチンシステム、洗面所、シャワートイレ、浴槽、タイルも壁紙も、もちろんぜんぶ新品よ。収納スペースは部屋の壁一面がそうなっていて、洋風ですっきりしているし、玄関とキッチンの仕切りはおしゃれな引き戸なの。あれなら車椅子でも移動しやすいよね。水まわりはどこも給湯式だし、ベランダのちょっと先の正面には大きな桜の木があって、部屋の中から花見もできるのよ。もう、すっごくいいところなんだから。気に入ったなぁ。あれで家賃は共益費込みで38,000円台よ。安いよね」
「Kさんが引っ越す部屋だろ。どうしてお前がそんなに興奮するの?」
「だって、よかったんだもの。私たちも歳をとったら、1階のバリアフリーに改装された部屋に引っ越そうよ。同じ団地内だから、敷金も要らないし。あーあ、いい部屋だったなぁ」
かなりほめ過ぎのきらいはあるものの、カミさんがこんなふうに感心するところが、ぼくたち夫婦の生活のレベルをよく表している。彼女にとっては、自分たちにも手が届く超掘り出しモノの物件なのだろう。
同様の声はほかにもいくつか聞いたことがある。高齢者を対象にしたバリアフリーの部屋は1階だけで、空き室が出るたびに順次、改装されている。築50年以上になるこの公団住宅も、ようやく時代のニーズにマッチしたヒット商品の誕生といったところか。
Kさんもおおいに気に入って、上機嫌で帰ったという。
翌日の朝、Kさんからメールが届いた。
「娘も賛成してくれたので、今朝、URに電話したら、先に契約した人がいました」
夢がいっぱい膨らんでいただけに、逃がした魚はあまりにも大きかった。ぼくまで、がっかり、である。
ところが、午後になって事態は急変した。
あの部屋のことを諦めきれないカミさんが性懲りもなくインターネットで団地の空き室情報を調べていたら、「まさか」が起きていた。同じ仕様の空き室があることを発見したのだ。よろこび勇んで、すぐKさんにメールで連絡した。
それから10分も経たないうちにまた異変が起きた。肝心の空き室情報がURのホームページからかき消えていたのである。
立て続けに二度も打ちのめされて、すっかり気落ちしたカミさんは、Kさんのスマホに「騒がせてごめんね」とお詫びのメールを送った。
ほどなく、彼女から返信が届いた。
「空き室の情報が消えたのは、わたしが契約したからです。娘からも同じ連絡があっので、すぐ契約を申し込みました」
まさか、こんな「話のオチ」が待っていようとは。
舞い上がったり、意気消沈したり、最後はガクッ! となって、ぼくたち夫婦はくたくたになった。親しい友だちと同じ団地で暮らすようになれるのも、口で言うほど簡単ではない。
■ハチの種類のなかで、子どものころから好きなのはミツバチとクマバチである。鹿児島にいたころ、クマバチはぼくたち男の子に人気があった。つややかな黒地と金色にかがやく、丸くておおきなからだは、ハチのなかでも別格で、恐る恐る近づいて、じっとその動きを観察するのがおもしろかった。いまでも見つけるたびに立ち止まってしまう。
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