花ドロボーを捕まえてみれば……2024年10月13日 19時27分

「お父さん、ちょっとあの人、怪しいんじゃない。ほら、あのお年寄りの女の人」
 北向きの窓辺に立っていたカミさんが指さす方を見たら、ぼくたちが世話をしている団地の花壇の前で、ひとりのお婆さんがトレニアの花に手を伸ばしていた。
「ちょっと行ってくる」
 急いで丸下駄をつっかけて階段を駆け下りた。
 ここ1週間ばかりの出来事が頭をよぎった。花盛りだった白やピンクの日日草も、可憐な赤い花がぽつぽつ開きはじめていたネメシアも、青紫色の小さな花が絨毯のように広がっていたトレニアも、新しい芽に青い花がほころんでいたブルーサルビアも、毎日のように根元から無残にへし折られて盗まれていた。
「またやられた。ひどいことするなぁ。いったいどこのどいつの仕わざだ」
 かわいがっていた花を盗られて、丸坊主のようにされた跡を見るたびに腹が立って、そんなやつのいることがつくづく嫌になってしまい、「よろこんでくれる人たちもいるけどな。もう花を育てるのは止めようか」とぼくたち夫婦は話していたのだ。
 あきらかに常習犯である。花壇のすぐ目の前にある5階建ての棟の窓から、3日続けて花ドロボーを目撃したご近所さんもいる。「オバサンですよ。盗った花をビニール袋に入れて、団地のなかへ歩いて行った」という証言もあった。
 どんな顔をしていたのか、根掘り葉掘り聞かなかった。同じ団地の住人に違いないので、ことを荒立てるようなまねはしたくない。そのオバサンを見た人も、年恰好などの細かい話まではしなかった。きっと同じ考えなのだとおもう。
 それでもこのまま放置していては、ますます図に乗るだろうし、一発言わずにはいられないという気持ちもあって、ぼくたちはときどき窓から花壇の様子をうかがっていたのである。そして、ついにそのときが来たというわけだ。
 急ぎ足で近づいてみると、背丈が140センチぐらいしかないオバアチャンだった。左の手にトレニアの花を数本握っていた。
 怒りを抑えて、ふつうに声をかけた。
「何をしてるの。花を盗ったら、いけないよ。ここの花はね、ぼくたち夫婦が苗を買ってきて、肥料をやって、夏場の暑い日も毎日水をやって、大事に育てているんだからね。この花を見て、きれいですねとよろこんでいる人もたくさんいるんだからね」
 オバアチャンは、あわてふためく様子はまったくなかった。
「ごめんなさい。主人が亡くなったの。お花を飾ってやろうとおもって」
 予想もしなかった返答に、とっさに言い返せなかった。
 とっくに80歳は過ぎている。こまかいシワだらけだが、幼い子どものような顔をしている。だが、どうも様子がおかしい。
「主人を亡くしたの。ごめんなさい。その白い花、もらえる? それからあの黄色い花もね」
「もう、しません」のひと言を求めているのに、ちいさな声で、「主人が亡くなったの」、「主人を亡くしたの」と言うばかり。
「わかった、わかった。採ってあげるから。花が欲しかったら、ぼくがいるときには声をかけてね。あのね、あなたが勝手にここの花を次から次に盗っているのを見た人は何人もいるの。はっきり言っておくけどね、あなたはね、ドロボーだとおもわれているんだよ。だからね、もう花を盗むのは止めて。ぼくがいたら、代わりに採ってあげるから。いいね、わかった?」
 オバアチャンは「ごめんなさい」と答えて、コクンとうなずいた。
 だが、ぼくの言っていることを、はたしてどこまで理解したかどうかははなはだ疑問である。
 3階にある部屋に戻ったら、ぼくたちの様子を見ていたらしいカミさんから声をかけられた。
「来て。見て、見て。いやだぁ。あのオバアチャン、立ったままオシッコしてるよ」
 目の前の道路脇に立っていた。足もとにはそこだけ短い草が生えている。白っぽいズボンを膝の下までおろして、少し腰をかがめた恰好で、あたりをうかがいながら用を足していた。
「あらあら。ちょっとボケてるみたいなんだ。なんだかかわいそうになったなぁ」
「あのおばあちゃん、ご主人が亡くなったのなら、きっと独りだよね。ガスの火の始末とか、大丈夫かなぁ。心配だなぁ」
 あのオバアチャンはボケていても、深い哀しみを抱えていた。あんなふうに叱らないで、もっと別の言い方があったのかもしれない。認知症の人を地域で見守るとはこういうことかとおもった。
 あんな調子では、さっきのこともすぐに忘れてしまうだろう。
 それでいい。また花を盗られることがあっても黙っておこう。
 カミさんも異論なし、だった。