花見と宮沢賢治 ― 2021年03月27日 10時35分

桜、満開。
昨日の正午ごろ、高校時代の友だちと一年ぶりに花見をたのしんだ。ぼくの住まいから数分で、ご覧の場所がある。あまり人が入って来ない小さな公園の木立ちの中に、コンクリート製のベンチがあって、目の前は見事な花ざかり。頭の上の桜の枝を見上げる必要もない、目線の高さで見物できる特等席である。
コロナ感染防止のために、ことしの福岡の花見の名所は宴会自粛で、この室見川の桜並木も人声が少なく、静かなものだ。ヒヨドリのうれしそうな鳴き声が晴れあがった青空に響く。
ここなら人もいないし、ここちよい風もあって、まわりの迷惑にならない。それを確認した上で、近くのスーパーで買ってきた惣菜を広げて、缶ビールと日本酒の紙パックを遠慮がちに取り出して、古希を過ぎた男同士のささやかな宴をはじめた。
腰が痛い、歯を抜かれた、目がかすむ。オイオイ、大丈夫か、という話が自然に口から出るのがナサケナイ。
そういえば、今朝、布団から起き上がったとき、なぜだかわからないが、突然、宮沢賢治の詩が浮かんで、大きな声で朗読した。
雨ニモマケズ
風ニモマケズ
雪ニモ夏ノアツサニモマケヌ
丈夫ナカラダヲモチ
慾ハナク
決シテ嗔(いか)ラズ
イツモシヅカニワラッテイル
どうして、こんな詩がポーンと出てきたのか、人間の脳とは不思議なものだ。
去年は酔っぱらって、木の根元に足をとられて、ドデーンとすっ転んだが、今年はちょっとふらふらするだけですんだ。お互いにコロナによる巣ごもり生活を続行中で、話はついつい連れ合いのことになる。
「女房の顔を見るのが嫌になった。お前の嫁さんはいいよな」
「お前こそ、若くてかわいい嫁さんをもらって、うまくやったじゃないか」
「俺、この5年間、毎日、晩飯の後片づけをやっているんだ。それなのに、節水しろ、節水しろ、とうるさいんだよな」
「俺だって、ずっと主夫だぜ。今夜も晩飯づくりだ」
「早く、コロナが落ち着いて、女房がまた仕事に出てくれないかなー」
「そうか、一日中、一緒なのか。俺のカミさんは今日も仕事だよ」
「いいなぁ、お前の嫁さんは」
まるで、一般的な亭主と女房の役割が入れ替わったような会話になるのがカナシイ。
桜を見ると、ことしも咲いたかとおもい、来年は見れるかなとおもう。もう一度、見せてあげたかったなぁという人は、ひとり、ふたりと多くなる。なぜか、桜の花は人を恋しくさせる。
「今度、俺の家に来いよ」
「おう、久しぶりに、かわいい嫁さんの顔を見に行こうかな」
「そのときには、お前も嫁さんを連れて来いよな」
最後に行きついたのは、どうやら、ふたりとも嫁さん無しではいられないということ。ホントニ、ナサケナイ。
賢治の詩の続きが途中でわからなくなって、ネットで調べたら、最後の方はこうだった。
ミンナニデクノボートヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ
サウイフモノニ
ワタシハナリタイ
ここまで読んで、今朝の起きがけの脳の不可解な働きについて、そういうことか、ぼくの心のなかに、賢治が望むような者になりたいという潜在願望があったのかと気がついた。
満開の一瞬の盛りのさなかに、春の嵐にたたかれて、ハラハラと惜しげもなく散ってしまう桜は、どこかで人生の無常感を誘う。
ぼくは眠っている間に、おそらく今日の花見の約束から、桜が散るシーンを無意識に思い描いていて、そのことが目覚めたときに口から出た「雨ニモマケズ」につながったのだろう。
賢治の詩の終わり方も、あくせくした生き様を超越した境地にいざなってくれる。ぼくは、この詩の最後のフレーズを読んで、一度では足りずに、何度も、何度も読み返した。
昨日の正午ごろ、高校時代の友だちと一年ぶりに花見をたのしんだ。ぼくの住まいから数分で、ご覧の場所がある。あまり人が入って来ない小さな公園の木立ちの中に、コンクリート製のベンチがあって、目の前は見事な花ざかり。頭の上の桜の枝を見上げる必要もない、目線の高さで見物できる特等席である。
コロナ感染防止のために、ことしの福岡の花見の名所は宴会自粛で、この室見川の桜並木も人声が少なく、静かなものだ。ヒヨドリのうれしそうな鳴き声が晴れあがった青空に響く。
ここなら人もいないし、ここちよい風もあって、まわりの迷惑にならない。それを確認した上で、近くのスーパーで買ってきた惣菜を広げて、缶ビールと日本酒の紙パックを遠慮がちに取り出して、古希を過ぎた男同士のささやかな宴をはじめた。
腰が痛い、歯を抜かれた、目がかすむ。オイオイ、大丈夫か、という話が自然に口から出るのがナサケナイ。
そういえば、今朝、布団から起き上がったとき、なぜだかわからないが、突然、宮沢賢治の詩が浮かんで、大きな声で朗読した。
雨ニモマケズ
風ニモマケズ
雪ニモ夏ノアツサニモマケヌ
丈夫ナカラダヲモチ
慾ハナク
決シテ嗔(いか)ラズ
イツモシヅカニワラッテイル
どうして、こんな詩がポーンと出てきたのか、人間の脳とは不思議なものだ。
去年は酔っぱらって、木の根元に足をとられて、ドデーンとすっ転んだが、今年はちょっとふらふらするだけですんだ。お互いにコロナによる巣ごもり生活を続行中で、話はついつい連れ合いのことになる。
「女房の顔を見るのが嫌になった。お前の嫁さんはいいよな」
「お前こそ、若くてかわいい嫁さんをもらって、うまくやったじゃないか」
「俺、この5年間、毎日、晩飯の後片づけをやっているんだ。それなのに、節水しろ、節水しろ、とうるさいんだよな」
「俺だって、ずっと主夫だぜ。今夜も晩飯づくりだ」
「早く、コロナが落ち着いて、女房がまた仕事に出てくれないかなー」
「そうか、一日中、一緒なのか。俺のカミさんは今日も仕事だよ」
「いいなぁ、お前の嫁さんは」
まるで、一般的な亭主と女房の役割が入れ替わったような会話になるのがカナシイ。
桜を見ると、ことしも咲いたかとおもい、来年は見れるかなとおもう。もう一度、見せてあげたかったなぁという人は、ひとり、ふたりと多くなる。なぜか、桜の花は人を恋しくさせる。
「今度、俺の家に来いよ」
「おう、久しぶりに、かわいい嫁さんの顔を見に行こうかな」
「そのときには、お前も嫁さんを連れて来いよな」
最後に行きついたのは、どうやら、ふたりとも嫁さん無しではいられないということ。ホントニ、ナサケナイ。
賢治の詩の続きが途中でわからなくなって、ネットで調べたら、最後の方はこうだった。
ミンナニデクノボートヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ
サウイフモノニ
ワタシハナリタイ
ここまで読んで、今朝の起きがけの脳の不可解な働きについて、そういうことか、ぼくの心のなかに、賢治が望むような者になりたいという潜在願望があったのかと気がついた。
満開の一瞬の盛りのさなかに、春の嵐にたたかれて、ハラハラと惜しげもなく散ってしまう桜は、どこかで人生の無常感を誘う。
ぼくは眠っている間に、おそらく今日の花見の約束から、桜が散るシーンを無意識に思い描いていて、そのことが目覚めたときに口から出た「雨ニモマケズ」につながったのだろう。
賢治の詩の終わり方も、あくせくした生き様を超越した境地にいざなってくれる。ぼくは、この詩の最後のフレーズを読んで、一度では足りずに、何度も、何度も読み返した。
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